21日と22日に有馬温泉で指された第56期王位戦七番勝負第二局。
羽生善治王位の先手で角換り相腰掛銀。広瀬章人八段は6筋の位を取ってから穴熊を目指しました。その瞬間に先手が4筋から仕掛ける将棋。僕は最近は多くの棋譜を調べていないので分からないのですが,6筋の位を取って穴熊にするという後手の作戦は狙いがよく理解できず,違和感がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/27/f8c72ac72085d2ca1a1c1a7c133f608b.png)
仕掛けが機敏ですでに先手が十分といえそう。なので5四の金を守るのもあると思うのですが,ヒモをつけつつ▲4三銀と打ち込んでいきました。
22日はその局面だけアクセスできたのですが,そのときは先手はここまでする必要があるのかなと思っていました。
△4三同歩▲同歩成△3一金▲4四金。ちょっと変化する余地はなさそうです。
手番を得た後手は△8六歩と反撃。▲同歩に△9五歩と突きました。先手は放置して▲3四金。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/9b/c8aedb65f0501e0c91c76d09ce273e1e.png)
これが▲2四歩からの攻めをみた厳しい手。一直線に攻め合っては勝てない後手は受けに回りましたが,先手玉を攻めるための十分な手数を稼ぐことはできませんでした。結局は第1図で▲4三銀と打っていくのが最も分かりやすい勝ち方であったということなのでしょう。
羽生王位が連勝。第三局は来月5日と6日です。
ライプニッツはひと月ほどアムステルダムに滞在していたそうです。この後,スピノザに会うことになっていましたから,そのための下準備を兼ねていたものと推測します。フッデやシュラーといった人たちに会ったのは,その一環であったのかもしれません。
アムステルダムを発ったライプニッツは,まずデルフトに向い,レーウェンフックを訪問しました。そこで何が話し合われたのかは分かりません。この会見がライプニッツにとって実りあるものであったのかどうかも不分明です。
レーウェンフックというのは基本的に独学の人でした。なのでイギリス王立協会に観察記録を送付してはいたのですが,それはオランダ語で書かれていたようです。もしかしたらレーウェンフックは,母国語であるオランダ語以外には習得している言語がなかったのかもしれません。一方,ライプニッツはキャリアからして,オランダ語に堪能であったとは思えません。ですからふたりきりだと,コミュニケーションを図るのにも苦労を要した可能性はあります。ただ,ライプニッツがそうしたことをまったく知らないでレーウェンフックを訪問するということは考えにくいですから,意志の疎通がまったく図れなかったということはさすがにないであろうと想像します。
もしレーウェンフックが本当にオランダ語しかできなかったと仮定すると,このことはスピノザとの間でも問題になりそうです。スピノザはオランダ産まれでしたが,幼い頃は家庭ではポルトガル語,学校ではスペイン語そして進学後はヘブライ語だったので,オランダ語はよくできませんでした。ファン・ローンも,1656年,破門の直後にスピノザの傷を治療したとき,それ以前に会ったスピノザのオランダ語はあまりうまくなかったと書いています。ただしこれはまだスピノザが20代の頃の話ですから,年を重ねていくに連れ,多少は上達したでしょう。それでもスピノザはラテン語では書きましたがオランダ語では書かず,オランダ語にする場合には友人に翻訳を依頼していたのですから,ある程度のコミュニケーションを取れる程度にはなったかもしれませんが,得意な言語ではなかった筈です。
羽生善治王位の先手で角換り相腰掛銀。広瀬章人八段は6筋の位を取ってから穴熊を目指しました。その瞬間に先手が4筋から仕掛ける将棋。僕は最近は多くの棋譜を調べていないので分からないのですが,6筋の位を取って穴熊にするという後手の作戦は狙いがよく理解できず,違和感がありました。
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仕掛けが機敏ですでに先手が十分といえそう。なので5四の金を守るのもあると思うのですが,ヒモをつけつつ▲4三銀と打ち込んでいきました。
22日はその局面だけアクセスできたのですが,そのときは先手はここまでする必要があるのかなと思っていました。
△4三同歩▲同歩成△3一金▲4四金。ちょっと変化する余地はなさそうです。
手番を得た後手は△8六歩と反撃。▲同歩に△9五歩と突きました。先手は放置して▲3四金。
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これが▲2四歩からの攻めをみた厳しい手。一直線に攻め合っては勝てない後手は受けに回りましたが,先手玉を攻めるための十分な手数を稼ぐことはできませんでした。結局は第1図で▲4三銀と打っていくのが最も分かりやすい勝ち方であったということなのでしょう。
羽生王位が連勝。第三局は来月5日と6日です。
ライプニッツはひと月ほどアムステルダムに滞在していたそうです。この後,スピノザに会うことになっていましたから,そのための下準備を兼ねていたものと推測します。フッデやシュラーといった人たちに会ったのは,その一環であったのかもしれません。
アムステルダムを発ったライプニッツは,まずデルフトに向い,レーウェンフックを訪問しました。そこで何が話し合われたのかは分かりません。この会見がライプニッツにとって実りあるものであったのかどうかも不分明です。
レーウェンフックというのは基本的に独学の人でした。なのでイギリス王立協会に観察記録を送付してはいたのですが,それはオランダ語で書かれていたようです。もしかしたらレーウェンフックは,母国語であるオランダ語以外には習得している言語がなかったのかもしれません。一方,ライプニッツはキャリアからして,オランダ語に堪能であったとは思えません。ですからふたりきりだと,コミュニケーションを図るのにも苦労を要した可能性はあります。ただ,ライプニッツがそうしたことをまったく知らないでレーウェンフックを訪問するということは考えにくいですから,意志の疎通がまったく図れなかったということはさすがにないであろうと想像します。
もしレーウェンフックが本当にオランダ語しかできなかったと仮定すると,このことはスピノザとの間でも問題になりそうです。スピノザはオランダ産まれでしたが,幼い頃は家庭ではポルトガル語,学校ではスペイン語そして進学後はヘブライ語だったので,オランダ語はよくできませんでした。ファン・ローンも,1656年,破門の直後にスピノザの傷を治療したとき,それ以前に会ったスピノザのオランダ語はあまりうまくなかったと書いています。ただしこれはまだスピノザが20代の頃の話ですから,年を重ねていくに連れ,多少は上達したでしょう。それでもスピノザはラテン語では書きましたがオランダ語では書かず,オランダ語にする場合には友人に翻訳を依頼していたのですから,ある程度のコミュニケーションを取れる程度にはなったかもしれませんが,得意な言語ではなかった筈です。
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