スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

倉茂記念杯&限界の理由

2015-01-18 19:24:43 | 競輪
 早くも2015年の3戦目の記念競輪となる大宮記念の決勝。並びは平原-岩津の87期,鈴木-小埜-中村-荒木の南関東,深谷-吉村の中部で渡部は単騎。
 荒木がスタートを取って鈴木の前受け。平原が5番手で渡部はここを追走。深谷が8番手で周回。残り2周のバックの入口手前から深谷が上昇しようとしましたが,すぐに鈴木が突っ張ると,深谷は8番手に戻って打鐘。レースは一列棒状のまま進んでバックから平原が発進。小埜が併せようとしましたが,タイミングが合わなかったようで岩津のインで粘るような形に。捲りきった平原が最後まで粘って優勝。小埜と競り合った岩津の外を追い込んだ渡部が4分の3車輪差で2着。大外を捲り追い込んだ深谷は写真判定のタイヤ差まで迫るも3着。
                         
 優勝した埼玉の平原康多選手は昨年11月の競輪祭以来の優勝。記念競輪は昨年2月の奈良記念以来となる13勝目。地元の大宮記念は2008年,2010年,2011年,2013年と優勝していて2年ぶりの5勝目。立川記念に斡旋されていましたが,病気で欠場。体調が心配されましたが,完全優勝ということで,立ち直っていたようです。南関東の二段駆けが予想されたので,楽なレースにならないおそれもありましたが,小埜が出るのが少し遅かったかもしれません。ただそれは平原のスピードが卓越していたからだともいえるでしょう。自力で優勝を勝ち取ったところに価値があると思います。

 ライプニッツにとっての実在的区別とはどのような区別であるのか。少なくともそれがスピノザの哲学ないしは形而上学における実在的区別とは異なる区別でなければないという以上,これはライプニッツの哲学ないしは形而上学に特有の区別であることになります。何度か繰り返しているように,僕はそれについては詳しく探求しません。ただ,スピノザの哲学でいうところの共通点をもたないものの間での区別でないということだけ確かめられれば,それが限界点を突破している地点になっていると僕は考えますので,それだけで十分です。ライプニッツが共通点ということをどのように把握するかは僕には分かりませんが,ライプニッツが規定するようなあるモナドと別のモナドとの間に,スピノザの哲学でいうところの共通点がないと主張することは,僕には無理であるとしか考えられません。
 実在的区別に関する両者の見解の相違は,つまるところ実体の形而上学的概念に関する見解の相違に帰着すると僕は考えます。実体Aと実体Bが実在するとき,スピノザは実体Aの本性と実体Bの本性は異ならなければならないと考えています。単一の実体が単一の属性によって本性を構成されるならこれは当然ですが,単一の実体が複数の属性によって本性を構成される場合でもこれは妥当しなければなりません。ゆえにライプニッツの疑問レトリックでしかないという結論になるのです。しかしライプニッツの実体の概念には,こうしたことが妥当しません。むしろスピノザの形而上学で考えるなら,完全に同一の属性によって本性を構成される多数の実体が実在し,それらの実体はその実体がうちに含むものの相違によって区別されると主張していることになると僕は理解しています。
 論争の理由のひとつとして,スピノザは同一の記号を用いて異なった事柄を論じている場合を実例にあげています。スピノザとライプニッツの間で,形而上学的概念としての実体について論争し合うならば,スピノザが示している実例に該当すると僕は考えます。なのでここが限界点で,これ以上の折合いをライプニッツとスピノザの間に保つことは不可能だと判断するのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神学・政治論&実体の形而上... | トップ | ユニバーサル杯女流名人戦&... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

競輪」カテゴリの最新記事