小倉競輪場で争われた昨晩の第66回競輪祭の決勝。並びは菅田‐松谷の東日本,寺崎‐脇本‐村上の近畿,犬伏‐松浦‐荒井の西国で浅井は単騎。
スタートを取りにいったのは松浦と荒井と菅田の3人。松浦が誘導の後ろに入って犬伏の前受け。4番手に菅田,6番手に浅井,7番手に寺崎で周回。残り3周のホームの出口から寺崎が上昇。バックで犬伏と併走になりました。ホームで外から寺崎が前に出て,4番手に犬伏,7番手に浅井,8番手に菅田の一列棒状になって打鐘。ホームに戻って犬伏が巻き返していくと脇本が番手発進で対応。追い上げてきた犬伏が脇本の番手に嵌り,その後ろが内の村上と外の松浦で併走に。しかし併走の両者は前をいくふたりとの車間が開いてしまいました。直線に入っても脇本のスピードは衰えず,マークになった犬伏を振り切って優勝。マークの犬伏が1車身差で2着。村上の外を回った松浦が3車身差で3着。
優勝した福井の脇本雄太選手は9月の向日町記念以来の優勝。ビッグは3月のウィナーズカップ以来の11勝目。GⅠは2022年のオールスター競輪以来の8勝目。競輪祭は初勝利。このレースは寺崎が後ろからの周回になったので,前受けの犬伏を叩きにいくことになりました。そのときに犬伏が飛びつくのではなく,引いて巻き返すという戦法を採ったので,脇本が無風で番手を回れることに。犬伏の発進に合わせて番手から発進し,後ろに犬伏に入られてしまったのですが,小倉で1周くらいの先行であれば,自力型の犬伏に番手に入られてしまっても,余裕で振り切るだけの脚力があるということでしょう。犬伏は自分が勝つための戦法ですから,これはこれで悪くないと思いますが,脇本との差をほとんど詰められなかったのは課題といえそうです。
第九回の中で,今世紀に入ってから『エチカ』の草稿の写本が発見された事実について,詳しい講義が行われています。ここで改めてどういった事情であったのかということを確認しておくことにします。
このことが公になったのは,2011年の梅雨入り前であったと吉田はいっていますので,おそらく6月のことであったと推測されます。情報の発信源はオランダの新聞のウエブサイトだったそうです。その一報で明らかにされたのは,2010年の10月に,バチカンにある異端審問関係の資料の倉庫で,スピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊される以前に遡ることができる『エチカ』の手書きの原稿が発見されたというものでした。それは,スピノザ本人の自筆の草稿ではないものの,おそらく自筆の原稿から丁寧に写し取られた写本であるということまでそこでは伝えられていました。
吉田は話の大筋とは関係ないからということで講義の中では語っていませんが,この写本を書いたのはスピノザの友人でラテン語の優れた使い手であったピーター・ファン・ヘントです。これはヘントがホイヘンスに宛てた自筆の書簡が現存していて,その筆跡によって鑑定された結果ですから,歴史的事実であると解して大丈夫です。実際に写本が書かれたのは,こちらは想定で,1674年末か1675年初めとされています。かなり短い期間に特定されていますので,これも想定とはいえ,ほぼ歴史的事実と解して大丈夫でしょう。このあたりのことは『スピノザー読む人の肖像』に書かれていて,それを検討したときに書いていますので,より詳しいことはその部分を読み直してください。
この写本,吉田はバチカン写本と命名していますので,僕もここからヘントの手によるこの写本をバチカン写本ということにしますが,このバチカン写本は発見にたずざわったふたりの手によって,2011年の夏に貴重な資料として活字化されました。そしてバチカン写本が活字化されるにあたって,解説が付せられ,その解説によってバチカン写本の発見に関する諸事情も明らかにされたのです。ただしこの諸事情に関してもすでに説明してありますから,ここではそれを繰り返すことはしません。
スタートを取りにいったのは松浦と荒井と菅田の3人。松浦が誘導の後ろに入って犬伏の前受け。4番手に菅田,6番手に浅井,7番手に寺崎で周回。残り3周のホームの出口から寺崎が上昇。バックで犬伏と併走になりました。ホームで外から寺崎が前に出て,4番手に犬伏,7番手に浅井,8番手に菅田の一列棒状になって打鐘。ホームに戻って犬伏が巻き返していくと脇本が番手発進で対応。追い上げてきた犬伏が脇本の番手に嵌り,その後ろが内の村上と外の松浦で併走に。しかし併走の両者は前をいくふたりとの車間が開いてしまいました。直線に入っても脇本のスピードは衰えず,マークになった犬伏を振り切って優勝。マークの犬伏が1車身差で2着。村上の外を回った松浦が3車身差で3着。
優勝した福井の脇本雄太選手は9月の向日町記念以来の優勝。ビッグは3月のウィナーズカップ以来の11勝目。GⅠは2022年のオールスター競輪以来の8勝目。競輪祭は初勝利。このレースは寺崎が後ろからの周回になったので,前受けの犬伏を叩きにいくことになりました。そのときに犬伏が飛びつくのではなく,引いて巻き返すという戦法を採ったので,脇本が無風で番手を回れることに。犬伏の発進に合わせて番手から発進し,後ろに犬伏に入られてしまったのですが,小倉で1周くらいの先行であれば,自力型の犬伏に番手に入られてしまっても,余裕で振り切るだけの脚力があるということでしょう。犬伏は自分が勝つための戦法ですから,これはこれで悪くないと思いますが,脇本との差をほとんど詰められなかったのは課題といえそうです。
第九回の中で,今世紀に入ってから『エチカ』の草稿の写本が発見された事実について,詳しい講義が行われています。ここで改めてどういった事情であったのかということを確認しておくことにします。
このことが公になったのは,2011年の梅雨入り前であったと吉田はいっていますので,おそらく6月のことであったと推測されます。情報の発信源はオランダの新聞のウエブサイトだったそうです。その一報で明らかにされたのは,2010年の10月に,バチカンにある異端審問関係の資料の倉庫で,スピノザの遺稿集Opera Posthumaが発刊される以前に遡ることができる『エチカ』の手書きの原稿が発見されたというものでした。それは,スピノザ本人の自筆の草稿ではないものの,おそらく自筆の原稿から丁寧に写し取られた写本であるということまでそこでは伝えられていました。
吉田は話の大筋とは関係ないからということで講義の中では語っていませんが,この写本を書いたのはスピノザの友人でラテン語の優れた使い手であったピーター・ファン・ヘントです。これはヘントがホイヘンスに宛てた自筆の書簡が現存していて,その筆跡によって鑑定された結果ですから,歴史的事実であると解して大丈夫です。実際に写本が書かれたのは,こちらは想定で,1674年末か1675年初めとされています。かなり短い期間に特定されていますので,これも想定とはいえ,ほぼ歴史的事実と解して大丈夫でしょう。このあたりのことは『スピノザー読む人の肖像』に書かれていて,それを検討したときに書いていますので,より詳しいことはその部分を読み直してください。
この写本,吉田はバチカン写本と命名していますので,僕もここからヘントの手によるこの写本をバチカン写本ということにしますが,このバチカン写本は発見にたずざわったふたりの手によって,2011年の夏に貴重な資料として活字化されました。そしてバチカン写本が活字化されるにあたって,解説が付せられ,その解説によってバチカン写本の発見に関する諸事情も明らかにされたのです。ただしこの諸事情に関してもすでに説明してありますから,ここではそれを繰り返すことはしません。