昨晩の第71回日本テレビ盃。
ウィリアムバローズが逃げて2番手にデルマソトガケ。3番手にギガキングで4番手にメイショウハリオ。2馬身差でゴールドハイアーとナニハサテオキ。2馬身差でウシュバテソーロ。2馬身差でホウオウトゥルースとコラルノクターン。3馬身差でキャッスルトップ。シンコーマーチャン,マイネルヘリテージと続いて2馬身差の最後尾にソルトゴールドという隊列で発馬後の正面を通過。向正面の半ばで4番手がナニハサテオキとメイショウハリオの併走になり,2馬身差でゴールドハイアー。さらに2馬身差でウシュバテソーロに。前半の800mは49秒6のミドルペース。
3コーナー前から逃げたウィリアムバローズが後続の追い上げを待たずにペースアップ。デルマソトガケの外からメイショウハリオが追ってきて,ナニハサテオキの外からウシュバテソーロ。直線に入ったところでウィリアムバローズが抜け出しました。追ってきたのは大外のウシュバテソーロ。よく差を詰めましたが届かず,鋭く逃げ切ったウィリアムバローズが優勝。ウシュバテソーロが1馬身差で2着。早めに3番手に上がったメイショウハリオが4馬身差の3着で追い上げたナニハサテオキが1馬身差で4着。一杯になったデルマソトガケは2馬身半差で5着。
優勝したウィリアムバローズは東海ステークス以来の勝利で重賞2勝目。ここはそのときよりも相手関係が強化していたので,勝つまではどうかと思いましたが,詰め寄られたとはいえ危なげのない快勝で,追いかけてきた馬たちは突き放していますから,大きく評価できるところ。大レースを勝てるところまできているとみていいでしょう。父はミッキーアイル。母の父はシンボリクリスエス。
騎乗した坂井瑠星騎手と管理している上村洋行調教師は日本テレビ盃初勝利。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの当該部分から僕が理解できることはここまで記してきた通りです。そしてその中に数々の疑問点があるということは分かってもらえたと思います。それは解決可能なものではありません。ただこの部分に関して,ほかの伝記の中により詳しい記述がありますから,それもみておくことにしましょう。
フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,スピノザの葬儀に出席した人物が書かれています。フッデJohann Hudde,イエレスJarig Jelles,リューウェルツJan Rieuwertsz,マイエルLodewijk Meyerは確かに出席したとされていますが,出席したであろうという書き方ですので,確証があるわけではないかもしれません。一方,シュラーGeorg Hermann Schullerは出席していなかったとされていて,それはシュラーがこの葬儀の翌日,すなわち1677年2月26日にはアムステルダムAmsterdamにいて,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに手紙を書いていることが根拠とされています。葬儀および埋葬にどれほどの時間を要し,それが何時に終わったのかということが定かではないので,前日にハーグDen Haagで葬儀に出席したシュラーが,翌日にアムステルダムで手紙を書くということが本当に不可能なのかどうか僕には分かりません。また,フロイデンタールはスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであると考えていて,この人はコレルスの伝記によれば臨終の日のうちにアムステルダムに帰ってしまい,そのままスピノザを顧みることはなかったとされています。それはつまり葬儀および埋葬には顔を出さなかったということを意味するのであって,マイエルが出席しシュラーが出席しなかったということは,コレルスの伝記が意味するところがスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであったということと辻褄が合います。むしろこちらの考え方から,フロイデンタールはマイエルは出席したけれどもシュラーは出席しなかったといっているのかもしれませんから,この部分のフロイデンタールの記述は,そのまま信用するには値しないかもしれません。
スピノザが死んだのが2月21日で,埋葬が25日になった理由について,これは葬儀費用の問題であったというようにフロイデンタールはいっています。要するにだれがそれを支払うかが決まらなかったということです。
ウィリアムバローズが逃げて2番手にデルマソトガケ。3番手にギガキングで4番手にメイショウハリオ。2馬身差でゴールドハイアーとナニハサテオキ。2馬身差でウシュバテソーロ。2馬身差でホウオウトゥルースとコラルノクターン。3馬身差でキャッスルトップ。シンコーマーチャン,マイネルヘリテージと続いて2馬身差の最後尾にソルトゴールドという隊列で発馬後の正面を通過。向正面の半ばで4番手がナニハサテオキとメイショウハリオの併走になり,2馬身差でゴールドハイアー。さらに2馬身差でウシュバテソーロに。前半の800mは49秒6のミドルペース。
3コーナー前から逃げたウィリアムバローズが後続の追い上げを待たずにペースアップ。デルマソトガケの外からメイショウハリオが追ってきて,ナニハサテオキの外からウシュバテソーロ。直線に入ったところでウィリアムバローズが抜け出しました。追ってきたのは大外のウシュバテソーロ。よく差を詰めましたが届かず,鋭く逃げ切ったウィリアムバローズが優勝。ウシュバテソーロが1馬身差で2着。早めに3番手に上がったメイショウハリオが4馬身差の3着で追い上げたナニハサテオキが1馬身差で4着。一杯になったデルマソトガケは2馬身半差で5着。
優勝したウィリアムバローズは東海ステークス以来の勝利で重賞2勝目。ここはそのときよりも相手関係が強化していたので,勝つまではどうかと思いましたが,詰め寄られたとはいえ危なげのない快勝で,追いかけてきた馬たちは突き放していますから,大きく評価できるところ。大レースを勝てるところまできているとみていいでしょう。父はミッキーアイル。母の父はシンボリクリスエス。
騎乗した坂井瑠星騎手と管理している上村洋行調教師は日本テレビ盃初勝利。
コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの当該部分から僕が理解できることはここまで記してきた通りです。そしてその中に数々の疑問点があるということは分かってもらえたと思います。それは解決可能なものではありません。ただこの部分に関して,ほかの伝記の中により詳しい記述がありますから,それもみておくことにしましょう。
フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』では,スピノザの葬儀に出席した人物が書かれています。フッデJohann Hudde,イエレスJarig Jelles,リューウェルツJan Rieuwertsz,マイエルLodewijk Meyerは確かに出席したとされていますが,出席したであろうという書き方ですので,確証があるわけではないかもしれません。一方,シュラーGeorg Hermann Schullerは出席していなかったとされていて,それはシュラーがこの葬儀の翌日,すなわち1677年2月26日にはアムステルダムAmsterdamにいて,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに手紙を書いていることが根拠とされています。葬儀および埋葬にどれほどの時間を要し,それが何時に終わったのかということが定かではないので,前日にハーグDen Haagで葬儀に出席したシュラーが,翌日にアムステルダムで手紙を書くということが本当に不可能なのかどうか僕には分かりません。また,フロイデンタールはスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであると考えていて,この人はコレルスの伝記によれば臨終の日のうちにアムステルダムに帰ってしまい,そのままスピノザを顧みることはなかったとされています。それはつまり葬儀および埋葬には顔を出さなかったということを意味するのであって,マイエルが出席しシュラーが出席しなかったということは,コレルスの伝記が意味するところがスピノザの臨終を見守ったのがシュラーであったということと辻褄が合います。むしろこちらの考え方から,フロイデンタールはマイエルは出席したけれどもシュラーは出席しなかったといっているのかもしれませんから,この部分のフロイデンタールの記述は,そのまま信用するには値しないかもしれません。
スピノザが死んだのが2月21日で,埋葬が25日になった理由について,これは葬儀費用の問題であったというようにフロイデンタールはいっています。要するにだれがそれを支払うかが決まらなかったということです。
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