香港のシャティン競馬場で行われた昨日の香港国際競走。
香港ヴァーズGⅠ芝2400m。
プラダリアが逃げてステレンボッシュは最後尾。3コーナーから外を回って捲り上げたステレンボッシュが一旦は先頭。内から2頭に差されて勝ち馬から3馬身半差の3着。4コーナーを回って一旦は後続を引き離したプラダリアは13馬身半差で11着。
香港スプリントGⅠ芝1200m。
サトノレーヴが内,ルガルが外の7番手を併走し,その後ろにトウシンマカオ。ずっと内を回って直線だけ逃げ馬の外に出されたサトノレーヴが一旦は2番手。外から差されて4分の3馬身差で3着。残りの2頭は見せ場を作れず,トウシンマカオが5馬身差の9着でルガルは7馬身4分の3差で11着。
香港マイルGⅠ芝1600m。
ジャンタルマンタルは4頭が横並びの発馬後から単独の3番手に。ソウルラッシュは前半は7番手の外にいましたが道中で13番手まで下がりました。直線で大外から追い込んできたソウルラッシュが1馬身4分の1差で2着。直線で後退したジャンタルマンタルは9馬身差の13着。
香港カップGⅠ芝2000m。
タスティエーラは外の4番手から向正面で単独の2番手まで進出。発馬後に控えたリバティアイランドは8番手。直線で大外から脚を使ったリバティアイランドが1馬身半差で2着。3コーナーから差を詰めていき,直線で一旦は先頭に立ったタスティエーラは2馬身4分の3差で3着。
遺稿集Opera Posthumaへの書簡の掲載規準がここまで検討してきたことであれば,書簡六十七は遺稿集に掲載され,書簡六十七の二が掲載されなかったことの説明がつきます。スピノザは書簡六十七に対しても返事を書くつもりがなかったのですが,若干の友人,たぶんアルベルトAlbert Burghの家族でかつて自身が世話になったことがあったかもしれないコンラート・ブルフからの依頼があったので,しばしの時間の経過の後に書簡七十六を返信として出しました。ステノNicola Stenoもスピノザの友人であったものの,元々はデンマークからオランダに移ってきたのであり,アルベルトより早くイタリアに移りました。ですからステノに対して返信を書くように依頼するような人はスピノザにはいませんでした。書簡の内容だけでいえば,アルベルトからの書簡に返信をするならば,ステノからの書簡に返信する方が返信の価値は高かったと僕には思えますので,確かにスピノザがアルベルトに返信をしたのは,他者からの依頼があったからだと推測されます。
しかし一方で,純粋に遺稿集に掲載する価値の高さでいえば,書簡六十七よりも書簡六十七の二の方が高かったのは間違いありません。ですから吉田がいっているように,書簡六十七の二はスピノザに送られたわけではなく,公開書簡のようなものであったという説は,僕にはしっくりとする説なのです。スピノザに宛てられたものでなかったのだとすれば,原書簡というものがスピノザの手許に残りませんから,遺稿集の編集者たちがそれを発見して遺稿集に掲載するということは不可能であるからです。一方で書簡六十七の方は確かにスピノザに宛てられたものですから,原書簡か,スピノザが書き直したものがスピノザの手許にはあったのであり,だからそれは遺稿集に掲載することができたのです。つまり,書簡六十七と書簡六十七の二に対する遺稿集の編集者たちの選別の規準は,それにスピノザが返信を書いたか書かなかったかということであったかもしれませんが,そもそも原書簡がスピノザの遺稿として残されていたか残されていなかったかという相違に還元することができるかもしれないのであって,むしろそちらの方が,僕には説得力があります。
香港ヴァーズGⅠ芝2400m。
プラダリアが逃げてステレンボッシュは最後尾。3コーナーから外を回って捲り上げたステレンボッシュが一旦は先頭。内から2頭に差されて勝ち馬から3馬身半差の3着。4コーナーを回って一旦は後続を引き離したプラダリアは13馬身半差で11着。
香港スプリントGⅠ芝1200m。
サトノレーヴが内,ルガルが外の7番手を併走し,その後ろにトウシンマカオ。ずっと内を回って直線だけ逃げ馬の外に出されたサトノレーヴが一旦は2番手。外から差されて4分の3馬身差で3着。残りの2頭は見せ場を作れず,トウシンマカオが5馬身差の9着でルガルは7馬身4分の3差で11着。
香港マイルGⅠ芝1600m。
ジャンタルマンタルは4頭が横並びの発馬後から単独の3番手に。ソウルラッシュは前半は7番手の外にいましたが道中で13番手まで下がりました。直線で大外から追い込んできたソウルラッシュが1馬身4分の1差で2着。直線で後退したジャンタルマンタルは9馬身差の13着。
香港カップGⅠ芝2000m。
タスティエーラは外の4番手から向正面で単独の2番手まで進出。発馬後に控えたリバティアイランドは8番手。直線で大外から脚を使ったリバティアイランドが1馬身半差で2着。3コーナーから差を詰めていき,直線で一旦は先頭に立ったタスティエーラは2馬身4分の3差で3着。
遺稿集Opera Posthumaへの書簡の掲載規準がここまで検討してきたことであれば,書簡六十七は遺稿集に掲載され,書簡六十七の二が掲載されなかったことの説明がつきます。スピノザは書簡六十七に対しても返事を書くつもりがなかったのですが,若干の友人,たぶんアルベルトAlbert Burghの家族でかつて自身が世話になったことがあったかもしれないコンラート・ブルフからの依頼があったので,しばしの時間の経過の後に書簡七十六を返信として出しました。ステノNicola Stenoもスピノザの友人であったものの,元々はデンマークからオランダに移ってきたのであり,アルベルトより早くイタリアに移りました。ですからステノに対して返信を書くように依頼するような人はスピノザにはいませんでした。書簡の内容だけでいえば,アルベルトからの書簡に返信をするならば,ステノからの書簡に返信する方が返信の価値は高かったと僕には思えますので,確かにスピノザがアルベルトに返信をしたのは,他者からの依頼があったからだと推測されます。
しかし一方で,純粋に遺稿集に掲載する価値の高さでいえば,書簡六十七よりも書簡六十七の二の方が高かったのは間違いありません。ですから吉田がいっているように,書簡六十七の二はスピノザに送られたわけではなく,公開書簡のようなものであったという説は,僕にはしっくりとする説なのです。スピノザに宛てられたものでなかったのだとすれば,原書簡というものがスピノザの手許に残りませんから,遺稿集の編集者たちがそれを発見して遺稿集に掲載するということは不可能であるからです。一方で書簡六十七の方は確かにスピノザに宛てられたものですから,原書簡か,スピノザが書き直したものがスピノザの手許にはあったのであり,だからそれは遺稿集に掲載することができたのです。つまり,書簡六十七と書簡六十七の二に対する遺稿集の編集者たちの選別の規準は,それにスピノザが返信を書いたか書かなかったかということであったかもしれませんが,そもそも原書簡がスピノザの遺稿として残されていたか残されていなかったかという相違に還元することができるかもしれないのであって,むしろそちらの方が,僕には説得力があります。