書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

空気を読む能力と、空気に流されることは別。

2013年05月26日 16時17分34秒 | 意識論関連
○「読む」ことと「流される」ことの違い。

 空気を読むことと、契約書でガチガチに縛ることは別問題。個人が無責任であるから契約書でガチガチにする必要があるのであって、個人が責任を持って行動判断していれば契約書でガチガチに固める必要性はない。

 契約書云々というのは個人の無責任性に対する対策であって、空気が読めれば無責任で良いという短絡的結論はあまりに短絡的でバカげている。

 空気云々が問題なのではなくて、個人の自律的責任判断が問題なのである。

 現実問題、大抵の場合空気というのは無意識に流されることを指すのであって、無意識だからこそ「空気」だの「暗黙のルール」などという抽象的表現になるのである。

 空気を読むことは経済効率的には有効なのかも知れないが、読んだ空気に無意識に流されることは許されるべきものではない。それは自律的な社会的責任判断の放棄を意味するからである。

 原発の運転において、東電社内の空気に流されていたからこそ危険性が放置されたのであって。悪い空気であれば迎合しないという主体的判断が重要なのである。

 つまり、「空気を読む」ことと、「空気に流される」ことは別。悪い空気であれば逆らう主体性の有無というのは意識の問題であって、「空気を読めるかどうか」の問題とは無関係である。

 現実には、無意識に周囲の多数に迎合して「空気に流され」、多数のご機嫌取りをしていることを正当化するための言い逃れとして「自分は空気が読める優秀な人間だ。」と錯覚しているケースがほとんどであって。それは本質的には主体的に空気を「読んで」いるとは言えないのである。

 ただ単に「空気に流されて」いるだけの状態というのは、主体的に「空気を読んで」自律的判断を行うこととは全く別物であり、この区別が出来ないことがバカがバカたる所以である。

 「組織の意思決定が短絡的で速い」といった断片的効用だけを抽出し、あたかも空気に流されることを良しとする風潮というのは、短絡的で無責任というものである。

 バカが多数を占める社会においては、バカげた観念こそが成功することはある種の必然であり、特定現状社会における成功例だけを抽出することで、あたかもバカげた観念を正当化するというのは、バカの上塗りに過ぎない。

 たまたま上手くいった事例だけを抽出することで、あたかも絶対普遍的に上手くゆくかのように錯覚するのがバカのシーケンスである。そんなものを無為に鵜呑みにするのもまた同罪である。

 空気というのは多数のヒトがいれば自然と出来上がるものであり、問題はその空気が良いのか悪いのかを個人が自律的に判断して、悪い場合には抗うという主体性、意志を発揮できるかどうかであって。無為に空気に流されていることを事後正当化するための屁理屈など、語るに足らない。

 感情気分主体で行動判断しているバカにとっては、論理的合理性を追求するつもりはなく。その場限りに気分が良くなる選択しか行わず、自己判断の論理検証など一切行わないのである。

 自律的に社会的責任判断を行わずに、他のあらゆる特定能力(金儲けだの成功だの成績評価といったあらゆる能力)に人間としての社会的価値などない。

 最優先されるべきは安全性や持続可能性であって、ここに意識が働かない限り、どんなに他のあらゆる特定能力が高くても人間としてはポンコツであり、本質的な人間としての知能とは言えない。

 ヒトの多くは断片的な世間的成功に意識を奪われ、人間としての社会的責任を簡単に忘れる習性がある。

 目先の欲望や感情気分に意識を奪われてしまうから「無意識」であり、バカなのである。本能欲望、気分感情に流されない自律的論理検証性というものの本質的価値であって、成績と引き換えに獲得する形式の報酬型他律的「論理思考能力」とは全く異なるものである。こうした成績などというのは脳科学者達がっでっち上げた暫定的評価方法であって、認知科学的論拠を持つものではない。どんなに試験の成績が高くても、自律的に社会的責任判断を本当に行うのかどうかという「意志」とは無関係である。

 ヒトの多くは権威性に批判することを「恥ずかしい」などと恐怖心を抱く性質がある。これこそがヒトの社会形成習性による無為な服従性を作り出すのであり、思考停止による暴走性の源となる。

 「恥ずかしい」などというのは実際には多数派から受ける強迫観念的恐怖心に過ぎず、本能的シーケンスの「結果」に過ぎない。こうした「結果」に過ぎない本能習性に無意識に流されているからこそ、ヒトは自分達の暴走破綻をいつまでも止めることが出来ないのである。

 それを「バカ」という。大抵この種のバカというのは学習障害とは診断されない。多数派に属する異常性というのは障害とすら認識されないものである。



Ende;
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