書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

吠える犬。

2013年07月02日 16時27分26秒 | 意識論関連


 §:抽象化による分類

 隣で飼っている小型犬が、通りすがりの運送屋に吠えまくっている。

 イヌが吠える理由は何か。

 イヌは相手が自分に対してどういった存在であるのかを知りたいのである。

 自分に対して敵意殺意があるのかどうかを確認し、敵か仲間か、或は服従対象なのかを抽象的な分類することで気分的に安心満足を得ようとしているのである。

 分類というのは、必ずしも論理検証的な根拠に基づいたものである必要性はなく。大衆マスコミ一般的には抽象化されたシンボル的分類をすることで、あたかも「これは、こういうものだ。」という決め付けをすることで気分的に安心満足するだけの分類であることがほとんどである。

 振り込め詐欺師に騙される被害者において、詐欺師が主張する警察官や銀行員、弁護士、息子の同僚であるかどうかを「分類」判断する場合においても、そこに論理検証的分別が介在する必要性は全くなく。あくまで気分的に「納得」することが可能かどうかという情動的思考バイアスが優先される。

 イヌはエサでも見せれば一瞬にしておとなしくなり、エサが貰えそうであれば「おすわり」でも「お手」でも何でも言うことをきくようになる。

 イヌにとって、エサを提供してくれる相手というのは「味方」であり、自分にとって都合の良い安心満足を与えてくれる対象として短絡的に抽象分類される。

 そのエサに毒物が混入しているかどうかといった危険性についての検証はイヌは全く行わないし、行うだけの検証性というものがそもそもイヌの頭(意識)にはない。

 ヒトという種の生物でありさえすれば、必ずしも常に論理的に危険性の全てを検証可能であるという保証は全くなく。大脳辺縁系が促す思考バイアス自体は、むしろ論理検証性よりも目先の気分的安心満足を優先するようになっており、こうした思考バイアス自体はヒトであれサルであれ下等な爬虫類であってもさしたる違いなどなく。あくまで「生存に適したかどうか。」という結果論に過ぎない。

 必ずしも賢い個体が生存に適していたとは限らず、キチガイ同士で共謀してテロを行った結果、キチガイだけが生き残る可能性も充分存在するのである。

 自分の大脳辺縁系の構造自体というのは、自分自身で選択したものでもなく。当然、無意識な思考バイアスというのは自分自身では制御不能なものなのである。思考バイアス自体が自己制御不能であることからは逃れられない事実であるが、思考バイアスが促す錯覚を、錯覚であると認識して行動結果を変えることは、ヒトの場合絶対に不可能であるとは言えず。これを発揮して初めて人間としての知能と定義することが可能となるのである。

 振り込め詐欺師集団や、シエラレオネの少年ゲリラ集団における統率協調性においても。これらは全て結果にすぎず、当人達の意識的論理検証における目的行動選択の介在する必要性は全くない。

 仲間内で何かを成し遂げることによる安心感や、目先の利益報酬に意識を奪われ。自分達の行動によって社会全体の安全性や持続可能性といったものへの配慮を喪失するのも、大脳辺縁系が促す本能的な社会形成習性の「結果」に他ならない。

 現在の生物学上においては、個体の生存だの遺伝的種の保存に適しさえすれば生物として優秀であると短絡的に定義するが。これは「結果」に対する事後正当化に過ぎず、何ら意識的論理検証的「目的」行動選択について全く考慮されていない。

 本能が促す行動バイアスが、常に、絶対に、必ず何らかの「正しい結果」をもたらす保証などどこにもなく。偶発的に生存だの種の保存に適した結果だけを抽出しておいて、これを「目的」だと言い張るのは非科学的オカルト観念に他ならない。

 生物学的な「社会性」すなはち、本能的な社会形成習性というものも。これが常に組織集団や遺伝的種の保存につながる行動を促す論理的根拠も全くなく、東京電力福島第一原発の安全技術者同様、組織の破滅をもたらすことも少なくはない。

 シエラレオネの少年ゲリラ集団においても、振り込め詐欺師集団においても、ナチズムにおいても、これらの統率的協調性の結果というのは暴走破綻の原因となる。これを無視して、断片的に暴徒鎮圧に利用可能であることなど、都合の良い結果だけを抽出して正当化するというのは、もはや科学的説明でも何でもなく、単なる科学風味を装ったオカルト観念に他ならない。

