○増殖。
ヒトの精子が常に増殖するようになったのは、誰がしかの意図目的意識に基づいて選択したわけではなく。あくまで常に増殖するようになった個体種が自然淘汰によって遺された「結果」に過ぎない。
生物学者達や文科系マスコミは「ヒトは生存のために精子を常に増殖するように進化させた。」などと言い張るが。これは到底科学的論証は言えず、文科系大衆迎合的オカルトに他ならない。
大脳辺縁系の構造に由来する反射的な本能習性も含め。あらゆる生体の構造というのは誰がしかの「目的」意識に基づいて選択されたものではなく、あくまで自然淘汰の「結果」以上の意味は存在し得ない。
ヒトの誰も、自分自身の大脳辺縁系の構造を「選択」不可能であり。先天的、或は環境依存の結果として後天的に動物行動学習的に刷り込み学習された無意識行動の全ては、本質的には一人の他者と互換不能な自律的「意識」ではない。
現在の生物学上では「繁殖戦略」などと称して、あたかも異常増殖することを絶対的正義であるかの如く言い張るが。これは大衆迎合に過ぎない。
ヒトの個体数は地球環境との調和を明らかに崩しており、繁殖することを絶対的正義とするのは明らかに科学的とは言い難いのである。
「遺伝子を遺す。」ことを「目的」であると言い張ることも、あくまで大衆迎合であって科学的論証とは言えないのである。そもそも自分自身では選択不可能な遺伝子を、なぜ「遺さなければならない。」のであろう。遺伝子さえ遺せれば「成功」だと言うのであれば、その「成功」とは一体誰にとっての「成功」だと言えるのであろうか。
ヒトは誰も自分自身の遺伝子や遺伝要素を選択不可能であり、それは人工的に遺伝子を加工しても同じことである。遺伝子を選択するのは加工された当人ではなく、あくまで加工者の方に過ぎないからだ。
大衆ヒトの多くは生物的に健康で世間的に成功したり多数からの評価さえあれば「成功」だと勝手に思い込むものであるが、現状世間の多数評価の類というものは社会持続可能性や安全性に基づいたものではなく、あくまで気分的なその場限りの安心満足を追求しているに過ぎない。
個体が生物的に健康でありさえすれば、短絡的に社会持続可能性や安全性が保たれることの根拠には全くならない。生物的な健康というのは振り込め詐欺師でも天下り役人でも東電幹部でも珍しいものではないのだ。
こうした大衆特有の気分的安心満足傾向に寄り添い、社会の持続可能性や安全性に基づいた検証を行わない現在の生物学や脳神経認知科学というのは、もはや科学としての社会的役割を全く果たしておらず。論理検証を全く行わない大衆やマスコミも同罪である。
その場限りに「東大に入れた。」だの、「記憶力が向上した。」、「遺伝子を遺した。」などという話を、あたかも絶対的に正しいことであるかのように鵜呑みにすることは、科学としての社会的役割を放棄した無責任なオカルトに他ならない。そんな話で浮かれているから社会持続可能性や安全性に基づいた検証を忘れてしまいヒトの多くはバカに陥るのである。
どんなに世間的に成功しようが、年収が多かろうが、大衆人気を得ようが、社会持続可能性や安全性に基づかない選択をしていない限り、「人間」としての価値は全くない。
本能的行動習性の「結果」というものを短絡的に意識的選択による「目的」行動選択と混同することは、科学的論証に反するものであって、人類を無為無策なバカに陥れる実証不能の観念に他ならない。
○奪い合うから足りなくなる。
南極棚氷の下では、栄養分が極度に少ないため、生存競争も穏やかだと言われている。
栄養分とか資源が多い程生存競争が激しいというのは自然の摂理なのかも知れない。
そういえば石油とかタンタルとかダイアモンドが採れる国ほど政情が不安定。「分け合うと足りる。」ものも「奪い合えば足りなくなる。」というのは真理かも知れない。
競争心を事後正当化したがる強迫観念者が、やたらと主張したがる話に「一個のパンを十人で分け合うと、全員死ぬ。」って話は真理ではない可能性がある。
本当は「一つのパンを奪い合うから足りなくなり、分け合うことで足りてしまう。」可能性も充分ある。
