スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

JRA賞&通夜と葬儀

2012-01-08 19:09:29 | 中央競馬
 2011年度のJRA賞が6日に発表されました。
 年度代表馬はオルフェーヴル皐月賞,ダービー,菊花賞の三冠を制した上に古馬相手の有馬記念も勝ったのですから当然の選出。血統的にはむしろ奥行きがあるタイプと思え,今年のレースがさらに楽しみです。ほかにスプリングステークスと神戸新聞杯も制覇。部門別では最優秀3歳牡馬。
 最優秀2歳は牡馬が朝日杯フューチュリティステークスを制したアルフレードで牝馬は阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったジョワドヴィーヴル。これは例年通りの選出。とくにジョワドヴィーヴルは今年の注目の1頭といえるでしょう。
 最優秀3歳牝馬は秋華賞を勝ったアヴェンチュラ。年間を通して活躍した馬は不在でしたが,秋には古馬相手にも好走しましたので妥当な選出と思います。クイーンステークスも制覇。
 最優秀4歳以上牡馬はドバイワールドカップを制したヴィクトワールピサ。票が割れたように難しい選択。僕に権利があればトランセンドに投票しましたが,ドバイワールドカップは世界最高峰のレースのひとつですし,そこでトランセンドを斥けてもいますので,選出に文句はありません。ほかに中山記念優勝。2010年度最優秀3歳牡馬で2年連続の受賞。
 最優秀4歳以上牝馬はジャパンカップ優勝のブエナビスタ。昨年はこの1勝にとどまりましたが,他との比較から当然の受賞。2008年度最優秀2歳牝馬,2009年度最優秀3歳牝馬,2010年度の年度代表馬で4年連続の受賞です。
 最優秀短距離馬はスプリンターズステークスを勝ったカレンチャン。この部門はいろいろなタイプの馬が選出されますが,昨年はこの馬が受賞候補の筆頭で,順当でしょう。阪神牝馬ステークス,函館スプリントステークス,キーンランドカップも優勝。昨年最大の上昇馬だったと思います。
 最優秀ダートホースはフェブラリーステークス,南部杯,ジャパンカップダートと大レース3勝のトランセンド。JRA賞はJRA主催レースでの実績が重視されるべきで,当然の選出だと思います。
 最優秀障害馬は中山大障害を制したマジェスティバイオ。東京ジャンプステークスと東京ハイジャンプも勝っていますから当然の選出でしょう。この馬は今後の障害界を担っていく馬だと思います。

 祖母は夫,つまり僕の祖父を亡くしたときに葬儀を営んでいます。そのときにお世話になったお寺との関係が,檀家としてずっと続いていました。毎年,お盆の時期には住職が訪れて読経していたのです。現在は仏壇はアパートにありますので,ここ何年かはアパートの方に来ていたということになります。
 このお寺は平塚市,といっても海の近くではなく北東部の相模川沿い,駅でいえば対岸のJR相模線の寒川駅に近いくらいのところにあり,僕も祖父の法事で行ったことがあります。元々は大和市内のお寺にお勤めしていた住職が独立してこちらに移動したとのこと。祖母の通夜と葬儀もこのお寺の住職に依頼しました。そういう意味では南部斎場は,横浜市内の斎場としてはこのお寺に最も近いわけで,あくまでも火葬場の空き状況による決定ではありましたが,よい選択だったかもしれません。
 母が倒れる以前は運転していましたから,自動車はありまして,これをそれ以後は叔父が使っていました。ただこの自動車は自宅の前に駐車するという関係で小型車。従妹とその母は自分たちで来るということでしたから,乗るのは叔父のほかに母と僕と妹,そしてロサンゼルスの伯母の5人ですが,それでもきつかったので,レンタカーを借りました。通夜は14日の午後6時から。僕は元々の予定ではこの日の午後は仕事で,間に合うか間に合わないかぎりぎりになりそうでしたので,前日に前倒しして済ませました。よって時間的には余裕を持つことができました。
 檀家となっている寺は高野山真言宗。父やK伯母のときは本門仏立宗で,本門仏立宗の場合はこういったときにはまず1時間は読経しますが,このときは30分ほど。まあ参列している側からすれば,あまり長い読経はどうなのかと思わないでもありません。別室で夕食を摂って帰宅したのが午後8時半前くらいのことでした。
 翌日の葬儀は午前10時から。これは葬儀にしては早い時間ですが,火葬場の空き時間が午前11時でしたのでこうなりました。もしも斎場と火葬場が離れていたら,その間の移動というのも考慮してもっと早い時間に葬儀を始めなければならない可能性もあったわけですから,この点でも結果的に南部斎場はよい選択となったといえるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災被災地支援立川記念&家族葬

