スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

明るく楽しく激しく&実在性

2006-09-15 22:39:28 | NOAH
 NOAHの前身である全日本プロレスのキャッチフレーズは,明るく,楽しく,激しいプロレスでした(現在も全日本プロレスは存在しますし,このキャッチフレーズも使われているかもしれません)。しかしこのキャッチフレーズ,別にプロレスに限らず使えるという印象があって,「彼女の生き方」のようにこれもまた僕がときに思い出すようなことばのひとつです。
 人によって受け止め方も違うでしょうし,また,明るく,楽しく,激しく生きるというのも,なかなか難しいことでしょうが,そんな生き方ができたらそれは理想ではないかとも思うのです。
 明るく生きるというのは,僕にとっては,後ろ暗さがないことを意味します。正々堂々というようなことばで示すことができるかもしれません。
 楽しく生きるとは,自分自身の喜びを行動の規範とすることです。これは僕がイメージするスピノザ主義とも重なります。
 そして激しく生きるとは,全力を尽くすということです。そしてこれらはそれぞれがそれぞれに重なり合っていると感じます。だれが考えたのだか分からないのですが,簡単だけれども奥の深いキャッチフレーズです。

 明日は王座戦の第二局。最近,佐藤棋聖は振飛車ばかり指していますが,明日は後手でどのような作戦に出るでしょうか。

 第三の証明の前提となるのは,ある事物が存在する(存在し得る)としたら,それはその事物の力potentiaを示し,逆にある事物が存在しない(存在し得ない)としたら,それはその事物の無能力impotentiaを意味するということです。これはこれ自体で明らかでしょうから,前提にすることには何の問題もないと思います。
 僕の理解では,スピノザが実在性realitasということばで示しているのが,この,事物が存在する力のことではないかと思います。そこで,どんな事物の本性essentiaも,その事物の存在existentiaを定立しますが排除はしないのですから(本性に矛盾がある場合を除いて),ある事物の実在性というのは,その事物の本性に依存します。あるいは,依存するというより,事物の実在性というのは,そうした事物が存在する力という観点からみた限りでの,事物の本性そのものであるというのが僕の基本的な考え方になります。つまり,各々の事物にはそれに固有の本性があるように,それに固有の実在性(存在する力)があるということになるのです。
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トゥインクルレディー賞&第二の証明の難点

2006-09-14 22:21:22 | 地方競馬
 こちらにこのブログのスタイルを説明してあります。
 今晩のトゥインクルレディー賞。オルレアンが注文通りに逃げたのですが,外からエムケーファイヴに執拗に絡まれ,息の入らない苦しい展開。向正面で後方に控えていたテンセイフジが一気に進出し,アヤパンもこれに先を越されまいと上がっていき,3コーナーから4コーナーにかけてはこの4頭が雁行する形に。これを見ていたベルモントノーヴァが進出を開始すると,外からエトワールフルーヴも捲り上げていきました。直線ではこの2頭よりさらに仕掛けを遅らせたアウスレーゼが大外から鋭く伸びてこれらをまとめて交わして優勝。ベルモントノーヴァが2着でエトワールフルーヴが3着,テンセイフジは4着でした。ゆっくり仕掛けた馬が上位に入るという典型的な追い込みの競馬で,初重賞制覇となった真島大輔騎手には会心の騎乗であったと思われます。この馬は今年になって3勝,2着4回といういわゆる上がり馬で,ここでは辛いのではないかと思って軽視したのですが,現在の調子のよさを生かした感じです。2着のベルモントノーヴァは安定性には欠きますが,アウスレーゼ相手ならこの程度は走ってもおかしくないでしょう。テンセイフジは競馬がやや強引すぎた感じで,アヤパンとオルレアンは展開面がやや不利,グリーンベイはまだ3歳で,ここでは力不足であったようです。いずれにしてもひどい予想でした。
 明日から取手記念が開催されます。

 第二の証明は,神が実在することの証明としては完全であると僕は考えます。ここでは神を絶対に無限な実体と置き換えた方が分かりやすい印象ですが,絶対に無限な実体の存在を排除する原因はどこにもないのですから,それは必然的に存在するということになるからです。つまり,仮に定義六の性質が名目的なものにすぎないとしても,この証明によって,名目的に定義されている神が実在するということが明らかになったと思います。ただし,ここでのテーマという観点からあえてこの証明の難点をいうならば,この定理の前提,すなわち,神が存在しないのであれば存在しない合理的な原因がなければならないということが,エチカに訴える限りでは,まさにここで問題としている公理三に依拠しているということです。実際にはこの前提は,弱い意味に訴えるだけで導き出すことが可能だと僕は思いますし,弱い意味には何も問題がない以上はこれで十分であるとも思いますが,公理三に問題があるのではないかと考える場合に,その公理三自身に訴えるということは,本末転倒であると思われるかもしれませんので,念のために第三の証明も確認しておくことにします。
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王位戦&第二の証明

