アラビアの怪人ことシークがブッチャーと仲間割れをしたのは1979年の12月。世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦のことでした。試合自体は成立して,相手だったファンクスのフォール勝ち。そして試合後に両者が言い争った挙句,シークの方からブッチャーに火炎攻撃を仕掛けていきました。この試合も僕はプロレスクラシックで視ていますが,何となく唐突なものに感じられました。こういういい方が適切であるかどうかは分かりませんが,プロレスにおける仲間割れとして,不自然な仲間割れであったと思います。
ふたりは翌春に揃って来日。1980年5月2日に遺恨の決着をつけるべく,後楽園ホールでシングルマッチで対戦しました。
ところがこの試合は意外な方向に展開します。当時,全日本プロレスは土曜の午後5時半から放送されていました。時間の関係で生中継はありませんでしたが,これは注目の試合ということでカメラが入っていました。試合中にブッチャーが実況を担当していた倉持隆夫アナウンサーにやたらとちょっかいを出すと,シークもこれに呼応。ふたりに標的にされた倉持アナウンサーは,シークの凶器攻撃を受け,額から大流血。試合はノーコンテストで終わりました。
録画されていたわけですが,あまりに凄惨ということで放映は控えられ,ようやく日の目を見たのは10年以上後。これも僕は視ていますが,どうしてこういうことになったのか,さっぱりわけが分からない試合でした。ごくまれにプロレスではそうしたことが起こるのですが,この試合の謎は最近になるまでずっと解けなかったのです。
スピノザの哲学では,意志作用というのは十全な観念にだけ該当するのではなく,混乱した観念の意志というのもあります。したがって,ここでは尿意というのを表象像と規定したわけですが,当然ながらこの尿意にもそれを肯定するような意志作用というのがあるということになります。そこで,尿意を肯定する意志というのがどのような思惟の様態であるのかということを次に考えていくことにします。
しかしこれをいうためには,尿意という表象像がどのような表象像であるのかということを先に知っておかなければなりません。といいますのも,たとえばペガサスの観念の場合でいうなら,ペガサスの表象像というものが,翼のある馬の表象像であるということを知っていなければ,馬に対して翼を肯定する意志というのが,ペガサスの表象像を肯定するのか肯定しないのかということは分からないからです。このことはそもそもテーマとなっている第二部定理四九系から,一般的にいえることでしょう。
そこでまず第一に,僕は尿意というのを,表象の種類のうち,知覚と考えます。すなわちこれは想起でも想像でもないということです。実際の考察の上では実はこの分類は不要だと思うのですが,ここでいう尿意が知覚であるということには,とくに反論は出ないだろうと思いますから,第二部定理一七のみで説明できるという便宜性から,知覚であると規定します。
ただし,実際には尿意というのは,外部の物体の知覚というよりは,自分の身体のある状態についての知覚という方が正しいでしょう。したがってここで援用するべき定理は,第二部定理一七であるというよりは,第二部定理一九であるということはいえます。ただこの定理の証明は,第二部定理一七の証明の外部の物体に該当する部分を第二部定義二の意味から自分の身体に当てはめただけですので,どちらを用いたとしてもさしたる障害は生じないということはいえると思います。
ふたりは翌春に揃って来日。1980年5月2日に遺恨の決着をつけるべく,後楽園ホールでシングルマッチで対戦しました。
ところがこの試合は意外な方向に展開します。当時,全日本プロレスは土曜の午後5時半から放送されていました。時間の関係で生中継はありませんでしたが,これは注目の試合ということでカメラが入っていました。試合中にブッチャーが実況を担当していた倉持隆夫アナウンサーにやたらとちょっかいを出すと,シークもこれに呼応。ふたりに標的にされた倉持アナウンサーは,シークの凶器攻撃を受け,額から大流血。試合はノーコンテストで終わりました。
録画されていたわけですが,あまりに凄惨ということで放映は控えられ,ようやく日の目を見たのは10年以上後。これも僕は視ていますが,どうしてこういうことになったのか,さっぱりわけが分からない試合でした。ごくまれにプロレスではそうしたことが起こるのですが,この試合の謎は最近になるまでずっと解けなかったのです。
スピノザの哲学では,意志作用というのは十全な観念にだけ該当するのではなく,混乱した観念の意志というのもあります。したがって,ここでは尿意というのを表象像と規定したわけですが,当然ながらこの尿意にもそれを肯定するような意志作用というのがあるということになります。そこで,尿意を肯定する意志というのがどのような思惟の様態であるのかということを次に考えていくことにします。
しかしこれをいうためには,尿意という表象像がどのような表象像であるのかということを先に知っておかなければなりません。といいますのも,たとえばペガサスの観念の場合でいうなら,ペガサスの表象像というものが,翼のある馬の表象像であるということを知っていなければ,馬に対して翼を肯定する意志というのが,ペガサスの表象像を肯定するのか肯定しないのかということは分からないからです。このことはそもそもテーマとなっている第二部定理四九系から,一般的にいえることでしょう。
そこでまず第一に,僕は尿意というのを,表象の種類のうち,知覚と考えます。すなわちこれは想起でも想像でもないということです。実際の考察の上では実はこの分類は不要だと思うのですが,ここでいう尿意が知覚であるということには,とくに反論は出ないだろうと思いますから,第二部定理一七のみで説明できるという便宜性から,知覚であると規定します。
ただし,実際には尿意というのは,外部の物体の知覚というよりは,自分の身体のある状態についての知覚という方が正しいでしょう。したがってここで援用するべき定理は,第二部定理一七であるというよりは,第二部定理一九であるということはいえます。ただこの定理の証明は,第二部定理一七の証明の外部の物体に該当する部分を第二部定義二の意味から自分の身体に当てはめただけですので,どちらを用いたとしてもさしたる障害は生じないということはいえると思います。
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