2012-01-07 18:51:03 | 競輪
 新年最初の記念競輪となる立川記念の決勝。並びは岡田ー佐久間ー関の関東,岡村ー望月ー金川-勝瀬の南関東,深谷-岩津の西日本。打鐘前のホームで前に岡村,番手の望月の外に岡田が並走するような形で後方の外に深谷,ここから深谷が発進し,打鐘で岡村を叩ききると,やや緩めた感じ。岡村が3番手,岡田が7番手で一列棒状のままレースは進み,深谷が本気で踏み出していったのは2コーナー手前くらいだったように見受けられます。こうなると力が違いますから後ろから巻き返すのは困難。岩津も後ろを振り返り,余裕があるようにも思ったのですが,1着争いという態勢には至らず,逃げ切った深谷の優勝。岩津が2着で3着にも岡村が流れ込みました。
 優勝した愛知の深谷知広選手は昨年6月の一宮記念以来の記念競輪3勝目。初優勝が昨年の立川記念ですので当地は連覇。ここははっきりいって相手関係が楽でしたからごく順当な優勝。脚力だけなら日本一と思うのですが,最近は相手の工夫した作戦になかなか思い通りにレースを組み立てられないといった印象。もっともそうしたことはレース経験が解消してくれるのではないかと思います。今年も競輪界の中心選手として,記念競輪はもちろんビッグでも活躍してくれるでしょう。
                              

 僕に物心がついた頃,祖母は大和市,相模鉄道と小田急の大和駅のほど近くに住んでいました。同居していたのは夫と長男,これは今はアパートに住んでいる叔父で,その妻と夫婦の間の一人娘,僕からみますと従妹の5人。母の実家にあたりますから,僕も何度も行ったことがありました。祖母の夫は僕が小学校5年生の時ですから,今から思えば早くに旅立っていったということになるかと思いますが,その後も長男夫婦の離婚によって僕の家に同居するようになるまで,ずっとそこで暮らしていました。祖母が最初に脳出血を発症して入院することになったのは,もう20年以上前ですが,この大和に住んでいた時期のことです。
 祖母は大和では舞踊の師匠をやっていまして,弟子がたくさんいました。横浜に移ってからはそうした方々との直接的な交流というのはかなり少なくはなりましたが,年賀状のやり取りなどはずっと続いていまして,それはかなりの数に上っています。
 一方,祖母はもともとは秋田県の出身。きょうだいもいまして,そのこども,つまり祖母からみれば甥や姪ということになりますが,そうした親族との交流も途絶えてはいませんでした。とくにそのうちの一軒は稲作農家をしています。僕の家の米はあきたこまちですが,これはその家から直接的に購入しているもの。もう何年前になるでしょうか,米が不作で輸入をしたという年がありましたが,そういった関係から僕の家ではその影響を被るということもありませんでした。
 このように生前の祖母にはいろいろな交流というのがありましたから,そうした方々に連絡を入れて通夜と葬儀を営めば,それなりの数の参列者になることが予想できました。しかし今回は母や叔父の意向もあってそのようにはせず,家族葬という形で慎ましく行うことになりました。やはり交流があった方々もそれなりの年齢に達している人が多く,わざわざ足を運ばせるのもどうかという気があったようです。したがって参列したのは母とアパートの叔父,ロサンゼルスの伯母,そして僕と妹。さらに従妹と従妹の母,つまりアパートの叔父の前妻の7人のみ。従妹と前妻の親子は通夜のみでしたので,葬儀の方は5人だけでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棋王戦&納棺

2012-01-06 19:01:01 | 将棋
 勝者が久保利明棋王への挑戦者となる第37期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第二局。
 振駒で広瀬章人七段の先手。郷田真隆九段の2手目が△8四歩でしたので中飛車を選択。角交換の将棋となりました。
                              
