書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

css崩壊。

2013年05月25日 15時50分13秒 | 日記
 キヤノンですら壊れるcssなんだから、素人は手を出さない方が良いのかね。



 あぁ、厄介だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明るさを倍にする。

2013年05月25日 14時50分38秒 | 日記
○明るさを倍にする。

 スタイルシートとかで使う色を16進数で入力する場合、明るさを半分にするのは数値を2で割れば良いだけなんだけど、明るさを倍にするには単純に数値を倍にするのとは違う。

 色の明るさを倍にするってことは、つまり、最大値255までの残りを半分にした値を足すってこと。

 16進数で3cの場合、これを十進数に変換すると60になるので、255-60=195になり、この半分が97.5になるので、これを元の数に足せば明るさを倍にしたことになる。

 小数点以下は無視しとけば、197になるので、これを16進数に変換するとc5になる。

 ◇追記:激しく間違えてた。算数苦手なのです。

 16進数で3cの場合、これを十進数に変換すると60になるので、255-60=195になり、この半分が97.5になるので、小数点以下を四捨五入すると98になり、元の60に足せば158になるので、これを16進数に変換すると答は9eになる。



 説明するのもややこしいけど、読む方はもっと面倒臭いと思う。

 申し訳ない。(;_;)

 javascriptで計算させて一覧を出力させれば良いのか。


http://space.geocities.jp/srand4000/inui/bai.html


 おのおの改造してつこて。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愚民メソッド。

2013年05月25日 14時48分43秒 | 意識論関連
○公文式。

 公文式みたいに生徒のレベルに合わせて学校の勉強を教えられるんだったら、cssとかjavascriptといったWeb知識や、3Dプリンターで使うCADソフトの使い方を教えても良いんじゃないかと思う。

 なんで教育に限って常に入学試験を基準としたものばかりで、生徒自身が知りたいことを選択する権利がないんだろう。

 分数の割り算なんて入試以外に使うことないし。

 公文式では「ちょうど良い」能力に合わせて教えるのが基本的考えだそうで、子供個人の能力に違いがあるのは当然のことであって。それなら生徒当人の本質的モチベーションに「ちょうど良い」学習であれば小学生がjavascriptを覚えても良いはずなんだけどな。

 模型とか、ものづくりに興味のある子供ならCADソフトの使い方を覚えられるようにしても良いのではないか。

 鐵道に興味があるなら鐵道技術を覚えられるようにしても良いのではないか。


 もし、生徒に多様な能力を覚えられるようにするのであれば、これは学力試験によって順位をつけること自体に意味がなくなる。

 javascriptであれば、画像処理を中心にやるのか、それとも文章処理を主体にやるのか、ゲームプログラミングを主体にやるのか、それを大人が一辺倒な成績基準で査定することは出来なくなる。

 そもそも成績というのは社会に出てからの評価や報酬とは無関係なものであって、入試などの学力試験自体に価値が存在するわけではない。だからこそ「偏差値が高いだけの無差別殺人犯」というのが存在するのである。

 現在の教育における学力成績基準というものは、生徒が社会に出てからの生活を一切保証してくれるわけではない。社会の中で個人を評価する一定の基準など存在しないのである。

 教育というのは、大人が一方的に同じ基準だけで教え込むようなものではなく。子供が大人になってから社会を支えてくれる大切なパートナーとなってもらうためのものでなければならない。



 認知症治療に東北大学の川島隆太主導で公文式脳トレを用いているが、これは誉めて喜ばすという「環境」依存性を用いた誘導に他ならない。

 認知症患者というのは、脳トレの類を用いた意識誘導をし続けないと自律的には自分の脳を維持できないことの証明でもある。ということは、つまり、公文式トレーニングメソッドというのは「そそのかされて伸びる」という形式から逃れることが出来ない。

 特定の能力というのは、鍛えることで獲得可能なものである。それはスポーツでも暗記速読や暗算でも同じことであって、それが短絡的に「頭が良い。」ことの論証にはならず、社会持続可能性や安全性にまで常に配慮が出来る本質的知能とは無関係なのである。社会持続可能性や安全性に配慮が働かない限り、あらゆる特定能力の全ては人間としての知能としての価値は全く存在しないからである。



 脳というのは鍛えるとバカになる。長い間同じ価値観に基づいて無意識に行動していると、その価値観を事後正当化しなければいられなくなる性質があり。これはヒトの脳の極めて基本的なシーケンス「常習性」によるものである。

 養老孟司が述べた「自分は30年間安月給で働いた、そこには意味があったんだ、そう思わなきゃやってられないじゃありませんか。」なとどいうルサンチマンを吐くようになるのも。これが鍛えられた脳の頭の悪さによるものである。

 養老のルサンチマンに共鳴した多数の大衆というのは、要するに養老と同じ頭の悪さを共有して満足していただけであり。バカ同士で安心満足を共有することで人気を得るというのが、オカルトの常套手段である。

 体罰を正当化する教師達も、いわば脳が鍛えられた結果であり。環境依存的に無意識に学習するトレーニングメソッドというのは、学力が高いだけの無能者の大量生産技術に過ぎない。

 本質的自発性によって、自律的に行動選択を論理検証する意識がないから、ヒトの多くは暴走破綻を回避出来ないのである。

 東電幹部社員達の無能さというのも、学力成績とは無関係なものであり。自分達がやってきたことの事後正当化に異常執着するのも、彼らの脳が鍛えらえてバカになっている証拠である。

 ヒトの多くは自分の頭の悪さを認識することを拒絶する性質がある、だからこそ自らの頭の悪さを変えることが出来ないようになる。変わるのが意識の働きであって、変わらないのは無意識で意識が働いていないからである。

 バカがバカ足りうる所以とは、自らの頭の悪さを認識しようとしないからである。



 公文式脳トレーニングが認知症の治療に有効だからといって、あらゆる能力において「頭が良くなる」ことの証明には全くならないばかりか、むしろ環境依存的な自発性の喪失を促す「愚民メソッド」である可能性も充分ある。

 大衆的なご機嫌取り的学力向上手法というものが、短絡的に社会持続可能性や安全性に寄与する論理的根拠など存在しない。どんなに学力が高くなっても、個人が主体的/自律的に社会的責任判断を行わない限り、社会はあらゆる崩壊への暴走である「人災」を止めることは出来ない。

 大衆ヒトの多くは、学力が上がりさえすれば「頭が良くなった」と安心するのであろうが、こうした気分的安心に意識を奪われ、そこに何の意味があるのかを全く考えない愚かさを助長していることを、ヒトの多くは気付いていない。

 村上龍の番組である「カンブリア宮殿」というのは、「企業団体を高く評価する。褒めちぎる。」ことが番組のフォーマット(形式)であって、村上龍の冠番組だからといって鵜呑みにすべきではない。

 世間的に成功してさえいれば、常に絶対に正しい結果以外をもたらさないことの証明にはならない。世間がバカならバカげた企業団体が成功することは珍しいことではないからだ。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする