被災地支援競輪として開催された佐世保記念の11日の決勝。並びは新山‐神山の東日本,郡司‐小埜‐石井‐武井の南関東,稲垣‐中川の西日本で香川は単騎。
稲垣がスタートを取って前受け。香川が3番手に入り,4番手に新山,6番手に郡司の周回に。残り2周のホームの入口から郡司が上昇。新山も応戦はしたもののホームでは郡司が稲垣を叩いて前に。うまく対応した稲垣が5番手に入り香川は7番手。新山が8番手の隊列に。バックに入ると郡司が本格的に発進して打鐘。稲垣がホームから発進しようとしましたが無理とみて自重。ここで香川がインを上昇していたため5番手が香川と稲垣で併走のような形に。バックに入ると後ろから動かれる前に小埜が番手発進。稲垣もまた踏もうとしましたが石井の牽制もあって失速。小埜が先頭で直線に入りましたが番手の石井が差して優勝。小埜が4分の3車身差の2着で千葉のワンツー。ホームで稲垣が動こうとしたときに連結を外し,最後尾から自力で大外を強襲した中川が4分の3車身差で3着。
優勝した千葉の石井秀治選手は2014年10月の大垣記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは注目ポイントがみっつ。まず郡司が自分が勝つレースをするのか,マークした自力ある千葉勢を引き出す競走をするのかという点。次に郡司の先行になるにしても新山がどの程度まで抵抗するのかという点。そして西日本で結束しなかった香川の南関東分断作戦があるのかという点。結果的に郡司が発進したときに新山があまり抵抗できず,香川も分断策には出なかったので,打鐘の時点で千葉勢にはかなり有利なレースに。小埜がバックから発進したので,やはり自力のある石井にはかなり有利になりました。南関東勢の結束がもたらした優勝といえるでしょう。ただ,現時点の力関係だけでいえば郡司は優勝候補なのであって,決勝で小野や石井のために捨て身の競走をするランクの選手ではないという感想を個人的には有します。
個物res singularisが現実的に存在する限りは,より完全なものとそれに比して完全でないものが存在することをスピノザは認めます。つまり完全性perfectioに優れた物体corpusもあればそれより劣った物体があることを認めます。また,完全性に優れた精神mensもあれば完全性に劣った精神もあるということを認めます。何度もいっていますが,スピノザの哲学では,すべてのものが精神を有することになっているので,後者の場合,論理的には人間の精神をほかのものの精神と比較する場合にも有効ですし,現実的に存在するある人間と別の人間の精神を比較する場合にも有効です。そして実際の人間観として問題となるのはこの部分でしょう。いい換えれば,個物が神の属性に包容されている場合については,人間観の相違として,スピノザと異なった見解をもつ人には,さほどの興味がないことではないかと思います。
スピノザが第五部定理四〇のように主張することについて,僕はその意味を次のように解します。ここでスピノザは,働きをなすagereほど,すなわち能動actioが多いほど完全で,働きを受けるpatiほど,つまり受動passioが多いほど完全ではなくなるといっています。これを人間の精神について考察すれば,ここでスピノザがいっていることがもっともだということが理解できます。なぜなら,第三部定理三は,精神の能動Mentis actionesが生じる観念は十全な観念であり,精神の受動passionesが生じる観念は混乱した観念であるということを示しています。しかるにスピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念の関係は,単に前者が真理veritasであり後者が虚偽falsitasであるということだけを意味するのではありませんでした。同時に有と無の関係をも意味するのです。したがって,精神の能動が生じるのが有である十全な観念であるのに対し,精神の受動が生じるのは,それ自体でみれば無である混乱した観念であるということになります。つまり精神の能動というのは実在的なものから生じるのに対して,精神の受動は,その人間の精神とだけ関連付けられるなら実在的なものからは生じないのです。そして完全性の尺度は実在性です。よって精神は働きをなすほど完全で,働きを受けるほど完全ではなくなるということが帰結します。
稲垣がスタートを取って前受け。香川が3番手に入り,4番手に新山,6番手に郡司の周回に。残り2周のホームの入口から郡司が上昇。新山も応戦はしたもののホームでは郡司が稲垣を叩いて前に。うまく対応した稲垣が5番手に入り香川は7番手。新山が8番手の隊列に。バックに入ると郡司が本格的に発進して打鐘。稲垣がホームから発進しようとしましたが無理とみて自重。ここで香川がインを上昇していたため5番手が香川と稲垣で併走のような形に。バックに入ると後ろから動かれる前に小埜が番手発進。稲垣もまた踏もうとしましたが石井の牽制もあって失速。小埜が先頭で直線に入りましたが番手の石井が差して優勝。小埜が4分の3車身差の2着で千葉のワンツー。ホームで稲垣が動こうとしたときに連結を外し,最後尾から自力で大外を強襲した中川が4分の3車身差で3着。
優勝した千葉の石井秀治選手は2014年10月の大垣記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは注目ポイントがみっつ。まず郡司が自分が勝つレースをするのか,マークした自力ある千葉勢を引き出す競走をするのかという点。次に郡司の先行になるにしても新山がどの程度まで抵抗するのかという点。そして西日本で結束しなかった香川の南関東分断作戦があるのかという点。結果的に郡司が発進したときに新山があまり抵抗できず,香川も分断策には出なかったので,打鐘の時点で千葉勢にはかなり有利なレースに。小埜がバックから発進したので,やはり自力のある石井にはかなり有利になりました。南関東勢の結束がもたらした優勝といえるでしょう。ただ,現時点の力関係だけでいえば郡司は優勝候補なのであって,決勝で小野や石井のために捨て身の競走をするランクの選手ではないという感想を個人的には有します。
個物res singularisが現実的に存在する限りは,より完全なものとそれに比して完全でないものが存在することをスピノザは認めます。つまり完全性perfectioに優れた物体corpusもあればそれより劣った物体があることを認めます。また,完全性に優れた精神mensもあれば完全性に劣った精神もあるということを認めます。何度もいっていますが,スピノザの哲学では,すべてのものが精神を有することになっているので,後者の場合,論理的には人間の精神をほかのものの精神と比較する場合にも有効ですし,現実的に存在するある人間と別の人間の精神を比較する場合にも有効です。そして実際の人間観として問題となるのはこの部分でしょう。いい換えれば,個物が神の属性に包容されている場合については,人間観の相違として,スピノザと異なった見解をもつ人には,さほどの興味がないことではないかと思います。
スピノザが第五部定理四〇のように主張することについて,僕はその意味を次のように解します。ここでスピノザは,働きをなすagereほど,すなわち能動actioが多いほど完全で,働きを受けるpatiほど,つまり受動passioが多いほど完全ではなくなるといっています。これを人間の精神について考察すれば,ここでスピノザがいっていることがもっともだということが理解できます。なぜなら,第三部定理三は,精神の能動Mentis actionesが生じる観念は十全な観念であり,精神の受動passionesが生じる観念は混乱した観念であるということを示しています。しかるにスピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念の関係は,単に前者が真理veritasであり後者が虚偽falsitasであるということだけを意味するのではありませんでした。同時に有と無の関係をも意味するのです。したがって,精神の能動が生じるのが有である十全な観念であるのに対し,精神の受動が生じるのは,それ自体でみれば無である混乱した観念であるということになります。つまり精神の能動というのは実在的なものから生じるのに対して,精神の受動は,その人間の精神とだけ関連付けられるなら実在的なものからは生じないのです。そして完全性の尺度は実在性です。よって精神は働きをなすほど完全で,働きを受けるほど完全ではなくなるということが帰結します。
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