2006-09-13 22:36:35 | 将棋
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 王位戦第六局。封じ手は▲5五歩で,これは予想された手でした。以後しばらく,互いに自陣の整備に手を費やし,佐藤棋聖の△3五歩から再び中盤の戦いに。羽生王位が三歩を持ったところで端攻めに出たのですが,どうやらこれが厳しかったようです。佐藤棋聖は玉で受けに出たのですが,この受けは功を奏さず,攻めの方も大駒を使って攻めることができない形で,羽生王位が勝ち,4勝2敗で王位防衛となっています。
 この将棋,封じ手の局面では羽生王位は作戦負けと思っていたようで,また持ち時間も一方的に使ってしまっていて,佐藤棋聖の方がよかったようですが,昨日も書いた通りで,中盤の本格的な戦いになって,羽生王位が力を発揮した印象です。佐藤棋聖はほかの棋士には片っ端から勝っているのに,羽生王位にだけはどうしても勝てないという感じです。

 明日は大井トゥインクルレディー賞があります。やや距離不足の感はありますが,このメンバーでは能力上位とみて中心はテンセイフジ◎。相手は3歳のグリーンベイ○と,峠を過ぎた感じもしますがオルレアン▲。以下,アヤパン△,セイエイシェ-ン△と考えます。

 第一部定理一一の第二の証明の前提となるのは,もしも神Deusが存在しないなら,存在しないだけの合理的な理由(原因)がなければならないということです。そしてそれは,神のうちにあるか神の外にあるかのどちらかです。
 もしもそれが神のうちにあるというなら,これは神の本性natura,essentiaのうちに神の存在を排除する原因があるという意味ですから,つまり神の本性には矛盾があるという意味で,これをいうのは最高に完全であるという神の特質からして不条理です。
 一方,それが神の外にあるなら,第一部公理一の意味からして,それは実体substantiaか様態modi,modusのうちにあるのですが,様態は実体のうちにあるのですから,実体である神が存在しない原因が様態のうちにあるというのは不条理です。すると,それは実体のうちにあるでしょうが,その実体は神とは本性が異なる,いい換えれば,神とは異なる属性attributumを有する実体でなければならず(なぜなら,それが神と同一の本性を有する実体であれば,それ自体が神にほかならないので),第一部定理二によりその実体は神とは共通点をもちません。すると前回のテーマとして扱った第一部公理五により,その実体の概念conceptusが神の概念を含むことはないので,第一部公理四により,この実体が神の存在を排除する原因にはなり得ません。
 したがって,神の存在を排除するようなものは何も存在しないのです。よって,神は必然的に存在するということになります。
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高慢&第一部定理二証明

2006-09-12 23:05:36 | 哲学
 僕が名誉欲のような欲望が希薄な人にスピノザ主義者の要素を感じることについて補足します。名誉欲とは名誉に対する過度の欲望(第三部諸感情の定義四四)で,名誉とは他人から賞賛されると表象(想像)する自分の行為の観念を伴った喜び(第三部諸感情の定義三〇)です。これは喜びなので善であって(第四部定理四一),したがってこれを自分自身の行動の基準にすることは,それが受動であるということを別とすれば否定されません。ところが,受動感情としての名誉欲というのは狂気の一種(第四部定理四四備考)で,高慢な人間であるということと変わらない(第五部定理四備考)のです。高慢も自分について正当以上に感じるような自己愛(第三部諸感情の定義二八および同説明)で,自己愛であるからには喜びに違いないのですが,これは自分自身を正当以上に感じること,すなわちそういう混乱した観念を原因としているのであって,それが実は現実のものであると思い込み,かつ,その混乱した観念を排除するような観念が自らの精神のうちにはないという理由でそれを誇っているにすぎず,これもまた狂気の一種(第三部定理二六備考)なのです。だれとはいわないですがこういう人間ていますよね。そのゆえに,僕は名誉にとらわれない人に,スピノザ主義の匂いを感じてしまうのです。
 王位戦の第六局は佐藤棋聖のごきげん中飛車でした。△4四歩を突かないのが佐藤棋聖の工夫のようです。戦いに入ったところで封じ手となりました。なお,秦野での対局ですが,サイトの運営がまた西日本新聞。対局前のインタビューで羽生王位が中盤が好きと答えていたのに対し,佐藤棋聖が序盤と終盤が好きと答えていた対比が面白かったです。とくにこのふたりの対戦では,序盤の構想力では佐藤棋聖が上回り,中盤でごちゃごちゃした戦いになると途端に羽生王位が力を発揮してくるような印象を感じていただけになおさらです。

