○暗黙のルール。
自閉症やアスペルガー症候群などの広汎性障害の基準として、他人との関係性における「暗黙のルール」を察知出来ないという話が出てくる。
「暗黙のルール」というのは論理的根拠を持たないからこそ「暗黙」なのであり、本能習性が作り出す「空気」でもある。
「空気」を読めないことがイジメ被害の一つの原因となるのだが、それなら「空気」を読んでイジメに同調することは異常ではないとでも言うのであろうか。
現在の認知科学的アプローチというのは、「多数派=正常」という観念に基づいたものであり。これは「ヒト」という種の動物行動学における生存価を論じているだけであって、「人間」としての正常性について全く考慮されていないのである。
動物行動学的には、イジメというのは異常行動ではなく、むしろ「より生存や種の保存にとって有利な種へと淘汰するための必要な目的行動である。」などとこじつけ、問題だとすら思っていない。
これは「サルの正義」であっても、「人間」としての意識的行動選択の論証には全くならない。
振り込め詐欺師集団というのは、相互に相手のご機嫌取りを「生物学的に正常に」出来るからこその統率協調行動であり。こうした「現在の生物学上における社会性」というのは、人間性を伴った本質的な社会性とは言えないのである。
たとえ共同体意識によって心臓疾患が少ないとしても、それが人間性を証明するものではなく、あくまで「ヒト」という種としての健康さを論じているに過ぎない。
振り込め詐欺師も天下り役人達も東電幹部も「ヒト」としては正常で健康である。むしろ、だからこそ集団組織的に社会安全性を脅かすのである。
生物学的な「ヒト」としての多数性を短絡的に正常性として扱う限り、「人間」としての正常性を論ずることは構造原理的に不可能なのである。
科学というのは「人間」の価値観であって、サルの正義を振り回すためのものではない。現在の生物学というのは生存絶対主義というサルの正義でしか論じられておらず、科学としての価値が全くない。
こうしたバカげた基準で学校教育を論じていれば、イジメがなくならないのは当たり前である。
大衆観念に基づく本能的「暗黙のルール」を察知することを、正常として扱うこと自体が人間として異常なのである。
どんなに多数派に迎合する能力によって、集団組織的統率協調行動を採ったとしても。これを短絡的に人間としての正常性として扱うべきではない。
イジメの対象となりやすいアスペルガー症候群を病気のように扱う癖に、イジメを行う多数派の迎合性、生物本能的な社会形成習性は異常として扱わないのが現在の生物学や認知科学であり、これに基づいて学校教育を論じているというのは、頭が悪いにも程がある。
自分達の異常性を認識しないまま、漫然と無意識な観念に基づいた論証を繰り返す現在の生物学や脳神経認知科学というのは、当人達がどんなに「世の中の為。」だと信じて疑わないとしても、異常であり組織的腐敗に陥っているのである。
カルト宗教が「人類の救済」などと信じて破壊を行ったのと同様、現在の生物学というのはヒトという種の危険性を放置するオカルト集団に過ぎない。
経済学におけるソーシャルキャピタルなどという概念も、所詮は社会的負担などを基準に算出されるものであって、「気分的に安心だから心臓疾患が少ない。」などという基準でしか語られることはない。
それなら振り込め詐欺師達は共同体意識によって心臓疾患が少ないのであろうか。
天下り役人達は仲間内で助け合うことで安心して心臓疾患が少なく、社会的負担が少ないから合理的だとでも言うのであろうか。
それなら東電幹部社員達はさぞかし健康なのであろう。
その健康というのは福島を放射能まみれにすることで獲得したことを、多くのヒトは簡単に忘れる。
そもそもイジメなどの差別排除の根本原因となる、本能的な社会形成習性を「これからの研究課題」などと日和るのは、問題意識が希薄なのにも程がある。
ヒトの本能的なイジメや差別による暴力性というものは、「これからの研究課題。」などではなく、「今すぐ。」に行うべき緊近の課題に他ならない。
「暗黙のルール」などと言っている時点で、現在の教育関係者達は誰もイジメの根源的原因について真摯に考えてはいないのである。こうした現状を無責任だと「思って」いない大衆マスコミの多くも、無責任に加担しているのと同罪なのである。
きっと彼らにとっては腐敗した現状を維持することだけが「暗黙のルール」なのであろう。
それがきっと気分的に安心で満足なのに違いない。
これをゆめゆめ「他人事」だと「思う」べきではない。どんなに強く「思って」も、意識的な「考え」にはならないからである。
「生きる力。」だとか、「生命の奇跡」などと称して、臨床の「結果」という現象論をあたかも科学的証明であるかのように言い張るのは、科学から乖離した大衆迎合に他ならない。
生物学というのは大衆のご機嫌取りのためのマスコミの道具であってはならず、厳格に真理を追求する必要がある。単なる「生存」だけを論じていれば、バカな大衆は気分的な安心満足によって論理検証性を簡単に放棄する性質があり、これに乗じてオカルト/スピリチュアル的な観念で科学的論理検証を撹乱することは本来許されるべきことではない。
生き残るという「結果」だけを論じているのであれば、その過程において社会持続可能性や安全性を蔑ろにしても良いという話に帰結してしまうのである。現在の生物学上では、そこに人間としての「目的」行動選択が失われていても構わないことになってしまうのである。
それは、すなはち自然淘汰のメカニズムを人間社会に持ち込み、過酷な生存競争による「生存にとって有利な個体種への進化」を求めるものであり。これはたとえ残虐なゲリラ集団であっても正当化されるという意味になるのである。
ヒトの多くはバカなので、これを異常だと「思わない」のであろう。ヒトのあらゆる本能的行動習性の全ては奇跡によって必ず生存という結果をもたらしめるものであると「思って」おけば安心で満足なのである。
それがヒトから論理検証性を失わせ、バカ特有の常習性によって無意識のまどろみへと誘うのである。
Ende;