 もうすでに中盤の戦い。ここで先手は▲7五銀と決戦を挑みました。角は行く場所がないので△同角▲同金は必然で,△8七歩成も当然。先手は▲4五歩△同歩と穴を開け,▲5ニ歩成△同金上と成り捨て,▲7三桂成△同桂と桂馬を捨てて一歩を入手し▲4四歩ですが,いかにも苦心した手順という印象で,すでにやや苦しかったように思えます。
                              
 ここで後手は銀取りを放置して△7七とと寄ったのですが,この手が勝ちを決めた手だったように思います。▲4三歩成△同金右に▲9五角の両取りですが△8八飛成と進入。▲7三角成は角を打った以上は仕方ないでしょうが△4六桂がきつい一撃。▲4七銀打△3八桂成▲同金に△4六歩も絶好で,▲同銀△4七銀となったところでははっきり後手の勝勢といえる局面となりました。
                              
 郷田九段が勝って挑戦者に。2009年春の名人戦以来の大舞台登場です。

 納棺は翌日,12月12日でした。K伯母の納棺の儀は葬儀屋の施設で執り行ったのですが,祖母の場合は特別養護老人ホームでした。つまり11日の夜は,遺体を特別養護老人ホームに置いたままにしたのです。僕は最後までこの特別養護老人ホームの施設の中には入ることがありませんでしたのではっきりとは分かりませんが,こうした施設ですから,遺体をひとつ安置する程度の霊安室のような部屋があったとしても不思議ではないでしょう。
 この晩に祖母の遺体をここに置いたままにしたのは,僕たち親族の希望ではありませんでしたし,葬儀屋の都合でもありませんでした。特別養護老人ホーム側の要望であったのです。こうした施設ですから当然ながら年中無休ではありますが,すべての職員が出勤しているというわけではありません。とくに11日は日曜でしたから,休みという人も普段よりは多かったかもしれません。そこで,当日は休みの職員も,翌日には出勤してくるので,そうした職員にもお別れの場を設けさせてほしいという要望があったのです。こちらとしてもそれは断る必要がありませんから,この晩は遺体をここに安置してもらうことにしました。そして翌日,その場で遺体を棺に納め,今度は葬儀屋の施設で通夜まで管理してもらうということになったのです。なお,祖母の納棺にこちらから立ち会ったのは母と叔父のふたりでした。
 もう最後ですから名前を出しておきますが,この特別養護老人ホーム本牧ホームというところ。母が小脳出血で倒れたことが直接的な契機となって入所することができたのですが,最後の申し出からもご理解いただけるかと思いますが,非常に懇切丁寧な特別養護老人ホームであったと思います。とくに祖母は僕から見ても我儘だと思えるところがありましたので,職員の方々も苦労が多かったのではないかと思います。そういう点でも強く感謝しています。
 翌13日にロサンゼルスから伯母が来日。向うから連絡があった時点ではすでに祖母は息を引き取っていて,その後で急いで飛行機のチケットを入手しての緊急の来日となったわけですが,通夜が翌日の14日という日程になりましたので,それにも間に合いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京シンデレラマイル&南部斎場

2012-01-04 19:26:26 | 地方競馬
 18日のTCK女王盃の南関東地区の前哨戦となる第5回東京シンデレラマイルは,年末の30日に行われました。
 最内のゴールドセントの逃げ。ローズデュルワ,キープザチェンジ,ミステリアスバイオ,マニエリスム,ハルサンサンまでが先行集団を形成。前半の800mが48秒4でこれはハイペース。
 集団はあまり変わらぬまま直線に。この中から一番外を伸びたのがマニエリスムで,その内からハルサンサン。この2頭の競り合いはハルサンサンが勝り,抜け出そうというところに襲い掛かったのが先行勢の直後にいたテイエムヨカドー。ラストはこの2頭の叩き合いとなり,僅かに交わしたテイエムヨカドーが優勝。ハルサンサンが2着でマニエリスムが3着。
 優勝したテイエムヨカドーは荒尾に遠征した一昨年夏の霧島賞は優勝していますが南関東重賞はこれが初制覇。重賞でも通用していた能力があり,最近は不振ではありましたがその力を出せばこの勝利も不思議ではない馬。いくらなんでも人気を落としすぎていたように思います。ただ,好走が続かないので,馬券的には難しいタイプの馬であることには違いないでしょう。父はテイエムオペラオー。祖母の兄に2000年の北海道スプリントカップを制した北海道のオースミダイナー
 騎乗予定であった本田正重騎手の病気で乗り替わった船橋の山田信大騎手は2009年10月のTCKディスタフ以来となる南関東重賞制覇で東京シンデレラマイル初勝利。管理している船橋の渋谷信博調教師はこれが南関東重賞初勝利でした。