 生死に関わる話でありさえすれば、ヒトの多くは個人的一大事であるとして、あたかも絶対的に優先事項であると錯覚させることは簡単である。しかしヒトという種の生物である以上、ヒトの死亡率は100%であり、絶対的優先事項であるとは言えないのである。

 「人間」としての優先事項とは、自分を含めた社会全体への配慮、持続可能性や安全性といったものを優先することであり、自分が生きるに値する社会を求めることによって、自己存在価値を自律的に見出だすものであって。決して個体の生存価や遺伝的種の保存だの、「多数他人に生かされていること。」にあるわけではない。

 自分自身が自律的に社会持続可能性を求めない社会において、「多数他人に生かされている。」ことに個人的価値など存在せず。単に「死にたくない」という本能を満たすための社会であるならば、余命いくばくもない年寄り病人であれば社会持続可能性も安全性も自律的に求める必要性など、どこにも存在し得ないのである。

 個人の生存価に依存せずに、自律的に社会的責任判断を行うためには。多数他人という環境への依存性に拠らない主体的意志目的選択が不可欠である。

 「世間に生かされている。」などと言っておけば、文科系大衆観念に迎合して世間ウケ狙いをするのは簡単であろうが。こんなものは本質的な社会安全性や持続可能性には全く寄与しない大衆迎合に過ぎないのである。




 血液型性格診断というものがあって。これは血液型によってヒトを4種類に分類することで、あたかも相手の性格の全てを掌握したかのような錯覚によって安心満足を得ることが目的の、科学的根拠を伴わないオカルト大衆観念である。

 ヒトを4種類の性格に分類することによって、果たして事故防止や犯罪防止に何の役に立つであろうか。無論、血液型性格分類をしたがる者の脳には、初めから社会全体への配慮など全く考慮に入っていないことは言うまでもない。

 「このヒトは、こういうヒトだ。」と論理的根拠もなく決め付けることによって、あたかもイヌがエサをくれる相手に服従するかの如く気分的に安心満足することだけが「目的」であって、実際にはこの場合における「目的」というのは本能という自己選択不可能な思考バイアスに無意識に流された「結果」に過ぎない。

 「金儲け」や「世間的認知評価」といった分類においても、これらは全てその場限りの「結果」に過ぎず、個人の人間としての知能に基づく社会的存在価値とは無関係な大衆観念に過ぎない。

 世間的成功者というものが、短絡的に社会安全性や持続可能性を保証してくれる論理的根拠など全くなく。単に世間的成功者への羨望が、根拠のない過剰な期待の錯覚を作り出しているだけであって。有名人ゴシップ記事に群がる大衆というのは、有名人の悪口を共有しておけば、あたかも自分自身を正当化し、優位に立ったような錯覚が可能であるため、異常なまでに不毛なゴシップ記事に執着するのである。

 自分の優位性の正当化と社会安全性とは無関係であるが、そんなことは彼らにとってはどうでも良いことであり。そもそも何を優先すべきなのかという分別自体が彼らの意識上にはない。

 他人を引きずり落として自分を正当化するというのは、やっていることは振り込め詐欺師と心理的には全く同じ卑しい薄っぺらな行為であり。自己内部に自発的純粋性が存在しないことの表れでもある。

 エリカ様による「別に」発言自体に何ら社会的被害など存在しないが、和田アキ子によるパワハラ自慢というのは体罰差別封建性を正当化する反社会的言動であることについては、文科系大衆マスコミの誰も指摘しないというのは、完全にマスコミとしての社会的役割を放棄していると言える。

 大衆のご機嫌取りと、社会安全性や持続可能性とは無関係であるにも関わらず。その場限りの「空気」に流され何の検証もせずに権威の言うことを鵜呑みにし、無為に垂れ流しをしているからこそ、差別封建的な悪しき「文化」がはびこるのである。




 §:本能的社会形成習性による結果的統率と、個人の意思的目的選択。

 ヤクザにおける構成員が幹部に服従するメカニズムは、構成員が幹部に対して無条件に服従する習性が働いているからであり。法外な上納金を要求されるなどの不条理な要求に服従し続けるのも、そこに論理検証性が全く働いていないからである。

