久留米競輪場で行われた第31回全日本選抜競輪の決勝。並びは新田‐渡辺‐佐藤‐菊地の北日本,脇本‐稲垣‐村上の近畿で近藤と岩津は単騎。
新田がスタートを取ってそのまま前受け。5番手に脇本,8番手に岩津,最後尾に近藤という周回に。残り2周のホームの手前から脇本が一気に上昇。新田は引いて岩津まで4人が前に。乗り遅れた近藤もバックで上がって5番手に入り,6番手が新田の一列棒状となって打鐘。新田は残り1周のホームに入る前からは早々と巻き返していきました。ホームの出口のあたりで稲垣が牽制。稲垣と新田が併走状態でバックに入りましたが,さらに牽制をしようとした稲垣が自らバランスを崩して落車。村上と岩津も巻き込まれました。新田はそのまま脇本の前に出たのですが,早くから脚を使ったためか牽制で自転車に問題が生じたのか不明ですが明らかに失速気味。後ろからの動きはなかったので渡辺は番手で待っていたものの直線の入口では自然に先頭に出る形。そこから一気に踏み込むと後ろを離していき優勝。マークの佐藤が3車身差で2着。新田も2車身差の3着に残って北日本ラインで上位独占。
優勝した福島の渡辺一成選手は昨年6月の取手記念など,記念競輪は過去に6勝していますがGⅠはこれが初優勝。ビッグは2012年の共同通信社杯以来の2勝目。このレースは稲垣の反応が少しだけ遅れたため,番手から発進するのではなく牽制するようなレースになったのではないでしょうか。先に出られていると村上が牽制する形になった筈で,レースもまた違ったものになっていたものと思われます。ほぼ直線だけで後ろを離してしまったように,瞬間的なダッシュ力は超一流。その持ち味が最大限に生きる展開になっての優勝だったといえるでしょう。
マルタンによるフェルメールの絵画とスピノザの哲学の関係のさせ方に僕は疑問を感じているのですが,このことはもしかしたら『フェルメールとスピノザ』だけに特有に該当するわけではないかもしれません。むしろもっと一般的な意味において,スピノザとフェルメールを関連付けようとする見解のすべてに対して,これから僕が示そうとすることは妥当する可能性を含みます。たとえば「豚のロケーション」では,異なった観点からスピノザとフェルメールの近似性について言及されていて,僕が示すこととは無関係であるとも解せると思いますが,実はそちらにも波及するという余地は残ると思われます。
「豚のロケーション」において高山が示している近似性というのは,曇りのない目でものを視るということです。高山がいうにはフェルメールの絵画というのは背後にある物語性の一切を排除し,空間の絵画的構造だけに鑑賞者を対面させるものだそうです。スピノザが神Deusから人格の剥奪を行ったのは,神の背後にある物語性のすべてを消去する営みであったというのが高山の見解です。そして同時代のレーウェンフックの顕微鏡学というのは,レーウェンフック自身が著書の序文で述べていることからして,想像する力を必要としないものです。ここに高山はこの三者の共通性を見出すのです。
僕は絵画という芸術作品の鑑賞能力はありませんから,高山がフェルメールについて語っていることが妥当であるかどうかは判断できません。ただ,レーウェンフックが顕微鏡学によって探求しようとしていたことのうちに,スピノザの哲学との間にある共通点があることは是認できます。というのは,想像力を排除して顕微鏡で視ることができるものだけをありのままに視るというこの姿勢は,混乱した観念idea inadaequataを否定して十全な観念を肯定するスピノザの姿勢と明らかに一致していると僕には思えるからです。他面からいえば第一部公理六にあるように,対象ideatumと一致するものだけを真のものとみなし,そこから逸脱するものについては容赦なく虚偽falsitasないしは誤謬errorとみなそうという態度において,レーウェンフックとスピノザとの間には,暗黙の一致があるように思うのです。
新田がスタートを取ってそのまま前受け。5番手に脇本,8番手に岩津,最後尾に近藤という周回に。残り2周のホームの手前から脇本が一気に上昇。新田は引いて岩津まで4人が前に。乗り遅れた近藤もバックで上がって5番手に入り,6番手が新田の一列棒状となって打鐘。新田は残り1周のホームに入る前からは早々と巻き返していきました。ホームの出口のあたりで稲垣が牽制。稲垣と新田が併走状態でバックに入りましたが,さらに牽制をしようとした稲垣が自らバランスを崩して落車。村上と岩津も巻き込まれました。新田はそのまま脇本の前に出たのですが,早くから脚を使ったためか牽制で自転車に問題が生じたのか不明ですが明らかに失速気味。後ろからの動きはなかったので渡辺は番手で待っていたものの直線の入口では自然に先頭に出る形。そこから一気に踏み込むと後ろを離していき優勝。マークの佐藤が3車身差で2着。新田も2車身差の3着に残って北日本ラインで上位独占。
優勝した福島の渡辺一成選手は昨年6月の取手記念など,記念競輪は過去に6勝していますがGⅠはこれが初優勝。ビッグは2012年の共同通信社杯以来の2勝目。このレースは稲垣の反応が少しだけ遅れたため,番手から発進するのではなく牽制するようなレースになったのではないでしょうか。先に出られていると村上が牽制する形になった筈で,レースもまた違ったものになっていたものと思われます。ほぼ直線だけで後ろを離してしまったように,瞬間的なダッシュ力は超一流。その持ち味が最大限に生きる展開になっての優勝だったといえるでしょう。
マルタンによるフェルメールの絵画とスピノザの哲学の関係のさせ方に僕は疑問を感じているのですが,このことはもしかしたら『フェルメールとスピノザ』だけに特有に該当するわけではないかもしれません。むしろもっと一般的な意味において,スピノザとフェルメールを関連付けようとする見解のすべてに対して,これから僕が示そうとすることは妥当する可能性を含みます。たとえば「豚のロケーション」では,異なった観点からスピノザとフェルメールの近似性について言及されていて,僕が示すこととは無関係であるとも解せると思いますが,実はそちらにも波及するという余地は残ると思われます。
「豚のロケーション」において高山が示している近似性というのは,曇りのない目でものを視るということです。高山がいうにはフェルメールの絵画というのは背後にある物語性の一切を排除し,空間の絵画的構造だけに鑑賞者を対面させるものだそうです。スピノザが神Deusから人格の剥奪を行ったのは,神の背後にある物語性のすべてを消去する営みであったというのが高山の見解です。そして同時代のレーウェンフックの顕微鏡学というのは,レーウェンフック自身が著書の序文で述べていることからして,想像する力を必要としないものです。ここに高山はこの三者の共通性を見出すのです。
僕は絵画という芸術作品の鑑賞能力はありませんから,高山がフェルメールについて語っていることが妥当であるかどうかは判断できません。ただ,レーウェンフックが顕微鏡学によって探求しようとしていたことのうちに,スピノザの哲学との間にある共通点があることは是認できます。というのは,想像力を排除して顕微鏡で視ることができるものだけをありのままに視るというこの姿勢は,混乱した観念idea inadaequataを否定して十全な観念を肯定するスピノザの姿勢と明らかに一致していると僕には思えるからです。他面からいえば第一部公理六にあるように,対象ideatumと一致するものだけを真のものとみなし,そこから逸脱するものについては容赦なく虚偽falsitasないしは誤謬errorとみなそうという態度において,レーウェンフックとスピノザとの間には,暗黙の一致があるように思うのです。
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