スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

勝島王冠&友人の依頼

2024-12-05 19:06:22 | 地方競馬
 昨晩の第16回勝島王冠
 キングストンボーイはタイミングが合わず1馬身の不利。ランリョウオーが逃げて2番手にサヨノネイチヤ。巻き返したキングストンボーイが3番手に追い上げ4番手にパワーブローキング。5番手にヒーローコール。6番手にキタノオクトパス。その後ろはリンゾウチャネル,コラルノクターン,ユアヒストリー,アイブランコの4頭。2馬身差でモダスオペランディとゴールドハイアー。3馬身差でマースインディ。4馬身差でクリノドラゴン。最後尾にアポロビビ。最初の800mは49秒5のミドルペース。
 3コーナーでランリョウオー,サヨノネイチヤ,キングストンボーイの3頭が併走に。2馬身差でパワーブローキング。さらに2馬身差でキタノオクトパス。コーナーで外からキングストンボーイが前に出ようとしたのでサヨノネイチヤが対抗し,ランリョウオーはここで後退。サヨノネイチヤとキングストンボーイが並んで直線に。直線でも競り合いましたが,外のキングストンボーイが決着をつけ,そのままサヨノネイチヤを引き離して圧勝。サヨノネイチヤが5馬身差で2着。パワーブローキングが2馬身差の3着。後方から大外を追い込んだマースインディが4分の3馬身差で4着。マースインディの内から並んで伸びてきたユアヒストリーがハナ差の5着。
 優勝したキングストンボーイはこのレースがJRAからの転入初戦。5月にオープンで2着になっていましたから,頭打ちでの転入ではなく,南関東重賞ならすぐに通用する力量がありました。サヨノネイチヤは帝王賞も南部杯も競馬にはなっていたので強敵でしたが,3キロの斤量差があれば負かすこともあり得るとみていましたが,想像以上の差がつきました。この開催の大井競馬は早い時計での決着が目立っていたのですが,そういった馬場状態に対する適正の差もあったのかと思います。大レースは厳しそうですが重賞なら通用しそう。南関東重賞に出走するなら常に優勝候補でしょう。父はドゥラメンテ。3つ上の半兄に2018年の皐月賞を勝ったエポカドーロ
 騎乗した大井の御神本訓史騎手は黒潮盃以来の南関東重賞72勝目。第13回以来となる3年ぶりの勝島王冠2勝目。管理している大井の渡辺和雄調教師は南関東重賞11勝目。勝島王冠は初勝利。

 スピノザからアルベルトAlbert Burghへの返信は書簡七十六で,1675年12月にハーグDen Haagから出されています。以前にステノNicola Stenoについてスピノザとアルベルトが語り合ったことがあったということを史実として確定させる内容を含んだ書簡です。書簡六十七はこの年の9月に出されたものですから,スピノザはおよそ3ヶ月が経った後に返信を書いたことになります。
                            
 期間が開いたことについては,この書簡の冒頭でスピノザが記しています。それによれば,スピノザはアルベルトからの書簡には返事を書くつもりがありませんでした。なぜなら,カトリックの闘士となってしまったアルベルトを家族の元に引き返すために必要なのは,理性ratioによる説得ではなく,時間tempusの経過であるとスピノザは考えていたからです。しかしアルベルトの才能に期待をしていた友人たちが,スピノザに対して,アルベルトの友人としての義務を果たすように,というのはアルベルトのことを理性的に説得するようにという意味ですが,そのような依頼をしきりにするので,それに心を動かされて書簡を書くことをスピノザは決意したのです。
 ここでは若干の説明が必要です。スピノザは友人の意見opinioに心を動かされたといっていますが,実はスピノザはアルベルトだけでなく,アルベルトの家族とも親しかったと思われます。実際にスピノザは,アルベルトをアルベルトの家族の元に引き戻すのに必要なことが何かということを語っているわけですから,友人の依頼というものの中には,アルベルトの家族からの依頼も含まれていたと考えられるのです。
 スピノザがユダヤ人共同体から追放された後,レインスブルフRijnsburgに住むようになるまでの間のことは,史実として残されている歴史的資料が少なく,よく分かっていません。ただその間に,コンラート・ブルフ,これはアルベルトの父ですが,そのコンラート・ブルフの家に滞在していた可能性が『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』で指摘されています。コンラートはアムステルダムAmsterdamの裕福な裁判官で,コレギアント派collegiantenに同情的であったとされています。アルベルトの方はファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校に入学したので,そこでスピノザと親しくなったといわれています。
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