昨晩の第52回佐賀記念。
逃げる構えを見せたのはメイショウフンジンとグロリアムンディとクラウンプライド。2馬身差でノットゥルノ。5番手にヒロシゲウェーブとシンメデージー。7番手にデルマソトガケ。2馬身差でシルトプレ。3馬身差でタケノサイコウ。2馬身差でサトノスライヴ。2馬身差の最後尾にララエフォールで発馬後の向正面を通過。前はメイショウフンジンの逃げとなり,クラウンプライドが2番手。グロリアムンディが3番手となりました。超スローペース。
3コーナー手前からクラウンプライドは後退。3コーナーではメイショウフンジン,グロリアムンディ,ノットゥルノの3頭が集団になり,4番手にはシンメデージー。直線に入る前にグロリアムンディは苦しくなり,直線入口ではメイショウフンジンがまた単独の先頭。ノットゥルノの外からシンメデージーが追ってきたものの届かず,逃げ切ったメイショウフンジンが優勝。シンメデージーが2馬身差で2着。ノットゥルノがクビ差で3着。
優勝したメイショウフンジンは重賞初勝利。このレースはかなり混戦で上位拮抗とみていましたが,コーナーが6回のレースなので,そのコース形態の適性の差が出るかもしれないと思っていました。重賞は初制覇ですが好走した経験は何度もあり,それは2着馬にも3着馬にも該当するところなので,たぶんその点は結果に影響しただろうと思われます。逃げてペースを落としつつ自由にコースを選択できたことも有利に働いたでしょうから,同じメンバーでも展開次第で次は同じ結果になるというわけではないでしょう。父は第40回を制したホッコータルマエで父仔制覇。
騎乗した酒井学騎手と管理している西園正都調教師は佐賀記念初勝利。
吉田はこのように説明していますが,これは属性attributumという語が一般的に使用される場合の説明なのであって,スピノザの哲学においては該当しません。先回りすることになりますが,なぜ妥当しないのかを僕が説明します。端的にいえば,スピノザの哲学における属性というのは,ある特殊な意味を有しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/34/4b18a4c69b7b8b185d0654eefd7f1357.jpg)
第一部定義四にあるように,属性とは実体substantiaの本性essentiamを構成するもののことをいいます。この定義Definitioは認識論的な観点から記述されていますが,実在論的に解して問題ないということはかつて検討した通りです。第二部定理一と第二部定理二は,明らかに認識論的な観点だけを意味するわけではありません。
次に,第一部定理一四にあるように,自然Naturaのうちに実在する実体は神Deusだけなのですから,実在する属性はすべて神の本性を構成することになります。第一部定義六では,神の本性は無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されるといわれていて,実際にはこの定義から実在する実体は神だけであるということが導かれるわけですが,ここではその順序は問いません。属性はそれがどんなものであっても実在的には神の本性を構成するのです。
では本性とは何かといえば,第二部定義二にいわれるように,あるものがなければそれが,逆にそれがなければあるものが,あることも考えるconcipereこともできないようなもののことです。したがって神と属性の関係は,属性がなければ神はあることも考えることもできないものであり,同時に神がなければ属性はあることも考えることもできないという関係を有しています。属性というのは無限に多くあるとされていますが,これはそのうちのどの属性を抽出したとしても成立しなければなりません。たとえば延長の属性Extensionis attributumがなければ神はあることも考えることもできないのですが,神がなければ延長の属性はあることも考えることもできないのです。
延長の属性は神の本性を構成する属性のひとつなので,神がなければ延長の属性があることも考えることもできないのは明白です。延長の属性を認識するcognoscereとは神の本性を認識するという意味だからです。しかしこの延長の属性がなければ,神はあることも考えることもできないのです。
逃げる構えを見せたのはメイショウフンジンとグロリアムンディとクラウンプライド。2馬身差でノットゥルノ。5番手にヒロシゲウェーブとシンメデージー。7番手にデルマソトガケ。2馬身差でシルトプレ。3馬身差でタケノサイコウ。2馬身差でサトノスライヴ。2馬身差の最後尾にララエフォールで発馬後の向正面を通過。前はメイショウフンジンの逃げとなり,クラウンプライドが2番手。グロリアムンディが3番手となりました。超スローペース。
3コーナー手前からクラウンプライドは後退。3コーナーではメイショウフンジン,グロリアムンディ,ノットゥルノの3頭が集団になり,4番手にはシンメデージー。直線に入る前にグロリアムンディは苦しくなり,直線入口ではメイショウフンジンがまた単独の先頭。ノットゥルノの外からシンメデージーが追ってきたものの届かず,逃げ切ったメイショウフンジンが優勝。シンメデージーが2馬身差で2着。ノットゥルノがクビ差で3着。
優勝したメイショウフンジンは重賞初勝利。このレースはかなり混戦で上位拮抗とみていましたが,コーナーが6回のレースなので,そのコース形態の適性の差が出るかもしれないと思っていました。重賞は初制覇ですが好走した経験は何度もあり,それは2着馬にも3着馬にも該当するところなので,たぶんその点は結果に影響しただろうと思われます。逃げてペースを落としつつ自由にコースを選択できたことも有利に働いたでしょうから,同じメンバーでも展開次第で次は同じ結果になるというわけではないでしょう。父は第40回を制したホッコータルマエで父仔制覇。
騎乗した酒井学騎手と管理している西園正都調教師は佐賀記念初勝利。
吉田はこのように説明していますが,これは属性attributumという語が一般的に使用される場合の説明なのであって,スピノザの哲学においては該当しません。先回りすることになりますが,なぜ妥当しないのかを僕が説明します。端的にいえば,スピノザの哲学における属性というのは,ある特殊な意味を有しているのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/34/4b18a4c69b7b8b185d0654eefd7f1357.jpg)
第一部定義四にあるように,属性とは実体substantiaの本性essentiamを構成するもののことをいいます。この定義Definitioは認識論的な観点から記述されていますが,実在論的に解して問題ないということはかつて検討した通りです。第二部定理一と第二部定理二は,明らかに認識論的な観点だけを意味するわけではありません。
次に,第一部定理一四にあるように,自然Naturaのうちに実在する実体は神Deusだけなのですから,実在する属性はすべて神の本性を構成することになります。第一部定義六では,神の本性は無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されるといわれていて,実際にはこの定義から実在する実体は神だけであるということが導かれるわけですが,ここではその順序は問いません。属性はそれがどんなものであっても実在的には神の本性を構成するのです。
では本性とは何かといえば,第二部定義二にいわれるように,あるものがなければそれが,逆にそれがなければあるものが,あることも考えるconcipereこともできないようなもののことです。したがって神と属性の関係は,属性がなければ神はあることも考えることもできないものであり,同時に神がなければ属性はあることも考えることもできないという関係を有しています。属性というのは無限に多くあるとされていますが,これはそのうちのどの属性を抽出したとしても成立しなければなりません。たとえば延長の属性Extensionis attributumがなければ神はあることも考えることもできないのですが,神がなければ延長の属性はあることも考えることもできないのです。
延長の属性は神の本性を構成する属性のひとつなので,神がなければ延長の属性があることも考えることもできないのは明白です。延長の属性を認識するcognoscereとは神の本性を認識するという意味だからです。しかしこの延長の属性がなければ,神はあることも考えることもできないのです。
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