そもそも奪い合によって人間としての尊厳を失ってまで生物的な「生存」に執着することに意味なんぞない。奪い合ってまで生存することを強要するような社会を作り出すことが、「目的」だと言えるであろうか。
ただ「生きている。」だけならゴキブリやエイリアンと同じである。ニーチェが主張する「超人」なんていうのは、実は生物学上の生存価を論じているだけであって、何ら人間としての価値には全くならない。
個体が生存に適していることが短絡的に社会安全性や持続可能性に適していることには全くならないばかりか、むしろ個体生存価に異常執着する欲望こそが社会を「喰い物。」にして破綻暴走に陥るのである。
ヒトの社会に含まれる破綻暴走性を克服出来ないまま、どんなに規模や機能ばかりを高度化させても。決して「高度な文明。」とは言うことが出来ない。それは「偏差値が高いだけのバカの観念。」と同じようなものである。
「今更昔の生活には戻れない。」などというのは、実際には「今更戻りたくない。」とか「戻すのが難しい。」と言っているだけであって。「戻れない。」ことの論理的根拠など全くない。
大衆観念上では、大学入試だの金儲けに対しては難しいことを要求するにも関わらず、社会安全性や持続可能性に対しては難しいことを拒絶するというのは無責任極まりない社会的「甘え」である。
どこの誰だかわからない奴に押し付けられた価値観だけを鵜呑みにし、自律的に価値の優先順位を選択しないというのは、一人の「人間」としての社会的存在価値はない。
金儲けだの学力偏差値に対する異常なまでの優先度というのは、多数大衆が作り出した強迫観念に過ぎず。こうした強迫観念に無意識に流されているから人間としての「心」を喪失するのである。本当に大切なものとは何か、それを誰も自律的に考え、自ら選択しないから人類というのはいつまでもバカのまま「変わること。」が出来ないのである。
意識がなければ行動を「変える。」ことは出来ない。同じパタンの行動を無意識に続けているから暴走破綻に陥るのである。暴走破綻を止めるのは大衆観念的な気分感情ではなく、あくまで自律的な論理検証による行動選択という本質的な意識の働きによるものである。
Ende;
ヒトの精子が常に増殖するようになったのは、誰がしかの意図目的意識に基づいて選択したわけではなく。あくまで常に増殖するようになった個体種が自然淘汰によって遺された「結果」に過ぎない。
生物学者達や文科系マスコミは「ヒトは生存のために精子を常に増殖するように進化させた。」などと言い張るが。これは到底科学的論証は言えず、文科系大衆迎合的オカルトに他ならない。
大脳辺縁系の構造に由来する反射的な本能習性も含め。あらゆる生体の構造というのは誰がしかの「目的」意識に基づいて選択されたものではなく、あくまで自然淘汰の「結果」以上の意味は存在し得ない。
ヒトの誰も、自分自身の大脳辺縁系の構造を「選択」不可能であり。先天的、或は環境依存の結果として後天的に動物行動学習的に刷り込み学習された無意識行動の全ては、本質的には一人の他者と互換不能な自律的「意識」ではない。
現在の生物学上では「繁殖戦略」などと称して、あたかも異常増殖することを絶対的正義であるかの如く言い張るが。これは大衆迎合に過ぎない。
ヒトの個体数は地球環境との調和を明らかに崩しており、繁殖することを絶対的正義とするのは明らかに科学的とは言い難いのである。
「遺伝子を遺す。」ことを「目的」であると言い張ることも、あくまで大衆迎合であって科学的論証とは言えないのである。そもそも自分自身では選択不可能な遺伝子を、なぜ「遺さなければならない。」のであろう。遺伝子さえ遺せれば「成功」だと言うのであれば、その「成功」とは一体誰にとっての「成功」だと言えるのであろうか。
ヒトは誰も自分自身の遺伝子や遺伝要素を選択不可能であり、それは人工的に遺伝子を加工しても同じことである。遺伝子を選択するのは加工された当人ではなく、あくまで加工者の方に過ぎないからだ。
大衆ヒトの多くは生物的に健康で世間的に成功したり多数からの評価さえあれば「成功」だと勝手に思い込むものであるが、現状世間の多数評価の類というものは社会持続可能性や安全性に基づいたものではなく、あくまで気分的なその場限りの安心満足を追求しているに過ぎない。