 現実に祖母の死を迎えたわけですから,その後の予定を早急に決定する必要がありました。先述したように妹がいましたから僕はずっと家にいたわけで,特別養護老人ホームの方で具体的にどんなやり取りがあったのかということについては詳しくは分かりません。母や叔父から後で聞いた話を総合すると,以下の通りだったようです。
 特別養護老人ホームですから,そこで人が死ぬということは,今回の祖母だけではなく,どれくらいの頻度であったかは分からないですが,珍しいといえるようなケースではなかったろうと思われます。おそらくそうした関係もあったからでしょう,葬儀屋に関してはこの特別養護老人ホームで手配してくれたようです。具体的な日程を決定するのにあたって最優先されるのは,何といっても火葬場の空き状況です。この時点で儀式を営むということも勘案した上で,最も早い段階で荼毘に付すことができるのが12月15日の午前とのこと。したがってその直前に葬儀を行い,その前日が通夜という日程がその時点で決まりました。つまりこれが11日の日曜のことですから,3日後が通夜ということになったわけです。するとその間は遺体を管理しなければならないわけですが,これは葬儀屋の施設に置いてもらえるということになりました。
 父は北部斎場,K伯母のときは久保山斎場でそれぞれ火葬したのですが,このときに空きがあったのは南部斎場というまた別の斎場でした。南部斎場というのは金沢区ではありますが,栄区との境,鎌倉市にも近い辺りです。横浜横須賀道路という高速道路の朝比奈インターチェンジの近くですが,ここは本当に斎場を建てるためだけに緑地を切り開いたようなところであり,周囲にはこれといった施設がありません。そのために火葬場の施設の中に,通夜や葬儀を営むことができる斎場もありまして,祖母の場合もそこで営むことになりました。要するに葬儀を終えてから移動する手間というのはなくなるわけで,これは参列する側からすれば便利ではあります。位置的にいますと僕の家から行くにはちょっと距離があるところではありますが,叔父が運転する自動車に同乗できますので,僕はもちろん,母や妹にも問題はありませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

報知オールスターカップ&老衰

2012-01-03 19:23:44 | 地方競馬
 金沢から1頭,高知からは3頭が遠征してきた第48回オールスターカップ
                              
 先手を奪ったのはナターレでこれは予想通り。しかしジャングルスマイル,スーパーパワー,コスモフォース,スターシップ,ピサノエミレーツまでの6頭は一団でレース。この距離としてはペースは速かったのではないかと思います。
 向正面でジャングルスマイルがナターレに並び掛けていこうとするとナターレも抵抗。むしろジャングルスマイルの方が苦しくなって後退。そこではじっとしていたスターシップが変わって外から2番手に上がり直線に。そのままスターシップがナターレを交わして先頭に立つと,あとはあまり差を詰められることなく抜け出しての優勝。その他の先行馬が失速したので2着争いには差し馬が台頭し,コースロスなく最内から差を詰めた伏兵のロードキャニオンが2着。外を回したトーセンルーチェが3着。
 優勝したスターシップはJRA37戦6勝でここが南関東転入初戦。もう8歳ですので上積みは見込めませんが,一昨年のオープンを勝ち,昨年の夏にもオープンで3着していましたので,力量は上位と目された1頭。他馬が失速する中,先行して抜け出したレース内容はそれを示したように思います。南関東重賞ならまた好走できるのではないでしょうか。父はクロフネ,従姉に1996年の最優秀短距離馬・最優秀父内国産馬のフラワーパーク
 騎乗した船橋の石崎駿騎手は昨年8月のスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞制覇でオールスターカップは初勝利。管理することになったのは船橋の出川克己調教師でこちらもオールスターカップは初勝利。