 定理二はとくに証明が必要ではないかもしれません。スピノザ自身,これは定義三からの帰結事項であると証明していますし,そうでなくとも,ここではふたつの実体が異なった属性を有するということ,つまり,定理四で表されるふたつの区別のうち,ふたつの実体が実在的に区別されるということが定理の前提となっているわけで,そうであるなら,ふたつの実体に共通点があるということがどのような意味をもつのかということから考えても,この定理が正しいということは疑いようがないと思うからです。もちろん定理二の証明に定理四を使うことは本来の意味からすれば正しくないですが,重要なのは定理二の内容の正しさですので,ここではあえてこう考えてみました。ということで,定理二については何も問題がないとして,定理一一の第二の証明に進んでいくことにします。
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新チャンピオン&第一部定理二

2006-09-11 22:47:19 | NOAH
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 柴田選手が出場した9日のNOAHの日本武道館大会のメーンで行われたのが秋山選手に丸藤選手が挑戦したGHCヘビー級のタイトルマッチ。プロレスというのは基本的には身体の大きさがものをいう競技で,90キロしかない丸藤選手は当然ながらかなりの苦戦を強いられたのですが,最後,うまく秋山選手を丸め込んで勝利。見事に新チャンピオンになりました。この世代はNOAHの現在形であるといいましたが,GHCヘビーのチャンピオンは力皇選手に続いて2人目です。ただ,力皇選手は年齢的には30代で,20代の(丸藤選手はまだ26歳)チャンピオンは初めてです。僕が試合より印象に残ったのは,試合後にリング上で行われたインタビューで,悪くいえばプロレスラーというのは虚勢を張る選手が多いのですが,丸藤選手の飾らない性格といったものがそこに滲み出ていました。このあたりは三沢選手にも共通する部分だと思います。この試合の前から丸藤選手は10月シリーズまでの間のアメリカ遠征が予定されていて,チャンピオンになったので,初防衛戦はアメリカで行われることに決定しました。GHCヘビーのタイトルマッチが海外で行われるのは初めてのことになります。
 明日から王位戦の第六局。負ければ羽生王位が防衛という土俵際の一番で,後手番の佐藤棋聖の作戦が注目されます。個人的には変な将棋になるような予感がしますがどうでしょうか。これは神奈川県の秦野市で指されますが,佐藤棋聖は昨日は名古屋で早指し(日本シリーズ)の将棋を勝ったばかり。相変わらずのハードスケジュールです。

 定理一一のスピノザの第二の証明のためにはどうしても定理二が必要なので先にこちらから。「異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない」。この定理の意味は今日のところはそのまま理解しておくことにします。ところで,実在する実体というのは,エチカでは神だけなのです(第一部定理一四)。したがってこの定理は,もしも実在的に考えるとすれば実は何も意味していないことになると思います。というのは,明らかにこの定理は,複数の実体が存在するということを仮定しているからです。これは僕が定義三を名目的(仮定的)であると考える理由のひとつで,スピノザはこの定理を定義三から直接的に帰結していますから,もし定義三が実在的な意味であるとすれば,この定理もまた実在的でなければならないと思うのですが,この定理は実在的な意味ではあり得ません。それなら定義三も実在的ではないだろうと僕は考えているのです。
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柴田勝頼&最初の証明

2006-09-10 20:35:24 | NOAH
 昨日はNOAHの8~9月シリーズの最終戦になる日本武道館大会がありました。僕はテレビ(G+)観戦だったのですが,これが今日未明の1時半から5時半までという録画中継だったもので,第5試合まで見て,さすがに眠くなって眠っちまいました。その第5試合に登場したのが柴田勝頼選手。新日本プロレスでデビューして,BML(ビッグマウスラウド)へ移籍した選手で,NOAHには9ヶ月ぶりに3度目の登場。この間,NOAHとは絶縁状態にある新日本に出場したりしていたので,この関係で間が開いたものと思われます。先月になってようやく丸藤選手と森嶋選手がBMLに出場して柴田選手と対戦。ただし,柴田選手はその後BMLを退団し,これがフリー選手として初めての試合となっています。過去2回と同様にNOAHのKENTA選手と組んでの試合。相手は田上選手と潮崎選手で,田上選手というのは力はあると思うのですが何しろムラがある選手で,どうなることかと思っていたのですが,予想以上にいい試合をしていました。なぜかは分かりませんが妙にやる気になっていたようで,田上選手の持ち味であるナチュラルな力強さで,柴田選手を圧倒するようなシーンも見せてくれました。試合の方は合体技が潮崎選手に炸裂して,柴田選手とKENTA選手のチームが勝っています。柴田選手がどういう考えでフリーになったのか,詳しいことは知らないのですが,今後はNOAHへの参戦が増えるのかもしれません。なお,この試合とはまったく関係がありませんが,NOAHは,泉田選手もケガで欠場してしまいました。

