ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがいう蜘蛛の意志というのがどういう意志であるのかということを説明したときに,このような考え方に最も大きな影響を受けたのはフーコーMichel Foucaultだと思われるといいました。フーコーについて少しだけ紹介しておきましょう。
フーコーはフランス人で,1926年に産まれました。1946年に高等師範大学に入学し,1950年に大学教員の資格試験を受けましたが不合格。高等師範学校の教員であったアルチュセールLouis Pierre Althusserからの支援を受け,フランス共産党に入党。しかし1953年には離党しました。ただしアルチュセールとの関係はその後も続きました。ニーチェを精読したのは1952年になってから。その後に大学教員試験に合格し,1953年にリール大学の助手に採用されました。フーコーには多くの著作があり,日本語で読めるものもたくさんあります。僕が代表作だと思っているのは『言葉と物Les mots et les choses』で,これは1966年に出版されています。そして1970年にはコレージュ・ド・フランスの教授に就任しました。
こうした経歴から分かるように,『主体の論理・概念の倫理』の考察の対象となり得る人物です。実際にその中には何度も名前が出ているのですが,フーコーに関連したまとまった考察というのはありませんし,人物の略歴紹介にも登場していません。これはおそらく,フーコーの著作の中にはスピノザに対する言及というのが多くないということが影響しているのだと思います。つまりフーコーがニーチェから受けた影響と対比すればスピノザから受けた影響というのはごくわずかなものだということになります。よってこのブログでも,こうした機会がなければ紹介することはありませんでした。
僕が代表作だといった『言葉と物』にはスピノザへの言及が2か所あります。しかしひとつはデカルトRené DescartesおよびマルブランシュNicolas de Malebrancheの思想と並べられる形であり,もう1か所もデカルトの思想と並列されています。こうしたことからも,フーコーがスピノザからはさほどの影響を受けていないということが分かると思います。
スピノザの哲学を学ぶのには役立ちませんが,『言葉と物』は名著だと思います。読了するのは量的に大変ですが,興味があればチャレンジしてください。
すでにいったように,僕は『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』を読んでいません。ですからこの部分は,河合がコラムに書いていることを,僕が再構成したものです。ただしコラムは『新科学対話』をそのまま抜き書きしているわけではありませんから,この部分が対話の中の弟子の質問として書かれているのか,それともこの当時の科学における無限infinitumという量の一般的な考え方として書かれているのかは不明です。それでも,こうした考え方,すなわち長い線の中にある点の無限量は,それより短い線の中にある点の無限量より大であるということは,確かにこの当時の科学における一般的な考え方であったようです。
これに対してサルヴィヤチSalvyachiは,それを否定する考え方を示しています。サルヴィヤチはガリレイGalileo Galileiの分身なのですから,これはガリレイ自身がそれを否定していたと解して間違いないでしょう。河合はガリレイのいう新科学というのが,静力学から動力学への移行であるとみなしていて,この部分のガリレイの否定についてもそのラインで解することができるようですが,単純にこの点だけをみて,それまでの科学の常識をガリレイは覆しているという観点から,ガリレイの科学を新科学とみなしていいように僕には思えます。他面からいえば,ただこの一点だけをみても,ガリレイが自身の科学をそれまでの科学とは異なった新しい科学であると自負する理由となり得るように僕には思えます。
これに関するサルヴィヤチの言及はおおよそ次のようなものです。もちろんこれも,河合がコラムの中に記していることの,僕自身による再構成です。
まずサルヴィヤチは,長い線の中にある点の無限量とか短い線の中にある無限量というようなことを考えるconcipereこと自体をしてはいけないのだといっています。そしてこのような困難が生じてしまう理由というのは,有限なfinitumものにとっての性質,僕たちが経験的に知ることができるような有限finitumであるものがもっている性質を,無限であるものに対しても押し付けようとするからだとしています。そもそも大きいとか小さいとかあるいは相等しいといったことは,有限なものには通用する性質であるにしても,無限なものには通用しないのです。