 その日の朝に電話があって,数時間後には旅立っていったのですから,僕にとっては祖母の死は唐突というか急なものに感じられはしました。本牧病院の医師によって下された判断は老衰でした。
 以前に永久欠番で紹介した父の長姉の夫,僕の伯父の死因も老衰でした。その伯父の場合は長男と同居していまして,前日の夜まではそれまでと変わらずにいて,しかし翌朝は起きてくることなく,そのまま死んでいったのです。特別養護老人ホームの方から前日の夜のうちに連絡がなかったということは,おそらく祖母の場合も12月10日の夜は,それまでの夜と何ら変わらずにいたのでしょう。職員の方は翌朝になればまた起きてくると思っていたでしょうし,おそらく祖母自身もそういうつもりであったのだろうと思います。しかし祖母はその夜の眠りについたまま,そのまま目覚めることはありませんでした。このように考えますと,老衰による死というのは,周囲の者にとってはもちろん,本人にとっても唐突に訪れるものなのかもしれません。
 僕は概念としていうならば,死というのは生の反対概念ではなくて,むしろ生という概念の一部を構成するような概念であろうと思っています。生というのは明らかに有,個物にとっての現実的有であり,もしもそれの反対概念があるとすれば無,あるいは現実的無とでもいうべきものだと考えるのですが,死というのはそうした現実的無などではなくて,むしろ個物の現実的有の一部を必然的に構成するような要素だと思うのです。そしてこの祖母の死に様というのは,そうした考え方を体現するものであったというように思えてなりません。実は祖母はその伯父と同い年です。ですから老衰による死というのが,すでに訪れていてもおかしくはない年齢であったのです。本人がそれをどのように感じたのかということは,それこそ本人でなければ分からず,残された者にとって謎としてしか残らないわけですが,少なくとも傍目から判断する限りでは,強い苦しみに襲われたというような様子も一切なしに,生の終焉としてその一部をなしている死という状態に移行したのですから,大往生であったといっていいのではないかと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災被災地支援ヤンググランプリ&祖母の死

2012-01-02 18:18:03 | 競輪
 次代の競輪界を担う若手の登竜門,ヤンググランプリは12月28日に平塚競輪場で争われました。並びは相川-上原の関東,松岡-西村ー坂口の中部,才迫-小川の瀬戸内で,村上と柴田が単騎。
 前受けとなったのは松岡。柴田が4番手で5番手に相川,7番手で才迫,村上が最後尾という周回に。早めの動きはなく,上昇した才迫が松岡に並び掛けたのがようやく打鐘のあたり。これでは松岡も引けず,先行争いとなり,松岡の突っ張り先行となって才迫は後退。小川が外から番手戦を挑み,村上は坂口の後ろに。バックから村上が捲るもこれを坂口が牽制。このまま両者が並走して,坂口が自力で抜け出そうとしたところ,村上の後ろからインに切れ込んだ柴田が直線でよく伸びて優勝。柴田マークのような形から相川が2着に入り,坂口は3着まで。
 優勝した静岡の柴田竜史選手はこれがグレードレース初制覇。ここは核となる選手が不在で,いってみればだれにでもチャンスがあると思えるメンバー構成だったのですが,その中で単騎でうまく立ち回りました。すぐにトップクラスで戦うというだけの力があるようには思いませんが,まだ成長が見込める選手で,さしあたっての目標は記念競輪の優勝ということになるでしょう。

 特別養護老人ホームに到着した母から連絡があったのは9時半頃でしたので,到着して間もなくのことだったろうと思います。祖母は危篤ということでした。後に聞いた話によりますと,この日は特別養護老人ホームを担当している本牧病院の医師が回診のために来ていて,その医師の診察によれば,もう数時間ほどであろうと言われたそうです。僕がその時点で知っていたのは危篤ということだけ。また,この日は日曜日ですから作業所が休みの妹も家にいまして,まだ眠っていました。なので僕は特別養護老人ホームの方には駆けつけず,そのまま家で待っていました。
 このとき母から連絡があったのは,実際には祖母が危篤であるということを僕に知らせるためではありませんでした。この時点で,まだロサンゼルスの伯母と連絡が取れていなかったので,その旨をメールしてほしいという依頼であったのです。時差から考えますと,この時間に寝ていたということは考えにくいでしょうから,おそらく何らかの用事で家を留守にしていて,電話をしても繋がらなかったのではないかと思います。もしもこのときにスムーズに連絡ができていたなら,僕は祖母が危篤であるということを知ることもなかっただろうと思います。
 伯母はアメリカでは携帯電話を使っていたのかどうか知りません。僕が把握していたのはパソコンのメールアドレス。そしてそれは僕のパソコンメールのアドレス帳に保存してありました。よって母からの電話を終えるとすぐに自室に向い,パソコンを起動した上でメールを送信しました。結果的に伯母から電話での連絡があったのは,こちらの時間でこの日の午後1時過ぎでした。
 それとは時間的に前後してしまいますが,この次に母から連絡があったのは午前11時半過ぎで,祖母の死を伝えるものでした。回診に来ていた本牧病院の医師がこの時点ではまだ特別養護老人ホームに残っていまして,その医師が死亡の診断を下してくれたとのこと。もっとも,こうした話も後から聞いたものであって,この時点では単に死んだということだけが伝えられただけ。死亡して間もなくの連絡であったわけですから,当然ながら今後の予定なども,この時点では何も決まっていませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災被災地支援佐世保記念&朝の電話