 定理七のスピノザの最初の証明はごく簡単なものです。ただしスピノザはこのブログではまだ扱っていない公理七を用いているので,僕は同じ意味になるように別の証明をします。この証明は背理法で,もしも神が存在しないなら,定理七によって神は実体ではないということになります。なぜなら,もしも神が実体であるなら,それは必然的に存在しなければならないからです。ところがこれが定義六に反していることはとくに説明するまでもなく明白でしょう。ゆえに神は存在するということになるのです。ただし,ここでのテーマでは実体の定義である定義三については,これを名目的なものである,すなわち,もしも実体が存在するなら,という仮定のもとで考えていますので,神が実体であるから必然的に存在すると証明することは,ことによると神の実在(実際に存在するということ)を証明するためには不十分かもしれません。そこで別の証明も見ていくことにします。
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彼女の生き方&第一部定理一一

2006-09-09 22:27:18 | 歌・小説
 ジャイアント馬場さんがいった,苦しくてもうだめだと思ったときにもう1回だけやってみた方がいいですよということばを,僕は折に触れて思い出す,オーバーにいえば人生訓のようなものだといいましたが,僕にはそれとは別にもうひとつ,よく思い浮かべることがあるそうした人生訓めいたことばがあります。それは中島みゆきの「彼女の生き方」という歌に出てくる次のフレーズです。

       思い通りには 動かない
       世の中なんて 何もかも
       だけど あたしだって 世の中の
       思い通りなんか 動かない

               
 実際のところこれは,ほとんど釣り合いのとれないことをいっているわけです。というのは,たとえば僕にとって世の中が僕の思い通りにならないことは,僕のすべてであるといえなくもないですが,世の中からしてみれば,僕ひとりが思い通りに動かないところで大した影響もないからです。それにも関わらず,思い通りにならない世の中に対して,自分も世の中の思い通りには動かないとつっぱってみせるところに,僕はある種の矜持のようなものを感じるのです。そして何より素晴らしいのが,それがこのようなごくごく簡単なことばのみで示されている点。たぶんこれは,僕が今までに出会ったことばの中では最も僕にとって偉大なもので,そしてこのような精神をいつまでももっていたいと思っています。

 スピノザが神Deusの存在existentia(神が存在するということ)を証明しているのは第一部定理一一です。
 「神,あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体,は必然的に存在する」。
 神が無限に多くのinfinita属性attributaからなる実体substantiaに置き換えられることは,第一部定義六からも明らかだと思います。そしてそれが必然的にnecessario存在するというのは,神は何かほかのものの助けを借りずに,単に神の本性naturaの法則のみによって,つまり第一部定義一にいう,その存在がその本性essentiaのうちに含まれているような自己原因causa suiとして存在し,そしてまたそうであるからには永遠aeterunusから永遠にわたって存在するという意味に理解していいだろうと思います。
 なので,定理Propositioの意味については何も問題はないと考え,スピノザはこの定理を3種類の方法で証明していますので,その証明Demonstratioの手続きが,ここでのテーマという観点からみて妥当であるかどうかを検証していくことにします。
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スピノザ主義者&前提としての神

2006-09-08 22:56:18 | 哲学
 スピノザの教えというものを単に受動的に守るというだけでは,スピノザ主義者として生きるということにはなりません。では,スピノザ主義者として生きるということがどういうことなのかといえば,これはこれで難しいです。これについてドゥルーズは,スピノザの哲学を専門的に研究している人のみがスピノザ主義者であるのではなく,哲学的知識などはそうももっていなくても,スピノザ主義者であるという人もいるという意味のことをいっています。
                         
 僕にとってこのことばがリアルに思えるのは,確かに僕もある人に対して,その人がスピノザの哲学について何らかの知識があるのかないのかを知らなくても,たとえ部分的にではあったとしても,スピノザ主義者的な要素を感じるということがあるからです。
 僕がそう感じるタイプの人というのはパターンがあって,おおよそ次のふたつのどちらかであるといえそうです。まずは,自分自身の喜びが行動に直結しているタイプ。逆にいえば,自分自身の行動の第一基準に,自分の喜びをおくタイプの人です。もうひとつが,受動感情としての金銭欲や名誉欲というのが希薄であるタイプの人。
 厳密にいうとこのふたつは矛盾したことをいっているようにも思えるのですが,どちらのタイプにも,僕はスピノザ主義の匂いを感じでしまうのです。

 第一部公理三ふたつの意味のうち,強い意味の方が成立するためには,その背後に,各々の必然性を統一する何かが前提されている必要があり,かつ条件としてその何かもまた必然的に存在しなければならないということにここでのテーマは立脚しています。そしてこれについて『エチカ』に訴えてここまで考えてみると,それはどうやら神のようです。
 ただ,僕は第一部定義六は実在的な意味であると考えていますが,ここでは,神というからにはそれは最高に完全でなければならないという特質からこの定義の正当性を導いたので,これだと,最高に完全であるべき神が存在するならば,それは絶対に無限でなければならないという意味で,名目的であると考えることが可能であるように思います。
 したがって,第一部公理三を成立させるために神を背後に前提することの正当性を考える前に,名目的に定義されていると考えられる神について,それが実在するということを証明しておく必要があるようです。
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王座戦&定義六の正当性

2006-09-07 23:35:58 | 将棋
 王座戦の第一局は振駒で佐藤棋聖の先手。▲7六歩△3四歩に▲6六歩と角道を止めると羽生王座は△3二飛。佐藤棋聖も▲7七角から向飛車に振って相振飛車になりました。このふたりの対戦ではただ一局,昨年の王位戦の第四局で同じ戦型になっていますが,このときは羽生王位の先手でしたので,佐藤棋聖が先手の場合には初めてとなります。その後,後手が矢倉模様に組んだのに対して先手は穴熊にして持久戦に。羽生王座が△8二銀と矢倉を崩して壁銀にしたところで(解説だと,千日手を誘う意味があったようです)ようやく佐藤棋聖から開戦。この仕掛けはタイミングがよく,佐藤棋聖が優勢になったようなのですが,羽生王座の端からの猛攻に対して受け間違えたようで逆転。その後,羽生王座も一気に攻め潰そうとしたために,飛車を取られて1筋に龍を引き付けられ,容易に寄せることができなくなって混戦になりました。ただ,最後の佐藤棋聖の攻めは後手玉には届かず,羽生王座の勝ちとなっています。手として印象に残ったのは,佐藤棋聖が127手目に▲4七角とただで捨てた手。勝利に結びつけば絶妙手となっていたと思いますし,最後,もし正しく攻めれば佐藤棋聖に勝ちがあったとしても同じことでしょう(実際は123手目の▲2八銀が悪手で,この時点では羽生王座の勝ちであったようです)。逆にいうと,こういう手が勝ちに直結しない部分に,佐藤棋聖の羽生王座に対する相性の悪さが感じられます。羽生王座はこの棋戦は強く実に14連覇中。15連覇に向けて幸先のよいスタートとなりました。第二局は16日に指されます。

 定義六からは,少なくとも神が最高に完全な存在であるということは導かれると僕は思います。なぜなら,ここでは神が絶対に無限であるといわれていますが,このことの意味は,神の本性にはありとあらゆる(無限に多くの)本性が含まれるということであり,いい換えれば,本性という点においては神より完全なものは何もないということが含まれているわけです。ところで,ある事物の本性というのは,その事物の存在を定立することはあっても排除することはありません(正確にいうと,ある事物の本性が,その事物の存在を排除するとは,単にその本性が矛盾を含むということです)。ですから,本性において最高に完全であるものは存在においても最高に完全であるということになると僕は考えるからです。なので,この観点からは定義六は,最高に完全でなければならないものとしての神の定義として,正当であると思います。
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オールスター&神の特質

2006-09-06 23:25:12 | 競輪
 オールスター競輪決勝。前を取ったのは市田選手で,中団に井上選手。単騎のふたりを挟んで後方から武田選手の展開。残り2周になるところから武田選手が上昇,白戸選手が番手を攻めにいきましたがここは手島選手が守りました。打鐘過ぎに抑えると佐藤選手が外から番手戦を挑みにいき,ホームで武田選手が流すところを後方から井上選手と高木選手で一気にカマシ先行。白戸選手と佐藤選手が追い上げましたが完全に離されてしまい,バックの段階ではもう2車による争いとなることが決定的に。結局井上選手が粘りきり,マークの高木選手が2着。3着には佐藤選手が入りました。優勝した長崎の井上昌己(まさき)選手は競輪学校86期の27歳で,一昨年のアテネオリンピックで銀メダル(チームスプリント)を獲得したメンバーのひとりですが,競輪では大した実績はまだなく,新鋭といってもいいでしょう。高松宮記念杯では3番手を競りにいってつまらないレースをしてしまいましたが,今日は高木選手のアドバイスもあったようですが,思い切って駆けたことが功を奏しました。高木選手にとっては絶好の展開であった筈で,大魚を逸した感じです。武田選手はメンバー構成としては最も有利であったのですが,GⅠの残り1周のホームであんなに流してはアウトです。
 明日は王座戦の第一局が指されます。130周年記念ということで,日本経済新聞のサイトが充実していますのでお立ち寄りください。できれば毎年続けてほしいですけど。

 神というからには,それは最高に完全なものでなくてはなりません。もしもどこかに不完全な点があるものについてそれを神というのは,それ自体で不条理になるからです。神について考える場合には,だれでもこの点については受け入れなければならないと僕は思います。しかし,それは最高に完全なものであるということは,それだけでは神の定義として相応しくありません。なぜなら,事物の定義というのはその事物の本性を表現しなければなりませんが,最高に完全であるということは,神の本性ではなくて,むしろ神の本性から必然的に生じてくるようなひとつの特質であるからです。したがって,神の定義というものの条件は,そこから神が最高に完全な存在であるという特質が必然的に導かれるようなものでなくてはならないことになります。そこでこの観点から定義六の正当性にアプローチしていくことにします。
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スタイル&定義六の性質

2006-09-05 23:38:39 | Weblog
 昨日の予告通り,このブログの形式を説明します。一見して分かるように,このブログは上下の二本立てになっています。上段が趣味について,下段がスピノザのエチカについての記事です。各ブログの上部(日付の左)及び左側下方のカテゴリーは,上段の記事にのみ対応します。あるカテゴリーだけをまとめて読みたい場合はその部分をクリックしてください(PCのみ有効です)。競馬と競輪のレースの記事の場合,ごく初期を除くと前日に予想がしてあります。それを読みたい場合はご面倒ですが左上のカレンダーから調べてください。なお,記事はレース当日とは限りません。予想はレースの前日ですので,その点にはご注意を。将棋の対局の記事についても,前日(2日制の場合は初日にも)若干の紹介が付されている場合があります。この部分の記事は原則的には1日で完結しています。何らかの意味で継続する場合は,後の記事が前の記事にリンクしてありますのでそれを辿っていってください。一方,本編ともいうべき下段の方は,エチカについてあるテーマを設定し,それについて少しずつ進んでいく形態です。ですので,この部分についてはある程度(できればそのテーマの始まった日から)通読しないと,僕のいわんとすることは理解できないと思います。ですので,こちらの記事にのみ関心があるという方は,たとえば週に1度か2度,まとめて読んだ方がよいと思います。エチカに興味をもって新規にこのブログにいらっしゃった方は,ご面倒ですが時間に余裕のあるときにまとめてお読みになってください。なお,これはあくまでも僕の理解ですので,正しいとお考えになられては困るのはもちろん,むしろ僕の理解におかしいと思われる部分があればその都度ご指摘ください。このブログの最大の目的はそこにあります。
 今後もこのブログはこの形式で進めていくつもりですが,もし何かこうしてほしいというご要望がある場合にはお聞かせください。
 明日はオールスター競輪がいよいよ決勝を迎えます。タイトルホルダー(GⅠ優勝者)がふたりだけで混戦模様。ラインは武田-手島-諸橋の関東,市田-佐々木,井上-高木の混成ラインがふたつの3分戦で,佐藤と白戸は自在戦。難しいですがオリオン賞でああ書いた手前,市田選手◎からいきます。もちろん先行一車といえる武田選手○も有力。あとはタイトルホルダーに敬意を表して佐藤選手▲と高木選手△。

 定義六の残る問題はこの定義の性質,すなわちこれは実在的な定義なのか名目的な定義なのかということですが,たぶんこれはどちらとも解釈することが可能で,エチカを専門的に研究しているような学者の間でも意見は分かれるのではないかと思います。僕自身の考えについていえば,確かに神の存在はこの定義のみから発生するのであって,この意味で,この定義は実在的であると考えているのですが,後に採り上げますが定理一一で神の存在をスピノザが証明するとき,スピノザは単にこの定義のみには訴えないような証明も示していて,この点では名目的であると考える余地もあると思います。ただ,どちらであるかということについては,ここでのテーマにはあまり関連しませんので,これはとりあえず問題として残しておいたまま,この定義そのものの正当性の方をみていくことにします。
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竜王戦&暫定的解釈

2006-09-04 22:06:50 | 将棋
 竜王戦の挑戦者決定戦の第二局は先後が入れ替わって丸山九段の先手。後手の佐藤棋聖の作戦はごきげん中飛車。王位戦の第四局では羽生王位が少し古めの対策をしましたが,本局は丸山九段が角交換から▲9六歩の佐藤流で対抗したので,同じ戦型でもまったく異なる形となりました。それに対して佐藤棋聖は,将棋の常識からすればちょっと変な形なのですが,早め(12手目)に△7二金と上がる戦法。これは後手でのごきげん中飛車を得意戦法としている遠山四段が最初に指した指し方だそうです。その後,先手が3筋から踏み込んで仕掛け,馬を作ることには成功したのですが,佐藤棋聖が左の金を進出させ,この馬との交換を強要し,さらに2三と1二に角を並べて遠く先手玉を見据えた辺りでは先手の作戦失敗がはっきりとしたようで佐藤ペースに。差は見た目よりもずっと大きかったようで,はっきりとした終盤に突入することもなく,64手の短手数で先手の投了。双方が時間を残したままの終局で,丸山九段としては不本意なできの将棋となってしまいました。これで佐藤棋聖が挑戦権を獲得渡辺竜王との七番勝負の第一局は,10月10日と11日にアメリカで指されます。
 これは予告になりますが,明日,このブログのスタイルについて説明します。

 定義六の前半部分と後半部分が「言いかえれば」という接続詞で結ばれることが可能であるのは,後半部分が,前半部分で神は絶対に無限であると定義されているのに対して,その絶対に無限であるということの意味を説明しているからです。そこで僕は,各々の部分の述語に注目し,ここでの実有を実体に近い意味で理解することにして,話を進めていくことにします。ただしこれは,あくまでもここに限っての暫定的なもので,どう考えてもこの解釈は正当ではありません。実有がensであるのに対して実体はsubstantiaで,ensはesse(有)により近い筈で,そのゆえに訳者の畠中尚志もそのように訳していると思うからです。ただ,実有と有のはっきりとした違いは僕には現段階では分かりませんから,この部分に限り,この解釈を採用することにします。
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オリオン賞&実有

2006-09-03 22:01:35 | 競輪
 オールスター競輪2日目のオリオン賞。先頭に伏見選手,3番手に佐々木選手,5番手に平原選手,8番手に金子選手で周回。残り2周前から金子選手が上昇すると,一旦このラインに切替えた平原選手が打鐘前に抑えて流しました。そこを後方から佐々木選手が発進して残り1周のホームから先行争いに。この争いはすぐに外の佐々木選手が制したのですが,この間に平原選手の番手の高木選手が佐々木選手の番手の市田選手を捌き,一旦は内でレースを諦めかけたような平原選手を迎え入れ,前から佐々木-平原-高木-鈴木でバックに。そこから鈴木選手の後ろで伏見選手の外を併走していた金子選手が捲りにいったのですが車がほとんど出ていきませんでした。結局,番手から直線の入口辺りから踏み出した平原選手が楽に抜け出し,差しの決り手で1着,平原選手を追った高木選手が2着で,高木選手に捌かれバックでは9番手になってしまった市田選手が,そこから立て直して自力で終始外を踏み上げて3着に届きました。捌かれたことを別とすれば,この市田選手のレース内容はかなり強く,明日以降も注目です。僕が期待した金子選手の敗因は,僕の考えでは周回が8番手になってしまったこと。どちらかといえば長い距離を踏めないスプリンタータイプなので,こういう競走は向いていないと思います。
 明日は竜王戦の挑戦者決定戦の第二局。佐藤棋聖が勝つと挑戦決定で,丸山九段が勝てばもう一局です。なお,第一局は,実際は佐藤棋聖の寄せがまずかったらしく,感想戦の結論として,丸山九段が正確に受けていれば(△6七歩成のところで△7三金),はっきり先手が勝ちとはいえなかったようです。ただ,丸山九段がそれを逃してしまったので,将棋としては佐藤棋聖の快勝となったということです。

 定義六の疑問のうち,絶対に無限というのをどのように理解すればいいのかということについてはこれでいいとして,次は実有というのをどう理解するべきかを考えたいのですが,正直なところこれは現在の僕の手には負えないのです。ここで実有と訳されている元の語はensで,この語はところどころでは単に有とも訳されるのですが,エチカに登場する有という語は,多くの場合は元はesseです。つまり,わざわざスピノザはensとesseを使い分けているわけで,スピノザが術語の使い方に関していい加減なところがあることを割り引いても,もともとは各々の語に別の意味を託していたであろうと僕は思うのですが,有(esse)と異なる意味での実有(ens)をどう考えるべきかはちょっと分からないです。ただ,これでは話が前に進んでいかないので,この部分の実有に関しては,別様の解釈をすることとします。
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ドリームレース&有限