フーコーはフランス人で,1926年に産まれました。1946年に高等師範大学に入学し,1950年に大学教員の資格試験を受けましたが不合格。高等師範学校の教員であったアルチュセールLouis Pierre Althusserからの支援を受け,フランス共産党に入党。しかし1953年には離党しました。ただしアルチュセールとの関係はその後も続きました。ニーチェを精読したのは1952年になってから。その後に大学教員試験に合格し,1953年にリール大学の助手に採用されました。フーコーには多くの著作があり,日本語で読めるものもたくさんあります。僕が代表作だと思っているのは『言葉と物Les mots et les choses』で,これは1966年に出版されています。そして1970年にはコレージュ・ド・フランスの教授に就任しました。
こうした経歴から分かるように,『主体の論理・概念の倫理』の考察の対象となり得る人物です。実際にその中には何度も名前が出ているのですが,フーコーに関連したまとまった考察というのはありませんし,人物の略歴紹介にも登場していません。これはおそらく,フーコーの著作の中にはスピノザに対する言及というのが多くないということが影響しているのだと思います。つまりフーコーがニーチェから受けた影響と対比すればスピノザから受けた影響というのはごくわずかなものだということになります。よってこのブログでも,こうした機会がなければ紹介することはありませんでした。
僕が代表作だといった『言葉と物』にはスピノザへの言及が2か所あります。しかしひとつはデカルトRené DescartesおよびマルブランシュNicolas de Malebrancheの思想と並べられる形であり,もう1か所もデカルトの思想と並列されています。こうしたことからも,フーコーがスピノザからはさほどの影響を受けていないということが分かると思います。
スピノザの哲学を学ぶのには役立ちませんが,『言葉と物』は名著だと思います。読了するのは量的に大変ですが,興味があればチャレンジしてください。
すでにいったように,僕は『新科学対話Discorsi e dimostrazioni matematiche, intorno a due nuove scienze attenenti alla mecanica ed i movimenti locali』を読んでいません。ですからこの部分は,河合がコラムに書いていることを,僕が再構成したものです。ただしコラムは『新科学対話』をそのまま抜き書きしているわけではありませんから,この部分が対話の中の弟子の質問として書かれているのか,それともこの当時の科学における無限infinitumという量の一般的な考え方として書かれているのかは不明です。それでも,こうした考え方,すなわち長い線の中にある点の無限量は,それより短い線の中にある点の無限量より大であるということは,確かにこの当時の科学における一般的な考え方であったようです。
これに対してサルヴィヤチSalvyachiは,それを否定する考え方を示しています。サルヴィヤチはガリレイGalileo Galileiの分身なのですから,これはガリレイ自身がそれを否定していたと解して間違いないでしょう。河合はガリレイのいう新科学というのが,静力学から動力学への移行であるとみなしていて,この部分のガリレイの否定についてもそのラインで解することができるようですが,単純にこの点だけをみて,それまでの科学の常識をガリレイは覆しているという観点から,ガリレイの科学を新科学とみなしていいように僕には思えます。他面からいえば,ただこの一点だけをみても,ガリレイが自身の科学をそれまでの科学とは異なった新しい科学であると自負する理由となり得るように僕には思えます。
これに関するサルヴィヤチの言及はおおよそ次のようなものです。もちろんこれも,河合がコラムの中に記していることの,僕自身による再構成です。
まずサルヴィヤチは,長い線の中にある点の無限量とか短い線の中にある無限量というようなことを考えるconcipereこと自体をしてはいけないのだといっています。そしてこのような困難が生じてしまう理由というのは,有限なfinitumものにとっての性質,僕たちが経験的に知ることができるような有限finitumであるものがもっている性質を,無限であるものに対しても押し付けようとするからだとしています。そもそも大きいとか小さいとかあるいは相等しいといったことは,有限なものには通用する性質であるにしても,無限なものには通用しないのです。
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