書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

潜在被害?。 #鉄道粉塵

2013年05月17日 16時45分09秒 | 日記
○鉄道線路のカーブ付近で目に異常を訴える場合があるらしい。

 鉄道線路のカーブ部分で、線路と車輪が擦れて鉄の粉が飛び散り、これが目に入って炎症を起こす場合があるようなのだ。

 そういえば線路のバラスト(砂利)っていうのは鉄の粉が錆びて赤く変色している。

 線路と車輪が擦れて飛び散る鉄の粉というのは、形状が鋭利になるようで、角膜に傷を付ける可能性が高いらしい。

 風向きによって被害が変動する可能性もある。

 実はウチの近くにも線路があって、夏の夜に窓を開けて寝ていると朝起きた時に目が異常に痛いケースが何度かあった。夏に限ったことだったので、他の原因も考えられるんだけど、鉄道線路からの鉄粉が原因の可能性も有り得る。

 本当に鉄道線路から鉄粉が飛び散って、周囲の住人が目に異常を訴える事例がどの程度あるのか、"#鉄道粉塵被害"とかいうタグをこさえて情報提供してもらえばわかるのかな。その辺りはおいらはWeb初心者なので良くわからないです。

 もし鉄道カーブで被害が発生しているのであれば、もっと昔から顕在化していても良さそうな気もするんだけど、もしかすると原因自体に誰も気付かずに危険が放置されているのかも知れない。

 具体的対策としては、鉄は磁石で吸着出来るから、強力な磁石で集めることは出来ないのかな。効果的なのは発生源である列車の車輪付近に取り付けるとか、被害の大きな目の周囲で吸着するよう眼鏡フレームにネオジム磁石を取り付けるとか。扇風機のガードにネオジム磁石をくっつけるだけでも効果がありそうな気もする。

 多分線路や車輪から飛び散った直後の状態が危険なのであって、時間が経てば酸化して鋭利な形状では無くなるんだと思う。



Ende;
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支離滅裂。

2013年05月17日 16時42分55秒 | 意識論関連
○支離滅裂。

 「時には体罰も必要だ。」とか「シツケ」と称して暴力を正当化する奴に限って、権威や暴力者に対して無批判。

 体罰シツケが必要な奴に対しては一切何もせず、弱いものイジメばかりしており。

 当然自制心もない。

 すなはち、恐い相手や自分自身は「シツケ」られないのである。

 これは自己論理検証性という人間としての本質的「意識」がない典型例である。どんなに感情的な「意識」の強さを伴っても、感情気分という無意識の大きさこそが本質的「意識」を喪失させる原因なのである。



○無責任。

 「気分感情=心」などという文科系大衆観念を振り回すのは簡単である。

 また、カントのように純粋理性を観念的に批判するのも簡単である。

 利益追求を合理性と呼ぶのは理論的に大間違いであり、利益追求自体が欲望主体の行動であり。利益追求というのは欲望を追求しているのであって、合理性自体は追求していないのである。

 本質的な合理性追求というのは、合理性を主体性とした自己自身の欲望や感情といったものをも制御することを指すのであって。決して利益追求のような利己的行動選択を指すものではない。

 人間としての「心」とは、その場限りの気分感情に流されることなく、自分自身を含む社会全体の安全性や持続可能性を優先した理性的で合理性のある行動選択を指すのである。

 生物学における生物の定義とは、「個体で自律的に生存可能なもの。」を指すが。地球上の生物のほとんど全ては地球環境なくして個体を維持出来るものではなく、生物学における生物の定義自体が科学論理的に成立していないのである。

 振り込め詐欺師達が「個体集団の生存にとって有利。」な行動であるとしても、振り込め詐欺師達が住む社会自体の持続可能性がない以上、それは自滅への暴走に過ぎない。

 「個体の生存にとって有利。」だとか「種の保存」といった観念は、現在の生物学におけるオカルト性に他ならず。こうしたオカルト性こそが優生学のオカルト性を批判出来ない原因となっているのである。

 こうした従来の生物学における根源的オカルト性について、自律的に論理批判出来ないあらゆる生物学者というのは、科学者としての素養に決定的に欠けており。これはすなはち優生学の放置という大罪に加担しているという意味でもある。

