しらさぎ賞を勝ったツーシャドーの3代母の父は1989年のJRA賞で最優秀父内国産馬に選出されたバンブービギンです。もうだいぶ古い時代の馬ですが,僕の競馬キャリアの中の馬ではありますので,ここで紹介しておきます。父は1982年のJRA賞の最優秀3歳牡馬のバンブーアトラス。この馬は僕の競馬キャリアより前の馬なので,このブログでは紹介しません。
デビューは2歳の11月。なかなか勝ち上がることができず,7戦目となる3歳の5月に初勝利をあげました。すると400万以下,900万以下と特別戦も連勝。9月の神戸新聞杯で2着になると,10月の京都新聞杯で重賞を制覇しました。この勢いで菊花賞に出走するとこれも制覇。大レースの勝ち馬になりました。ただ残念ながらこの菊花賞が現役最後のレースに。JRA賞の最優秀父内国産馬に選出されて引退となっています。
素質が開花するのは遅くなりましたが,初勝利をあげて以降は重賞2着が1回あっただけでそれ以外は菊花賞も含めて全勝。古馬との対戦がありませんでしたから,能力の上限がどれほどだったのかは分かりませんが,それを見せないままに引退ということで,競走馬としてはまだ未知の能力を秘めていたといえるでしょう。
種牡馬としてはほとんど成功していません。ツーシャドーの3代母はJRAで3勝をあげた牝馬ですが,今後も名前が出ることがあれば,その牝馬の子孫ということになるのではないでしょうか。
スピノザの哲学では理性ratioは第二種の認識cognitio secundi generisとされています。これとは別に第三種の認識cognitio tertii generisというのがあって,スピノザはこちらの方を最高の認識としています。このことはたとえば第五部定理二五から明らかだといわなければなりません。一般的な哲学の伝統では,理性が最高の認識とされていますので,スピノザの哲学は必ずしもその伝統に則していないということになります。
しかし僕はこの國分の指摘に対しては,次のことの方を強調しておきたいです。
一般に理性というのは,人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによる刺激と独立した思考です。スピノザの哲学でもこの点は変わるところはありません。理性的認識とは,共通概念notiones communesを基礎とした推論のことをいうのであって,この推論というのは人間の身体が外部の物体によって刺激されるafficiその刺激状態の観念ideaからは独立しているからです。別のいい方をすれば,たとえ人間の身体が外部の物体によって何らの刺激を受けるafficiことはないと仮定したとしても,この推論はその人間の精神mens humanaのうちで完結する思考ですから,その人間の精神さえ存在すれば,その人間がなし得る思惟作用であるのです。
ただし,この推論の基礎となるのが共通概念なのですから,もし現実的に存在する人間の精神のうちに共通概念が存在しないというように仮定をすれば,その人間は理性的認識をすることは不可能であるということになります。しかるにこの共通概念というのは,現実的に存在する人間の身体が外部の物体によって刺激されるからこそ,その人間の精神のうちに生じてくる思惟の様態cogitandi modiなのです。このことは,第二部定理三九で,人間の身体が刺激されるのを常とするいくつかの外部の物体といわれていることから明らかです。したがって,理性的認識そのものは人間の身体が外部の物体によって刺激されるということからは独立した思考であったとしても,人間の精神がそのような思考をすることができるのは,現実的に存在する人間の身体が外部の物体に刺激されることによって,その人間の精神のうちに共通概念が形成されるからなのです。この意味では理性は,人間の身体の刺激状態から独立したような思惟作用であるとはいえないのです。
デビューは2歳の11月。なかなか勝ち上がることができず,7戦目となる3歳の5月に初勝利をあげました。すると400万以下,900万以下と特別戦も連勝。9月の神戸新聞杯で2着になると,10月の京都新聞杯で重賞を制覇しました。この勢いで菊花賞に出走するとこれも制覇。大レースの勝ち馬になりました。ただ残念ながらこの菊花賞が現役最後のレースに。JRA賞の最優秀父内国産馬に選出されて引退となっています。
素質が開花するのは遅くなりましたが,初勝利をあげて以降は重賞2着が1回あっただけでそれ以外は菊花賞も含めて全勝。古馬との対戦がありませんでしたから,能力の上限がどれほどだったのかは分かりませんが,それを見せないままに引退ということで,競走馬としてはまだ未知の能力を秘めていたといえるでしょう。
種牡馬としてはほとんど成功していません。ツーシャドーの3代母はJRAで3勝をあげた牝馬ですが,今後も名前が出ることがあれば,その牝馬の子孫ということになるのではないでしょうか。
スピノザの哲学では理性ratioは第二種の認識cognitio secundi generisとされています。これとは別に第三種の認識cognitio tertii generisというのがあって,スピノザはこちらの方を最高の認識としています。このことはたとえば第五部定理二五から明らかだといわなければなりません。一般的な哲学の伝統では,理性が最高の認識とされていますので,スピノザの哲学は必ずしもその伝統に則していないということになります。
しかし僕はこの國分の指摘に対しては,次のことの方を強調しておきたいです。
一般に理性というのは,人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusによる刺激と独立した思考です。スピノザの哲学でもこの点は変わるところはありません。理性的認識とは,共通概念notiones communesを基礎とした推論のことをいうのであって,この推論というのは人間の身体が外部の物体によって刺激されるafficiその刺激状態の観念ideaからは独立しているからです。別のいい方をすれば,たとえ人間の身体が外部の物体によって何らの刺激を受けるafficiことはないと仮定したとしても,この推論はその人間の精神mens humanaのうちで完結する思考ですから,その人間の精神さえ存在すれば,その人間がなし得る思惟作用であるのです。
ただし,この推論の基礎となるのが共通概念なのですから,もし現実的に存在する人間の精神のうちに共通概念が存在しないというように仮定をすれば,その人間は理性的認識をすることは不可能であるということになります。しかるにこの共通概念というのは,現実的に存在する人間の身体が外部の物体によって刺激されるからこそ,その人間の精神のうちに生じてくる思惟の様態cogitandi modiなのです。このことは,第二部定理三九で,人間の身体が刺激されるのを常とするいくつかの外部の物体といわれていることから明らかです。したがって,理性的認識そのものは人間の身体が外部の物体によって刺激されるということからは独立した思考であったとしても,人間の精神がそのような思考をすることができるのは,現実的に存在する人間の身体が外部の物体に刺激されることによって,その人間の精神のうちに共通概念が形成されるからなのです。この意味では理性は,人間の身体の刺激状態から独立したような思惟作用であるとはいえないのです。
ドクタースパートはみているので,この世代の産駒はみていることになります。