 暴力的組織に所属しておけば、あたかも守られているような錯覚に陥り、それが気分的に安心満足を与えるからこそ、ヒトの多くは暴力装置への依存を放棄することが出来なくなるが。こうした気分的安心満足自体は本能由来の条件反射に過ぎず、個人の本質的な主体的判断にはならない。

 世界全体の効率を考えれば、核兵器も含めた軍縮の合理性に論理的反論など存在しないにも関わらず。「国家」という分類だけで軍備暴力装置に対する気分的安心満足という錯覚がそれを阻んでいるからであり、「国家」という分類自体には論理科学的根拠が存在しないことを、ヒトの多くは認識したがらない。

 自国の軍備拡大に関しては安心満足を感じるとしても、他国の軍備拡大に対しては恐怖を感じるものである。だが、これは論理的根拠を伴わない「国家」という分類に基づいた無意識な錯覚に過ぎない。

 こうした暴力装置への根拠なき依存性こそが、ヒトを暴力的組織へと誘導するのであって。こうした暴力性が発揮される先天的本能習性自体からの決別を選択する「意志」が重要なのである。

 生物である限り、自然界における過酷な生存競争を勝ち抜くために強い暴力性を持ってしまっていることは避けようのない「結果」であるが。本能という無意識に対する意識的「目的」行動選択が働いていれば、暴力性という結果に対して抑制することが可能となる。

 何度も言うが、「難しい。」かどうかは知ったことではない。子供の学校入試や就職面接に関しては異常なまでの難易度を要求する癖に、社会安全性や持続可能性については急に安易性を要求するというのは。他者には難解なことを要求しておいて自分だけは安易な手口を要求するという、社会的「甘え」に他ならない。

 本能習性が促す思考や行動のバイアスについては、誰のせいにも出来るものではなく。自分自身で自律的に何とかするしかないものであって、それこそ大衆迎合的に「これさえやっときゃ、全てはうまくゆく。」的な安易な解決策は存在しないのである。

 個人が自律的な社会的責任判断を行うためには、大前提として本質的自発性がなければならない。環境依存的にそそのかされたその場限りの「意欲」の類ではなく、誰の評価報酬(エサ)を与えられなくても行う本質的自発性、純粋性がなければ、自己犠牲を伴うような自律判断は誰もしないのは必然である。

 自分自身の自己犠牲性の根拠を持たない奴が、他人に対して自己犠牲を求めるというのも、あまりに都合の良い社会的「甘え」に他ならない。

 「お国のため。」だの「人類の救済。」と称して、特攻隊鉄砲玉的暴走行為を美談とするのが文科系大衆観念である。単なる自暴自棄な権威多数派への服従性を、短絡的に人間性とすり替えるのは、ヒトの本能習性を利用した文科系大衆迎合的錯覚を利用した洗脳に他ならない。

 「権威に服従しない社会は、崩壊する。」などという論理的根拠のない観念こそが、個人の自律判断を蔑ろにし、封建的統率協調性という本能由来の暴走性を助長するのである。

 組織的な統率協調性というものも、その使い方次第である。何でもかんでも統率協調性の全てを頭ごなしに悪であると決め付けるのではなく、統率協調性の持つ力というものを、何に使うのかという個人の判断が伴わないという無意識性、暴走性が問題なのである。

 ある特定の統率協調行動に社会的価値が存在するのかどうか、それを個人が分別した上で利用することが重要なのであって、統率協調性の持つ力の大きさというものは、あくまで「手段」に過ぎないことを個人が認識していなければならない。

 論理的根拠を伴わない観念に基づいて、多数派や権威が作り出す「空気」に流されているからこそ、ヒトが持つ危険性に由来する「人災」が減らないのである。

 原発もそうだが、単なる機械工学的安全性だけを論じていても。それを扱うヒトの危険性について言及しなければ何の意味もないのである。

 既に冒した失敗に基づいて再発防止策を立てているだけでは、これは未だ起きていない失敗を未然に防ぐための対策には全くならない。

 散々原発の危険性を放置しておいたという無責任性や組織的腐敗性を棚上げにし、既存の失敗例だけに対策をしておいたのでは。失敗学/危険学の本質を蔑ろにした言い逃れ/取り繕いにしかならない。

 本当の危険性というものは、原発や高速バスそのものにあるのではなく。それらを扱うヒトの危険性にこそ存在するのである。なぜなら、全く論理的に予測不能な危険性であれば、これは「人災」とは言わず、危険学や失敗学で取り扱う問題では最初からないからである。

 ヒトという種の生物についての認知がされていない現状においては、原発に限らずあらゆる危険工学的知見も根本的有効性を持たない。



Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガリレイ。

2013年07月02日 16時26分01秒 | 意識論関連
○ガリレイ。

 「ガリレオ」っつうテレビドラマがあるけど、この作品の中の主人公は「将来有望な天才物理学者。」として扱われている。

 だが、本当に業績を遺すような学者というのは、実際には業績が認められるまでは変人扱いされることの方が圧倒的に多くて、iPS細胞の研究でノーベル賞をとった山中教授も、「ジャマ中」などと差別されていた。

 そもそも本物のガリレオ:ガリレイは火炙りにされそうになっているわけで、予め文科系大衆観念的に有望視されている奴が実際に業績を得ることはほとんどない。

 14歳で大学院に飛び級したりすると、あたかも文科系大衆観念的には「天才だ。」「将来を期待されている。」などと勝手に勘違いする傾向が激しいが。この種の偏差値が高いだけの子供というのは、実際には大人になる頃には「普通の人」になってしまうケースがほとんどである。

 「学力偏差値が高い=頭が良い。」という観念は、極めて短絡的な文科系観念に過ぎず。何ら認知科学的根拠や証明が存在するわけではない。

 実際に業績を得た研究者の多くは、目先の多数派による短絡的で安易な評価に流されることなく、地道に一つのテーマを研究した結果であり。また、そうした地道な信念といったものを大切にする。

 「スルメ見て、イカが解るか。」そう言われて「悔しい」と述べたのは養老孟司である。スルメ(死体)解剖をしていて生きているヒトについて何が解るのか。という意味のことを言われ、悔しいと「思う」のは、その研究自体に主体性がなく、世間多数派に流される形で解剖学に就いていた故の感情である。

 本当に主体的に解剖の研究をしていれば、たとえ「生きているヒトについて何がわかるのか。」などと言われても、「別に生きているヒトについて言及するつもりはありません。」の一言で済む話であり、「悔しい」などという勝ち負け観念にさいなまされる必要性自体が生じない。

 成果が得られるかどうかも判らない研究に没頭していて、「邪魔」扱いされてでも研究を続ける信念というのは、そこに主体的意思、意欲があるからであって。目先の文科系大衆観念的多数評価に惑わされずに研究を続けるからこそ、誰にも到達出来ないような成果業績を得ることが出来るのである。

 茂木健一郎だの、澤口俊之、川島隆太といったエセ脳科学者の大衆人気というのも、何の科学的根拠もないデタラメに他ならない。高度な暗算機能や暗記術を身につけたら振り込め詐欺に騙されなくなる証拠でもあればまだしも、そういった証明など現実には存在しないのである。

 「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」そんな短絡的で安易なバカげた話を鵜呑みにしている事自体が、むしろ「頭が悪い」証明に他ならない。

 特定のゲーム類、脳トレーニング類を習熟しても。「その能力」自体は鍛えられることはあっても、それが本当に意味のあるものであるのかといった検証性にまで言及することのない無為性、無意識性こそが、頭の悪さを証明するのである。

 振り込め詐欺の手口というのも、結局は「金さえ振り込めば、全てはうまくゆく。」という短絡的解決策の提示を鵜呑みにする気分感情的行動バイアスを利用したものであり。エセ脳科学者達のペテンを鵜呑みにする短絡性と構造的には全く同じものなのである。

 「それじゃ、一体誰を信用すれば良いのよ!。」などとヒステリックに訴える者も少なくないが、誰の言っていることが信用に値するのかを論理的に検証しようとする意思がないこと自体が、そもそもの頭の悪さの根源にある。


 暗記術の類で用いられる手法というのは、「順番に思い出すためだけ。」にしか使えないものであり。関連性に「気付く」ための発想力には全く意味を成さない。

 ノーベル賞受賞者が、現在のエセ脳科学者の言っているような脳トレーニングをしているかと言えば、そんな話は全く存在しないのである。

 むしろ、ノーベル賞受賞者達が口を揃えて論ずるのは、失敗だの評価に惑わされない強い意思、意欲といったものが大切であると述べているのであって。脳トレーニングとは全く無関係なのである。

 学力偏差値さえ高ければ、将来金儲けが出来て、世間的な評価も得られて、全てはうまくゆくものであると勝手に勘違いしていたような奴らが原子力開発に携わっているからこそ、自分達のやってきたことを事後正当化するための言い逃れや取り繕いに異常なまでに執着することに陥るのである。

 東海村の実験事故においても、業績を焦り過ぎたあまりの稚拙な事故であり。研究内容自体への純粋さが欠如していることの現れである。

 特定の価値観に基づいて競走させる手法というのは、クソゲー(ソーシャルゲーム)の手口であり。多数他者との比較を用いた意識狭窄に導く洗脳手法である。

 その競走の意味、価値といったものを自律的に検証することなく。強迫観念的に目先の安心満足を獲得するよう仕向けられた結果、与えられた価値観自体への検証を全く行わなくなり、無意味な競争へと意識狭窄を促すことで、ヒトは無意識な暴走状態へと陥れられるのである。

 学力偏差値への意識狭窄を導く入試ビジネスであっても、彼らは自分達の金儲けのために生徒を洗脳しているのであって、生徒が原発の危険性を放置させたり、無差別殺人を行うように導いているつもりはない。

 これと同じでオウム真理教の教祖においても、彼はテロを目的としていたのではなく。あくまで信者からの人気取りによって金儲けがしたかっただけであって、麻原なんちゃらには意思も目的も存在していなかったのである。

 意思とか目的行動選択というものが存在せず、無意識に多数派迎合して気分的安心満足ばかりを追求しているからこそ、あらゆる暴走「人災」は生ずるのである。

 「企業が利益を追求しなくなったら、公益法人だ。」などと述べている奴は、企業というものが社会的存在であることを忘れ、金儲け競争という価値観だけに意識を奪われ暴走している証拠である。もちろん赤字借金だらけでは社会的には迷惑であるが、金儲けというのは企業の社会的存在価値を維持存続させるための手段であって、金儲け自体を目的だと勘違いしているから社会の崩壊を導くのである。

 何を「目的」とするのか、それを何も考えずに暴走しておいた方が気分感情的には安心で満足であろう。だが、それはカルト宗教の幹部達の心理と全く同じものである。

 たとえ「命懸けで毒ガスを製造。」していても、現実には無駄な努力による迷惑にしかならないことを、彼らは知らない。

 意識の俎上になく、「知らない。」から洗脳なのである。





Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数理の嘘。

2013年07月02日 16時14分18秒 | 意識論関連
○数理の嘘。

 電力というのはエネルギー全体から見ると1/4でしかなく。温室効果ガス抑制というのは電力以外でも解決可能なものでもあるそうだ。

 自分では何がしたいのかわからなくてクソうるさいポンコツ車輌で近所をグルグル回っている迷惑騒音男がいなくなれば、二酸化炭素排出量を大幅に減らすことも可能かも知れない。

 この種のバカって日本中に蔓延しているからな。




 ヒトという生物の本能習性が、論理検証的思考を「嫌う」ことと。論理検証的に考えなければ解決策が得られない事実は相反するものではない。

 大抵の場合、マスコミの議論というのは気分的な「希望」や「ワクワクする」などという観念的快楽に帰結してしまって。問題の本質を簡単に見失う傾向が強い。

 原発の危険性を放置した原因の一つとして、「夢のエネルギー」などと称して気分的に満足してしまったが故に検証性を喪失したのであって。気分の問題を論理的問題とすり替えるのは最も危険な文科系大衆観念であり、思考バイアスである。

 おいらは「数理」という言い回しが嫌いで、「数字統計」というのは偏った特定の利権者にとって都合の良い数字だけを取り上げることで、本質的論理検証性が撹乱されることが少なくないからだ。

 特定の数値統計というものが、本当に本質的な論理的根拠を伴うものであるのかどうかを検証判断するのは、数字だけではなく。その数字の根拠となる論理の方を検証する必要性がある。

 そもそも数学が得意な奴が、養老孟司の言っている内容の論理検証が出来るかと言えば、現実全く出来ない場合がほとんどであり。オカルト生物学/脳神経科学や哲学が放置されているのも、数理学者達がポンコツだからに他ならない。

 脳の動作を数理モデルに基づいて予測することが可能であるとしても、それは環境依存的「結果」しか導き出すことはなく。個人の意識的論理検証性に基づく「目的」行動選択自体は数理モデルに依存するようなものでは構造原理的にない。

 通り魔の脳の数理モデルを再現したところで、通り魔がどうして自分の行動を論理検証出来ないのかについては全く答が出ない。それは蛾が人工の炎に飛び込むシーケンスを数理化したモデルと同じものであって、無意識的条件反射行動の数理モデル化以上の意味が存在しない。

 意識的論理検証という自律的な目的行動選択というものは、数理数量予測化出来るようなものではなく。あくまで個人の自発的「意志」によって変えることの出来る選択可能性を論じているのであって。株価変動などの「結果」だけを取り扱う金儲け主義経済学とは全く次元の異なる話である。

 金儲けだの、世間的成功といった個人の世間的比較評価成績といったものを基準にしてしまえば。個人の自律が蔑ろにされるのは必然である。原発の危険性を放置してでも東電の体制維持を目的にしていれば、そりゃ自律的な社会的責任判断がされなくなるのは当たり前でしょ。

 自律判断というものは原理的に数理数量化出来ないものであり、だからこそ「自律」なんですよ。

 初期値と条件値を入力すれば、必ず結果が確定するような無意識的条件反射行動バイアスという「結果」だけを述べているのであれば、これは「寝言」以上の何の価値も存在しないわけです。

 自分の周りにバカしかいない環境条件の場合、自分もバカに陥ることを正当化出来るわけではありません。ヒトの多くが環境に基づいた無意識に行動を左右されがちな傾向性をどんなにたくさん統計数理的に実証しても、人間としての自律的行動選択をしなくて良いことの論証には全くならないのです。

 これは数値数量化出来ない論理構造であって、数理の問題ではありません。

 自閉症スペクトラムが原因でイジメが発生するのが問題なのではなく、むしろ多数派の「正常」とされる「普通のヒト」達が観念的に少数派を差別排除迫害するという先天的習性こそがイジメの根源にあるのであって。多数派という数字を論拠に「正常」と見なす非論理性自体を指摘するのも数理ではありません。

 数理というのは多数派を短絡的に正常と見なす観念の源に利用されることが少なくない。多数派が間違っていることを指摘する場合、数値統計的根拠は全く意味を成さず、構造的不条理性を論ずる以外にない。

 数理は万能ではなく、数字は断片的現象結果しか現さない。

 「結果」だけを論じているならば、そこに「目的」行動選択が永久に出てこないのは必然的結果である。

 数理は手段道具としての役割は存在するが、数理だけで全てを論証しているから、「合理性=心がない。」などという文科系大衆観念に陥るのである。

 数理というのは、論理検証の道具ではあっても、目的として扱うべきものではない。




Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なにこれかわうい。

2013年07月02日 15時57分51秒 | 日記
○なにこれかわいい。

 たまたま立ち寄ったDIYショップで、変な蛇口を見つけてしまた。

Fig:

 単にぷくれているだけではなく、ハンドルの角度も変形していてかわうい。

 普通の吐口タイプだけでなく、ホースが抜けにくいようなタケノコになっているものもある。

Fig:

 KAKUDAIっていう会社の「誰や」っていうシリーズらしいんだけど、まだ公式サイトには掲載されていなかった。

http://kakudai.jp/

 他にも吐口をひねるとハンドル先端から水が出てくるものとか、蛇口全体がひねられてしまうもの、メーター元栓みたいなものなど、変な蛇口がいろいろある。

Fig:


 でもぷくれているのが一番かわうい。

 Web上だと一万円以上するけど、オリンピック坂下店では\7,980-で売っていた。普通の蛇口なら\1,000-前後で買えるので結構高価な上、メンテナンス性などに問題がありそうだけど、なんだかかわいいのでゆるせるような気もする。ウチには取り付けられるような蛇口がないんだけど、消費税対策で最近売上の伸びている新築マンションのオプションにしとくのも良さそう。

 あ、蛇口で思い出したんだけど、よく蛇口に輪ゴムかける人っているでしょ。実は一般的な輪ゴムの主成分であるブチルはカルボン酸の性質を持っているだとかで、水素ラジカルを発生させて金属を腐らせてしまうんだそうな。なので蛇口に輪ゴムかけてはいけないのでした。

 折角高価な蛇口つけても腐らせちゃったらもったいないので、ウンチクひけらかしてみましたとさ。

 でわまた。

Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする