○
§:抽象化による分類
隣で飼っている小型犬が、通りすがりの運送屋に吠えまくっている。
イヌが吠える理由は何か。
イヌは相手が自分に対してどういった存在であるのかを知りたいのである。
自分に対して敵意殺意があるのかどうかを確認し、敵か仲間か、或は服従対象なのかを抽象的な分類することで気分的に安心満足を得ようとしているのである。
分類というのは、必ずしも論理検証的な根拠に基づいたものである必要性はなく。大衆マスコミ一般的には抽象化されたシンボル的分類をすることで、あたかも「これは、こういうものだ。」という決め付けをすることで気分的に安心満足するだけの分類であることがほとんどである。
振り込め詐欺師に騙される被害者において、詐欺師が主張する警察官や銀行員、弁護士、息子の同僚であるかどうかを「分類」判断する場合においても、そこに論理検証的分別が介在する必要性は全くなく。あくまで気分的に「納得」することが可能かどうかという情動的思考バイアスが優先される。
イヌはエサでも見せれば一瞬にしておとなしくなり、エサが貰えそうであれば「おすわり」でも「お手」でも何でも言うことをきくようになる。
イヌにとって、エサを提供してくれる相手というのは「味方」であり、自分にとって都合の良い安心満足を与えてくれる対象として短絡的に抽象分類される。
そのエサに毒物が混入しているかどうかといった危険性についての検証はイヌは全く行わないし、行うだけの検証性というものがそもそもイヌの頭(意識)にはない。
ヒトという種の生物でありさえすれば、必ずしも常に論理的に危険性の全てを検証可能であるという保証は全くなく。大脳辺縁系が促す思考バイアス自体は、むしろ論理検証性よりも目先の気分的安心満足を優先するようになっており、こうした思考バイアス自体はヒトであれサルであれ下等な爬虫類であってもさしたる違いなどなく。あくまで「生存に適したかどうか。」という結果論に過ぎない。
必ずしも賢い個体が生存に適していたとは限らず、キチガイ同士で共謀してテロを行った結果、キチガイだけが生き残る可能性も充分存在するのである。
自分の大脳辺縁系の構造自体というのは、自分自身で選択したものでもなく。当然、無意識な思考バイアスというのは自分自身では制御不能なものなのである。思考バイアス自体が自己制御不能であることからは逃れられない事実であるが、思考バイアスが促す錯覚を、錯覚であると認識して行動結果を変えることは、ヒトの場合絶対に不可能であるとは言えず。これを発揮して初めて人間としての知能と定義することが可能となるのである。
振り込め詐欺師集団や、シエラレオネの少年ゲリラ集団における統率協調性においても。これらは全て結果にすぎず、当人達の意識的論理検証における目的行動選択の介在する必要性は全くない。
仲間内で何かを成し遂げることによる安心感や、目先の利益報酬に意識を奪われ。自分達の行動によって社会全体の安全性や持続可能性といったものへの配慮を喪失するのも、大脳辺縁系が促す本能的な社会形成習性の「結果」に他ならない。
現在の生物学上においては、個体の生存だの遺伝的種の保存に適しさえすれば生物として優秀であると短絡的に定義するが。これは「結果」に対する事後正当化に過ぎず、何ら意識的論理検証的「目的」行動選択について全く考慮されていない。
本能が促す行動バイアスが、常に、絶対に、必ず何らかの「正しい結果」をもたらす保証などどこにもなく。偶発的に生存だの種の保存に適した結果だけを抽出しておいて、これを「目的」だと言い張るのは非科学的オカルト観念に他ならない。
生物学的な「社会性」すなはち、本能的な社会形成習性というものも。これが常に組織集団や遺伝的種の保存につながる行動を促す論理的根拠も全くなく、東京電力福島第一原発の安全技術者同様、組織の破滅をもたらすことも少なくはない。
シエラレオネの少年ゲリラ集団においても、振り込め詐欺師集団においても、ナチズムにおいても、これらの統率的協調性の結果というのは暴走破綻の原因となる。これを無視して、断片的に暴徒鎮圧に利用可能であることなど、都合の良い結果だけを抽出して正当化するというのは、もはや科学的説明でも何でもなく、単なる科学風味を装ったオカルト観念に他ならない。
生死に関わる話でありさえすれば、ヒトの多くは個人的一大事であるとして、あたかも絶対的に優先事項であると錯覚させることは簡単である。しかしヒトという種の生物である以上、ヒトの死亡率は100%であり、絶対的優先事項であるとは言えないのである。
「人間」としての優先事項とは、自分を含めた社会全体への配慮、持続可能性や安全性といったものを優先することであり、自分が生きるに値する社会を求めることによって、自己存在価値を自律的に見出だすものであって。決して個体の生存価や遺伝的種の保存だの、「多数他人に生かされていること。」にあるわけではない。
自分自身が自律的に社会持続可能性を求めない社会において、「多数他人に生かされている。」ことに個人的価値など存在せず。単に「死にたくない」という本能を満たすための社会であるならば、余命いくばくもない年寄り病人であれば社会持続可能性も安全性も自律的に求める必要性など、どこにも存在し得ないのである。
個人の生存価に依存せずに、自律的に社会的責任判断を行うためには。多数他人という環境への依存性に拠らない主体的意志目的選択が不可欠である。
「世間に生かされている。」などと言っておけば、文科系大衆観念に迎合して世間ウケ狙いをするのは簡単であろうが。こんなものは本質的な社会安全性や持続可能性には全く寄与しない大衆迎合に過ぎないのである。
血液型性格診断というものがあって。これは血液型によってヒトを4種類に分類することで、あたかも相手の性格の全てを掌握したかのような錯覚によって安心満足を得ることが目的の、科学的根拠を伴わないオカルト大衆観念である。
ヒトを4種類の性格に分類することによって、果たして事故防止や犯罪防止に何の役に立つであろうか。無論、血液型性格分類をしたがる者の脳には、初めから社会全体への配慮など全く考慮に入っていないことは言うまでもない。
「このヒトは、こういうヒトだ。」と論理的根拠もなく決め付けることによって、あたかもイヌがエサをくれる相手に服従するかの如く気分的に安心満足することだけが「目的」であって、実際にはこの場合における「目的」というのは本能という自己選択不可能な思考バイアスに無意識に流された「結果」に過ぎない。
「金儲け」や「世間的認知評価」といった分類においても、これらは全てその場限りの「結果」に過ぎず、個人の人間としての知能に基づく社会的存在価値とは無関係な大衆観念に過ぎない。
世間的成功者というものが、短絡的に社会安全性や持続可能性を保証してくれる論理的根拠など全くなく。単に世間的成功者への羨望が、根拠のない過剰な期待の錯覚を作り出しているだけであって。有名人ゴシップ記事に群がる大衆というのは、有名人の悪口を共有しておけば、あたかも自分自身を正当化し、優位に立ったような錯覚が可能であるため、異常なまでに不毛なゴシップ記事に執着するのである。
自分の優位性の正当化と社会安全性とは無関係であるが、そんなことは彼らにとってはどうでも良いことであり。そもそも何を優先すべきなのかという分別自体が彼らの意識上にはない。
他人を引きずり落として自分を正当化するというのは、やっていることは振り込め詐欺師と心理的には全く同じ卑しい薄っぺらな行為であり。自己内部に自発的純粋性が存在しないことの表れでもある。
エリカ様による「別に」発言自体に何ら社会的被害など存在しないが、和田アキ子によるパワハラ自慢というのは体罰差別封建性を正当化する反社会的言動であることについては、文科系大衆マスコミの誰も指摘しないというのは、完全にマスコミとしての社会的役割を放棄していると言える。
大衆のご機嫌取りと、社会安全性や持続可能性とは無関係であるにも関わらず。その場限りの「空気」に流され何の検証もせずに権威の言うことを鵜呑みにし、無為に垂れ流しをしているからこそ、差別封建的な悪しき「文化」がはびこるのである。
§:本能的社会形成習性による結果的統率と、個人の意思的目的選択。
ヤクザにおける構成員が幹部に服従するメカニズムは、構成員が幹部に対して無条件に服従する習性が働いているからであり。法外な上納金を要求されるなどの不条理な要求に服従し続けるのも、そこに論理検証性が全く働いていないからである。
暴力的組織に所属しておけば、あたかも守られているような錯覚に陥り、それが気分的に安心満足を与えるからこそ、ヒトの多くは暴力装置への依存を放棄することが出来なくなるが。こうした気分的安心満足自体は本能由来の条件反射に過ぎず、個人の本質的な主体的判断にはならない。
世界全体の効率を考えれば、核兵器も含めた軍縮の合理性に論理的反論など存在しないにも関わらず。「国家」という分類だけで軍備暴力装置に対する気分的安心満足という錯覚がそれを阻んでいるからであり、「国家」という分類自体には論理科学的根拠が存在しないことを、ヒトの多くは認識したがらない。
自国の軍備拡大に関しては安心満足を感じるとしても、他国の軍備拡大に対しては恐怖を感じるものである。だが、これは論理的根拠を伴わない「国家」という分類に基づいた無意識な錯覚に過ぎない。
こうした暴力装置への根拠なき依存性こそが、ヒトを暴力的組織へと誘導するのであって。こうした暴力性が発揮される先天的本能習性自体からの決別を選択する「意志」が重要なのである。
生物である限り、自然界における過酷な生存競争を勝ち抜くために強い暴力性を持ってしまっていることは避けようのない「結果」であるが。本能という無意識に対する意識的「目的」行動選択が働いていれば、暴力性という結果に対して抑制することが可能となる。
何度も言うが、「難しい。」かどうかは知ったことではない。子供の学校入試や就職面接に関しては異常なまでの難易度を要求する癖に、社会安全性や持続可能性については急に安易性を要求するというのは。他者には難解なことを要求しておいて自分だけは安易な手口を要求するという、社会的「甘え」に他ならない。
本能習性が促す思考や行動のバイアスについては、誰のせいにも出来るものではなく。自分自身で自律的に何とかするしかないものであって、それこそ大衆迎合的に「これさえやっときゃ、全てはうまくゆく。」的な安易な解決策は存在しないのである。
個人が自律的な社会的責任判断を行うためには、大前提として本質的自発性がなければならない。環境依存的にそそのかされたその場限りの「意欲」の類ではなく、誰の評価報酬(エサ)を与えられなくても行う本質的自発性、純粋性がなければ、自己犠牲を伴うような自律判断は誰もしないのは必然である。
自分自身の自己犠牲性の根拠を持たない奴が、他人に対して自己犠牲を求めるというのも、あまりに都合の良い社会的「甘え」に他ならない。
「お国のため。」だの「人類の救済。」と称して、特攻隊鉄砲玉的暴走行為を美談とするのが文科系大衆観念である。単なる自暴自棄な権威多数派への服従性を、短絡的に人間性とすり替えるのは、ヒトの本能習性を利用した文科系大衆迎合的錯覚を利用した洗脳に他ならない。
「権威に服従しない社会は、崩壊する。」などという論理的根拠のない観念こそが、個人の自律判断を蔑ろにし、封建的統率協調性という本能由来の暴走性を助長するのである。
組織的な統率協調性というものも、その使い方次第である。何でもかんでも統率協調性の全てを頭ごなしに悪であると決め付けるのではなく、統率協調性の持つ力というものを、何に使うのかという個人の判断が伴わないという無意識性、暴走性が問題なのである。
ある特定の統率協調行動に社会的価値が存在するのかどうか、それを個人が分別した上で利用することが重要なのであって、統率協調性の持つ力の大きさというものは、あくまで「手段」に過ぎないことを個人が認識していなければならない。
論理的根拠を伴わない観念に基づいて、多数派や権威が作り出す「空気」に流されているからこそ、ヒトが持つ危険性に由来する「人災」が減らないのである。
原発もそうだが、単なる機械工学的安全性だけを論じていても。それを扱うヒトの危険性について言及しなければ何の意味もないのである。
既に冒した失敗に基づいて再発防止策を立てているだけでは、これは未だ起きていない失敗を未然に防ぐための対策には全くならない。
散々原発の危険性を放置しておいたという無責任性や組織的腐敗性を棚上げにし、既存の失敗例だけに対策をしておいたのでは。失敗学/危険学の本質を蔑ろにした言い逃れ/取り繕いにしかならない。
本当の危険性というものは、原発や高速バスそのものにあるのではなく。それらを扱うヒトの危険性にこそ存在するのである。なぜなら、全く論理的に予測不能な危険性であれば、これは「人災」とは言わず、危険学や失敗学で取り扱う問題では最初からないからである。
ヒトという種の生物についての認知がされていない現状においては、原発に限らずあらゆる危険工学的知見も根本的有効性を持たない。
Ende;
§:抽象化による分類
隣で飼っている小型犬が、通りすがりの運送屋に吠えまくっている。
イヌが吠える理由は何か。
イヌは相手が自分に対してどういった存在であるのかを知りたいのである。
自分に対して敵意殺意があるのかどうかを確認し、敵か仲間か、或は服従対象なのかを抽象的な分類することで気分的に安心満足を得ようとしているのである。
分類というのは、必ずしも論理検証的な根拠に基づいたものである必要性はなく。大衆マスコミ一般的には抽象化されたシンボル的分類をすることで、あたかも「これは、こういうものだ。」という決め付けをすることで気分的に安心満足するだけの分類であることがほとんどである。
振り込め詐欺師に騙される被害者において、詐欺師が主張する警察官や銀行員、弁護士、息子の同僚であるかどうかを「分類」判断する場合においても、そこに論理検証的分別が介在する必要性は全くなく。あくまで気分的に「納得」することが可能かどうかという情動的思考バイアスが優先される。
イヌはエサでも見せれば一瞬にしておとなしくなり、エサが貰えそうであれば「おすわり」でも「お手」でも何でも言うことをきくようになる。
イヌにとって、エサを提供してくれる相手というのは「味方」であり、自分にとって都合の良い安心満足を与えてくれる対象として短絡的に抽象分類される。
そのエサに毒物が混入しているかどうかといった危険性についての検証はイヌは全く行わないし、行うだけの検証性というものがそもそもイヌの頭(意識)にはない。
ヒトという種の生物でありさえすれば、必ずしも常に論理的に危険性の全てを検証可能であるという保証は全くなく。大脳辺縁系が促す思考バイアス自体は、むしろ論理検証性よりも目先の気分的安心満足を優先するようになっており、こうした思考バイアス自体はヒトであれサルであれ下等な爬虫類であってもさしたる違いなどなく。あくまで「生存に適したかどうか。」という結果論に過ぎない。
必ずしも賢い個体が生存に適していたとは限らず、キチガイ同士で共謀してテロを行った結果、キチガイだけが生き残る可能性も充分存在するのである。
自分の大脳辺縁系の構造自体というのは、自分自身で選択したものでもなく。当然、無意識な思考バイアスというのは自分自身では制御不能なものなのである。思考バイアス自体が自己制御不能であることからは逃れられない事実であるが、思考バイアスが促す錯覚を、錯覚であると認識して行動結果を変えることは、ヒトの場合絶対に不可能であるとは言えず。これを発揮して初めて人間としての知能と定義することが可能となるのである。
振り込め詐欺師集団や、シエラレオネの少年ゲリラ集団における統率協調性においても。これらは全て結果にすぎず、当人達の意識的論理検証における目的行動選択の介在する必要性は全くない。
仲間内で何かを成し遂げることによる安心感や、目先の利益報酬に意識を奪われ。自分達の行動によって社会全体の安全性や持続可能性といったものへの配慮を喪失するのも、大脳辺縁系が促す本能的な社会形成習性の「結果」に他ならない。
現在の生物学上においては、個体の生存だの遺伝的種の保存に適しさえすれば生物として優秀であると短絡的に定義するが。これは「結果」に対する事後正当化に過ぎず、何ら意識的論理検証的「目的」行動選択について全く考慮されていない。
本能が促す行動バイアスが、常に、絶対に、必ず何らかの「正しい結果」をもたらす保証などどこにもなく。偶発的に生存だの種の保存に適した結果だけを抽出しておいて、これを「目的」だと言い張るのは非科学的オカルト観念に他ならない。
生物学的な「社会性」すなはち、本能的な社会形成習性というものも。これが常に組織集団や遺伝的種の保存につながる行動を促す論理的根拠も全くなく、東京電力福島第一原発の安全技術者同様、組織の破滅をもたらすことも少なくはない。
シエラレオネの少年ゲリラ集団においても、振り込め詐欺師集団においても、ナチズムにおいても、これらの統率的協調性の結果というのは暴走破綻の原因となる。これを無視して、断片的に暴徒鎮圧に利用可能であることなど、都合の良い結果だけを抽出して正当化するというのは、もはや科学的説明でも何でもなく、単なる科学風味を装ったオカルト観念に他ならない。