 ニーチェだのドストエフスキーと共感して安心満足している哲学界も異常だが、本来振り込め詐欺師に対する根源的対策に踏み込めるのは脳神経認知科学を含む生物学界であり、自分達のオカルト性に対して論理批判しないバカ研究者を公費で雇い続けることも、無批判に放置するマスコミも無責任極まりない大罪である。

 科学というのは本来多数決で決定するようなものではなく、あくまで論理的に正しいかどうかで判定されるべきものであり。論理検証を誰もせずに学界内部の多数決だけで体制維持が行われている生物学界というのは、体制腐敗としか言いようがないのである。

 生物学者達個人に腐敗の意識があるかどうかは無関係である。むしろオカルトというのは自分達の行動選択を「人類の救済。」だとか思い込んでいて、「何がいけないのか、自分ではわからない。」からこそオカルトなのである。

 論理的に理解認識不可能性が立証可能な事柄を「わかりません。」と述べる謙虚さは科学にとって重要であるが。論理的に理解可能な事柄を、単に理解しないというのは、もはや科学でも何でもない。


Ende;
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再犯率。

2013年05月17日 16時41分27秒 | 意識論関連
○出所直後からひったくり。

 刑務所から出所直後から再犯する受刑者というのは少なくない。

 これは刑務所という場所、懲役罰というシステム自体が、囚人の人格形成には何ら影響を与えるものではないことの証明である。

 権威性を用いて他律強制的に服従させておけば、権威の監視下においては従順で取り扱い易い臣民を作り出すことは簡単であろう。しかし、他律強制をする権威の監視が届かない場所や条件においては、こうした従順なだけで自律のない者というのは、自律的には社会的責任判断を全くしないのである。

 社会安全性というものは、特定権威による統率によって実現可能なものではなく。あくまで個人が自律的に社会的責任を負うことによってのみ実現可能なものなのである。

 個人全てに自律的な社会的責任判断を行わせることは簡単ではない。むしろ短絡的で安易な権威性を用いた他律強制性に依存しているからこそ、社会安全性が全く向上しないのである。

 権威性を用いた他律強制力を用いた法統治というのは、形式的/表面的には大衆に安心感を与えるものではあるが。個人が自律的に社会的責任を負わない上っ面な大衆迎合に過ぎない。



 就職口が見つからない場合に再犯率が高いからといって、犯罪者だけが優先的に就職出来るようにするというのは、犯罪者優遇であり、真面目に生きている方が損になり。公平性が保たれない。

 就職口の有無という「環境」に依存した行動しか採れない個人の人格に問題の根源があるのであって、環境の方を変えてやるというのは根源的原因である司法が個人の人格、自律的判断を出来るようにすることを放棄するための言い逃れに他ならない。

 こうしたその場しのぎに再犯率を下げるための対処療法的な対策というのは、枝葉ばかりを整えて問題の根幹を放置するごまかしであり。司法システムそのものの根源的問題点を撹乱するための司法役人の取り繕いなのである。

 司法役人達は、自分達の権益を守ることばかりに執着し、本質的な社会安全性を蔑ろにしており、極めて悪質である。このことに気付かない大臣議員達の愚かさにもウンザリさせられるが、余程国家の中枢にはバカしかいないのであろう。

 就職口があろうがなかろうが、自律的に社会的責任判断を行う「人間」性を育てることが、本質的な社会安全性を高めることになるのであって。単に実際に触法行為を行って刑事裁判にかけられた者に罰を与えるだけの現在の司法システムというのは、犯罪を未然に防ぐための予防的根源策には全くなっていないのである。

 権力や暴力を用いた強制的抑圧というのは、その場限りには効果を発揮するものであるが。これは個人の人格を破壊し、むしろ自律的な社会的責任判断を取ろうとしない無責任なヒトを大量生産するものである。

 「シツケ」と称して虐待を正当化するのは簡単である。それを「日本の文化」と称して維持することも簡単であろう。こうした簡単で安易な話に丸め込まれているから、日本人はいつまでもバカのままなのであり、西洋人から見ても「何を考えているのかわからない。」ことに陥るのである。

 実際には日本人というのは「何も考えていない。」のであって、因習しきたりに則って多数派迎合して安心したいだけのバカの集団だからこそ西洋人から見て異様に見えるのである。




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