2006-09-02 22:23:37 | 競輪
 オールスター競輪初日のドリームレース,周回中は吉岡選手が前受けで,単騎の3人を挟んで中団が武田選手,後方が小嶋選手になりました。残り2周の赤板から小嶋選手が上昇して前を抑えるとこれを打鐘からさらに武田選手が抑えて先行。このラインに海老根選手が続き,3番手は一旦は小嶋選手と取り合いになり,結局は小嶋選手が引く形で4番手。バックから6番手の村上選手と7番手の吉岡選手が動こうとしたのですが,3番手の海老根選手も発進。これを神山選手がブロックしたために小嶋選手は車を出しきれませんでした。そこを瞬時に判断して開いた内に突っ込んでいったのが加藤選手で,直線の入口では神山選手をインから交わして武田選手に追いつく態勢に。そのまま楽に抜け出して勝ちました。2着は接戦となったのですが,加藤選手を追う形になった村上選手が逃げ粘る武田選手を僅かに交わしていました。
 明日もファン投票の上位選手たちによるオリオン賞が行われます。並びは伏見-佐藤の福島,平原-高木-鈴木の広い関東,金子-山田の中部,佐々木-市田の西日本で4分戦。僕はここは金子選手◎からいきたいです。となると普通は山田選手ですが,そこをあえて佐藤選手○,市田選手▲,高木選手△の別ラインの番手選手たちへ。

 せっかくスピノザが無限についてどう考えているかをみたので,ここでのテーマには不要かもしれませんが,有限についてどう考えているかもみておくことにします。こうした事情なので全文は紹介しませんが,参考になるのは定義二で,これによると,無限というのが絶対に無限である場合と自己の類において無限である場合とに分けられるのに対して,ある事物が有限であるといわれる場合には,常に自己の類において有限であるといわれています。無限についての考え方からして,自己の類というのは同一の属性と考えていいでしょうから,これは,たとえば物体(延長の属性の個物)は延長という類において有限である,つまり,ある物体は延長の属性に属するほかのもの(たとえばほかの物体)によって限定されるから有限なのであって,物体がたとえば観念(思惟の属性の様態)に限定されることはないという意味になり,スピノザもそのように述べています。そしてこれはあくまでも部分的にですが,前回のテーマとして扱った公理五と関連していると僕は考えています。
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ニーチェとスピノザ・統一&無限

2006-09-01 23:32:14 | 哲学
 神は死んだというニーチェのことばは,実はスピノザを標的にしているのではないかと僕には思えることはもちろん,現実的にニーチェの哲学とスピノザの哲学では根本的に対立していると思える部分があることからしても,僕は基本的にこのふたりの哲学には埋め難い溝があって,究極的にいえば,ニーチェの哲学を選ぶのか,それともスピノザの哲学を選ぶのかという選択があるだけだと考えていました。ところが,現代思想のスピノザ特集に掲載されている浅野俊哉さんの論文によると,ドゥルーズは自分のすべての仕事について,それはニーチェとスピノザの重大な統一を目指していたという意味のことをいっていたと知りました。ニーチェとスピノザの統一。正直にいえばそれは僕にとって,無理であるとか可能であるとかいう前に,思いつきもしないような視点でした。それにどういう方法があるのかということは別としても,このことを知って以来,このふたりの哲学に対する僕の視点というのが,少しだけ変わったのは間違いのないところです。
 明日から花月園競輪場でオールスターGⅠが始まります。。文字通りこれは,ファン投票で出場選手を決定する大会で,6日まで,5日間の開催です。明日はファン投票上位9名によるドリームレースがあるので予想します。ここはまったく自力が使えないという選手はゼロ。できるラインは武田-神山の関東,小嶋-加藤の中部,吉岡-小倉の西国で,山崎,海老根,村上は単騎になる模様です。ここは加藤選手◎と小嶋選手○,武田選手▲と神山選手△という順でしょうか。

 神についてそれを絶対に無限と定義していることから,逆にいえばそれは単に無限と定義するだけでは十分でないとスピノザが考えていたことは間違いありません。これも定義六の直後のスピノザの説明によれば,スピノザが考える無限には絶対に無限のほかにもうひとつあって,それは自己の類において無限といわれています。この説明からすると,各々の属性とか,それらの属性の無限様態(個物ではないような様態)が自己の類において無限といわれるようです。たとえば,物体としての全宇宙(延長の属性の無限様態です)というのは,それを限定するいかなる物体も存在しないという意味で無限ですが,それはたとえば思惟の属性に含まれるようなものの本性については一切含むことがないので,絶対に無限とはいわれずに,自己の類(延長の属性という類)において無限であるといわれるようです。
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