生死に関わる話でありさえすれば、ヒトの多くは個人的一大事であるとして、あたかも絶対的に優先事項であると錯覚させることは簡単である。しかしヒトという種の生物である以上、ヒトの死亡率は100%であり、絶対的優先事項であるとは言えないのである。
「人間」としての優先事項とは、自分を含めた社会全体への配慮、持続可能性や安全性といったものを優先することであり、自分が生きるに値する社会を求めることによって、自己存在価値を自律的に見出だすものであって。決して個体の生存価や遺伝的種の保存だの、「多数他人に生かされていること。」にあるわけではない。
自分自身が自律的に社会持続可能性を求めない社会において、「多数他人に生かされている。」ことに個人的価値など存在せず。単に「死にたくない」という本能を満たすための社会であるならば、余命いくばくもない年寄り病人であれば社会持続可能性も安全性も自律的に求める必要性など、どこにも存在し得ないのである。
個人の生存価に依存せずに、自律的に社会的責任判断を行うためには。多数他人という環境への依存性に拠らない主体的意志目的選択が不可欠である。
「世間に生かされている。」などと言っておけば、文科系大衆観念に迎合して世間ウケ狙いをするのは簡単であろうが。こんなものは本質的な社会安全性や持続可能性には全く寄与しない大衆迎合に過ぎないのである。
血液型性格診断というものがあって。これは血液型によってヒトを4種類に分類することで、あたかも相手の性格の全てを掌握したかのような錯覚によって安心満足を得ることが目的の、科学的根拠を伴わないオカルト大衆観念である。
ヒトを4種類の性格に分類することによって、果たして事故防止や犯罪防止に何の役に立つであろうか。無論、血液型性格分類をしたがる者の脳には、初めから社会全体への配慮など全く考慮に入っていないことは言うまでもない。
「このヒトは、こういうヒトだ。」と論理的根拠もなく決め付けることによって、あたかもイヌがエサをくれる相手に服従するかの如く気分的に安心満足することだけが「目的」であって、実際にはこの場合における「目的」というのは本能という自己選択不可能な思考バイアスに無意識に流された「結果」に過ぎない。
「金儲け」や「世間的認知評価」といった分類においても、これらは全てその場限りの「結果」に過ぎず、個人の人間としての知能に基づく社会的存在価値とは無関係な大衆観念に過ぎない。
世間的成功者というものが、短絡的に社会安全性や持続可能性を保証してくれる論理的根拠など全くなく。単に世間的成功者への羨望が、根拠のない過剰な期待の錯覚を作り出しているだけであって。有名人ゴシップ記事に群がる大衆というのは、有名人の悪口を共有しておけば、あたかも自分自身を正当化し、優位に立ったような錯覚が可能であるため、異常なまでに不毛なゴシップ記事に執着するのである。
自分の優位性の正当化と社会安全性とは無関係であるが、そんなことは彼らにとってはどうでも良いことであり。そもそも何を優先すべきなのかという分別自体が彼らの意識上にはない。
他人を引きずり落として自分を正当化するというのは、やっていることは振り込め詐欺師と心理的には全く同じ卑しい薄っぺらな行為であり。自己内部に自発的純粋性が存在しないことの表れでもある。
エリカ様による「別に」発言自体に何ら社会的被害など存在しないが、和田アキ子によるパワハラ自慢というのは体罰差別封建性を正当化する反社会的言動であることについては、文科系大衆マスコミの誰も指摘しないというのは、完全にマスコミとしての社会的役割を放棄していると言える。
大衆のご機嫌取りと、社会安全性や持続可能性とは無関係であるにも関わらず。その場限りの「空気」に流され何の検証もせずに権威の言うことを鵜呑みにし、無為に垂れ流しをしているからこそ、差別封建的な悪しき「文化」がはびこるのである。
§:本能的社会形成習性による結果的統率と、個人の意思的目的選択。
ヤクザにおける構成員が幹部に服従するメカニズムは、構成員が幹部に対して無条件に服従する習性が働いているからであり。法外な上納金を要求されるなどの不条理な要求に服従し続けるのも、そこに論理検証性が全く働いていないからである。
暴力的組織に所属しておけば、あたかも守られているような錯覚に陥り、それが気分的に安心満足を与えるからこそ、ヒトの多くは暴力装置への依存を放棄することが出来なくなるが。こうした気分的安心満足自体は本能由来の条件反射に過ぎず、個人の本質的な主体的判断にはならない。
世界全体の効率を考えれば、核兵器も含めた軍縮の合理性に論理的反論など存在しないにも関わらず。「国家」という分類だけで軍備暴力装置に対する気分的安心満足という錯覚がそれを阻んでいるからであり、「国家」という分類自体には論理科学的根拠が存在しないことを、ヒトの多くは認識したがらない。
自国の軍備拡大に関しては安心満足を感じるとしても、他国の軍備拡大に対しては恐怖を感じるものである。だが、これは論理的根拠を伴わない「国家」という分類に基づいた無意識な錯覚に過ぎない。
こうした暴力装置への根拠なき依存性こそが、ヒトを暴力的組織へと誘導するのであって。こうした暴力性が発揮される先天的本能習性自体からの決別を選択する「意志」が重要なのである。
生物である限り、自然界における過酷な生存競争を勝ち抜くために強い暴力性を持ってしまっていることは避けようのない「結果」であるが。本能という無意識に対する意識的「目的」行動選択が働いていれば、暴力性という結果に対して抑制することが可能となる。
何度も言うが、「難しい。」かどうかは知ったことではない。子供の学校入試や就職面接に関しては異常なまでの難易度を要求する癖に、社会安全性や持続可能性については急に安易性を要求するというのは。他者には難解なことを要求しておいて自分だけは安易な手口を要求するという、社会的「甘え」に他ならない。
本能習性が促す思考や行動のバイアスについては、誰のせいにも出来るものではなく。自分自身で自律的に何とかするしかないものであって、それこそ大衆迎合的に「これさえやっときゃ、全てはうまくゆく。」的な安易な解決策は存在しないのである。
個人が自律的な社会的責任判断を行うためには、大前提として本質的自発性がなければならない。環境依存的にそそのかされたその場限りの「意欲」の類ではなく、誰の評価報酬(エサ)を与えられなくても行う本質的自発性、純粋性がなければ、自己犠牲を伴うような自律判断は誰もしないのは必然である。
自分自身の自己犠牲性の根拠を持たない奴が、他人に対して自己犠牲を求めるというのも、あまりに都合の良い社会的「甘え」に他ならない。
「お国のため。」だの「人類の救済。」と称して、特攻隊鉄砲玉的暴走行為を美談とするのが文科系大衆観念である。単なる自暴自棄な権威多数派への服従性を、短絡的に人間性とすり替えるのは、ヒトの本能習性を利用した文科系大衆迎合的錯覚を利用した洗脳に他ならない。
「権威に服従しない社会は、崩壊する。」などという論理的根拠のない観念こそが、個人の自律判断を蔑ろにし、封建的統率協調性という本能由来の暴走性を助長するのである。
組織的な統率協調性というものも、その使い方次第である。何でもかんでも統率協調性の全てを頭ごなしに悪であると決め付けるのではなく、統率協調性の持つ力というものを、何に使うのかという個人の判断が伴わないという無意識性、暴走性が問題なのである。
ある特定の統率協調行動に社会的価値が存在するのかどうか、それを個人が分別した上で利用することが重要なのであって、統率協調性の持つ力の大きさというものは、あくまで「手段」に過ぎないことを個人が認識していなければならない。
論理的根拠を伴わない観念に基づいて、多数派や権威が作り出す「空気」に流されているからこそ、ヒトが持つ危険性に由来する「人災」が減らないのである。
原発もそうだが、単なる機械工学的安全性だけを論じていても。それを扱うヒトの危険性について言及しなければ何の意味もないのである。
既に冒した失敗に基づいて再発防止策を立てているだけでは、これは未だ起きていない失敗を未然に防ぐための対策には全くならない。
散々原発の危険性を放置しておいたという無責任性や組織的腐敗性を棚上げにし、既存の失敗例だけに対策をしておいたのでは。失敗学/危険学の本質を蔑ろにした言い逃れ/取り繕いにしかならない。
本当の危険性というものは、原発や高速バスそのものにあるのではなく。それらを扱うヒトの危険性にこそ存在するのである。なぜなら、全く論理的に予測不能な危険性であれば、これは「人災」とは言わず、危険学や失敗学で取り扱う問題では最初からないからである。
ヒトという種の生物についての認知がされていない現状においては、原発に限らずあらゆる危険工学的知見も根本的有効性を持たない。
Ende;