個体が生物的に健康でありさえすれば、短絡的に社会持続可能性や安全性が保たれることの根拠には全くならない。生物的な健康というのは振り込め詐欺師でも天下り役人でも東電幹部でも珍しいものではないのだ。
こうした大衆特有の気分的安心満足傾向に寄り添い、社会の持続可能性や安全性に基づいた検証を行わない現在の生物学や脳神経認知科学というのは、もはや科学としての社会的役割を全く果たしておらず。論理検証を全く行わない大衆やマスコミも同罪である。
その場限りに「東大に入れた。」だの、「記憶力が向上した。」、「遺伝子を遺した。」などという話を、あたかも絶対的に正しいことであるかのように鵜呑みにすることは、科学としての社会的役割を放棄した無責任なオカルトに他ならない。そんな話で浮かれているから社会持続可能性や安全性に基づいた検証を忘れてしまいヒトの多くはバカに陥るのである。
どんなに世間的に成功しようが、年収が多かろうが、大衆人気を得ようが、社会持続可能性や安全性に基づかない選択をしていない限り、「人間」としての価値は全くない。
本能的行動習性の「結果」というものを短絡的に意識的選択による「目的」行動選択と混同することは、科学的論証に反するものであって、人類を無為無策なバカに陥れる実証不能の観念に他ならない。
○奪い合うから足りなくなる。
南極棚氷の下では、栄養分が極度に少ないため、生存競争も穏やかだと言われている。
栄養分とか資源が多い程生存競争が激しいというのは自然の摂理なのかも知れない。
そういえば石油とかタンタルとかダイアモンドが採れる国ほど政情が不安定。「分け合うと足りる。」ものも「奪い合えば足りなくなる。」というのは真理かも知れない。
競争心を事後正当化したがる強迫観念者が、やたらと主張したがる話に「一個のパンを十人で分け合うと、全員死ぬ。」って話は真理ではない可能性がある。
本当は「一つのパンを奪い合うから足りなくなり、分け合うことで足りてしまう。」可能性も充分ある。
そもそも奪い合によって人間としての尊厳を失ってまで生物的な「生存」に執着することに意味なんぞない。奪い合ってまで生存することを強要するような社会を作り出すことが、「目的」だと言えるであろうか。
ただ「生きている。」だけならゴキブリやエイリアンと同じである。ニーチェが主張する「超人」なんていうのは、実は生物学上の生存価を論じているだけであって、何ら人間としての価値には全くならない。
個体が生存に適していることが短絡的に社会安全性や持続可能性に適していることには全くならないばかりか、むしろ個体生存価に異常執着する欲望こそが社会を「喰い物。」にして破綻暴走に陥るのである。
ヒトの社会に含まれる破綻暴走性を克服出来ないまま、どんなに規模や機能ばかりを高度化させても。決して「高度な文明。」とは言うことが出来ない。それは「偏差値が高いだけのバカの観念。」と同じようなものである。
「今更昔の生活には戻れない。」などというのは、実際には「今更戻りたくない。」とか「戻すのが難しい。」と言っているだけであって。「戻れない。」ことの論理的根拠など全くない。
大衆観念上では、大学入試だの金儲けに対しては難しいことを要求するにも関わらず、社会安全性や持続可能性に対しては難しいことを拒絶するというのは無責任極まりない社会的「甘え」である。
どこの誰だかわからない奴に押し付けられた価値観だけを鵜呑みにし、自律的に価値の優先順位を選択しないというのは、一人の「人間」としての社会的存在価値はない。
金儲けだの学力偏差値に対する異常なまでの優先度というのは、多数大衆が作り出した強迫観念に過ぎず。こうした強迫観念に無意識に流されているから人間としての「心」を喪失するのである。本当に大切なものとは何か、それを誰も自律的に考え、自ら選択しないから人類というのはいつまでもバカのまま「変わること。」が出来ないのである。
意識がなければ行動を「変える。」ことは出来ない。同じパタンの行動を無意識に続けているから暴走破綻に陥るのである。暴走破綻を止めるのは大衆観念的な気分感情ではなく、あくまで自律的な論理検証による行動選択という本質的な意識の働きによるものである。
Ende;