2012-01-01 18:30:43 | 競輪
 2011年最後の記念競輪は佐世保記念で,決勝はクリスマスの日でした。並びは桐山-内藤の神奈川,篠原ー坂上の中部,坂本-井上-梶応の西国で,菊地と市田は単騎という細切れ戦。
 坂上がスタートを決めて篠原の前受けに。3番手に坂本で市田,菊地がここを追走,8番手から桐山という周回に。桐山の上昇に篠原が引き,桐山が誘導の後ろになると,残り1周半から引いた篠原が桐山を叩き返して打鐘。菊地がこの3番手にスイッチ。ホームに入って桐山が仕掛けましたが,これを坂上が牽制。この間に菊地が篠原の番手に潜り込もうとし,さらに桐山の後ろから内藤も絡み,隊列が短くなりました。ここをバックから坂本が発進すると鮮やかに捲りきり,マークの井上と直線勝負。井上がわりと楽に差し切って優勝。坂本も2着に粘り,3着には菊地。
 優勝した長崎の井上昌己選手は2010年9月の防府記念以来となる記念競輪5勝目。個人的にはもっと力がある筈だと考えている選手なので,もう少し活躍してほしいところ。ここは前が混戦となり坂本の捲り頃の展開となりましたし,その坂本も本調子には欠けているような近況ですから,やや恵まれたような印象が残ります。佐世保記念を長崎の選手が優勝したのはこれが初めてということで,本人にとってはもちろん,地元のファンにとっても嬉しい優勝だったのではないかと思います。

 この49日法要は,百日法要を同時に兼ねたものでした。父の百日法要のときは,母が入院中であったということもあり,自宅で少人数で営んだのですが,実際は百日法要というのは行わないか,このK伯母の場合のように,49日法要のときに前倒しして同時に済ませてしまうというケースの方が圧倒的に多いようです。そういう意味では実際に百日法要を営んだ父の場合の方が,むしろレアケースであったのかもしれません。
 この週の金曜日,12月9日の午前中にО眼科に定期検診に行くことができました。この眼科はいつも混雑していて,この日もそうではあったのですが,僕が通った中ではたぶん最も空いていたのではないかと思います。10時過ぎに家を出たのですが,11時半過ぎには帰ることができました。検査の内容はいつもと同様に,眼圧測定,視力検査,そして散瞳をしての網膜症の検査で,網膜症もまた同時に検査している白内障についても異常なしでした。また,眼圧については調べるたびに上限ぎりぎりで正常の範囲内という数値がずっと出ていたのですが,この日は両目とも15mmHgで,これまででは最も低い数値でした。散瞳をしますとその影響でその後の生活にも数時間ほどは支障を来します。この日は午後からひとつだけ用事があったのですが,これは午後4時ごろからのものでしたので,そのときにはすでに問題は解消していました。
 その翌日,12月10日の朝,9時前ごろでしょうか,自宅に電話がありまして僕が出ました。掛けてきたのはアパートの叔父。叔父が電話を掛けてくることはあまりありませんでしたし,電話口から聞こえてくる声の雰囲気も,明らかに普段と違っているようでしたから,何か重大な事態が発生したようだと直観しました。ただ叔父は母と話したかったようで,代わるように言われましたから,僕としても何も聞かずに母に受話器を渡しました。内容は,この少し前に,祖母が入所している特別養護老人ホームから叔父のところに電話があって,祖母の状態が非常に悪いのですぐに来るようにと言われたというもの。アパートは僕の自宅からすぐ近くですので,母も一緒に連れて,ふたりはすぐに特別養護老人ホームへと向ったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする