スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ジェムストーン賞&アルベルトとスピノザ

2024-12-06 19:09:17 | 地方競馬
 昨晩の第1回ジェムストーン賞
 逃げたのはプリムスパールス。内からチートメジャーとヤマノファルコン,外からノブハッピーホースとヨシノダイセンが追っていきました。これらの後ろにラブミーメアリーとユルリとシナノクーパー。ジョイフルロック,フレンドローマ,ミラクルメイキング,オニアシの順で続き3馬身差でスキャロップ。最後尾にプローラーティオーという隊列。前半の600mは35秒0の超ハイペース。
 3コーナーでプリムスパールスのリードは2馬身くらい。ヨシノダイセンが単独の2番手となり,内からヤマノファルコンが追い上げてきました。直線に入ると逃げるプリムスパールスと追うヨシノダイセンの間をヤマノファルコンがこじ開けようとして3頭の競り合い。そこからプリムスパールスがまた引き離していき,楽に逃げ切って優勝。ヨシノダイセンの外から追い上げてきたフレンドローマが4馬身差で2着。大外から追い込んだミラクルメイキングがクビ差で3着。ヨシノダイセンが半馬身差の4着でヤマノファルコンがクビ差の5着。
 優勝したプリムスパールスは南関東重賞初勝利。デビュー戦で2秒2もの差をつけて勝つとゴールドジュニアに出走して最下位。3戦目の特別戦は2馬身半差で快勝しこのレースに出走しました。大井が2度目だったこと,距離が1200mになったことが勝因としてあげられます。この時期の1200m戦ですから様ざまなキャリアの馬が出走していたレースで,馬券面からは難解でしたが,結果は圧勝になりました。ただレース全体のレベルがどうであったのかは疑問が残るところ。この馬は現状は1400mでも長いというタイプの馬だと思います。父はベストウォーリア。母の父はダイワメジャー
 騎乗した船橋の澤田龍哉騎手は昨年のプラチナカップ以来の南関東重賞5勝目。管理している船橋の米谷康秀調教師は南関東重賞2勝目。

 アルベルトAlbert Burghがファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenのラテン語学校で学んでいた時代,上演した演劇のいくつかにおいてスピノザと共演したということが,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では確定的に記述されています。『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』について検討したときにいったように,エンデンのラテン語学校では演劇が授業のひとつとして行われていたのですが,これは演劇を通して生徒がラテン語を学ぶことを意図していただけでなく,観客を入れて上演し,収入を得ることも目的としていました。ここでいわれている上演は,そうした上演と思われます。ナドラーSteven Nadlerは資料も示していますので,このことは史実と確定してよさそうです。
                           
 ラテン語学校で学んだ後,アルベルトはライデン大学に入学しています。これが何年のことであったかが正確に書かれていないのですが,少なくともステノNicola Stenoとアルベルトが同窓生であったことは間違いありません。なのでステノとアルベルトがその時点で出会っていた可能性は否定できません。そしてステノがライデン大学で学んでいた頃はスピノザはライデンLeiden近郊のレインスブルフRijnsburgに住んでいて,おそらくライデン大学に出入りしていました。よって書簡七十六でいわれているように,アルベルトとスピノザがステノについて語り合ったことがあるというのは,状況として不自然でないことになります。もっともこれは状況についての説明で,書簡七十六の内容について疑わなければならないような理由はありませんから,スピノザ,ステノ,アルベルトの3人が,互いに互いを知っていたということは史実として確定して問題ありません。
 いずれにしてもアルベルトとスピノザは,ファン・デン・エンデンのラテン語学校において知り合っていたのは間違いありませんし,おそらくアルベルトがライデン大学に入学した後も会っていたでしょう。したがって,スピノザがコンラート・ブルフの家で世話になっていたという可能性が否定されたとしても,スピノザとアルベルトの父親であるコンラート・ブルフが知り合いであり得たことになります。ですからコンラートがスピノザに対して,アルベルトに書簡を書いてほしいと依頼するケースもあり得ます。
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