書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自閉症スペクトル。

2013年07月15日 20時17分37秒 | 意識論関連
○自閉症スペクトラム。

 自閉症スペクトラムを理由にイジメを受けるからといって、イジメられる方に問題があるかの如く論ずるのは、明らかに問題の焦点がズレている。

 個人差を受け入れられずにイジメをしてしまう多数派の異常性の方を問題にすべきである。

 安心して差別迫害をしてしまう多数派を、多数派であると言うだけで「正常」として扱うのは間違いだからである。

 空気を読んで、統率協調的に差別迫害をする「普通のヒト。」の危険性については、心理学者も脳神経科学者も問題として扱わないが。原発の危険性が放置されたのも「普通のヒト。」が持つ危険性こそが原因であり、少数派を「治療」と称して矯正することばかりに囚われているのはとんでもない間違いである。




 EMDR治療法の副作用ってないのかね。自分の痛みを分からなくさせてしまうと、他人の痛みも分からなくなる危険性があるのではないかと、おいらは思う。

 ナチス総統のアドルフ:ヒトラーも、戦場での後遺症治療と称して催眠療法を行った結果、ナチズムに傾倒したとも言われており。その場限りに多数派に合わせて「治療」することは、問題の本質を撹乱するだけである。そもそもヒトラーに従属した多数のヒトの無意識性こそが、ナチズムという洗脳状態を作り出したのであって、ヒトラー個人がキチガイなだけならナチズムなんぞ作られることはないのである。

 個人差を許容出来ずに、多数派で統率協調的に差別迫害を行う多数派の「普通のヒト」の異常性の方を問題とし、これを「治療」対策しないことには、あらゆる「人災」は構造原理的に治らない。

 少数派の「変わったヒト。」に対して観念的不安を抱き、差別排除することで安心したがる多数派の「普通のヒト。」の異常性こそが、あらゆる「人災」の根源にあるからである。


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 自分が虐待を連鎖していることに気付き、自己嫌悪に陥るのは間違いである。

 親から受けた虐待を認識し、自分の行為を客観視出来ているからこそ、虐待の連鎖を止めることが可能なのであって。気分的に凹んだり、憂鬱になる必要性は全くない。

 後天的に刷り込み学習されてしまった無意識な行動バイアスは本質的な個人の「人格」ではない。無意識に虐待を連鎖していた方が自己嫌悪などに陥ることもなく、当然それを止める意志も働かないことの方が、むしろ「人格」異常なのであって、無意識な行動バイアス/既存の自己の無意識な傾向性を客観的に認識することこそが、人間としての本質的「人格」の基礎となるのである。

 最も悪いのは、「どうせ自分は悪い人間だ。」などと称して自分の行動バイアスに無意識に流されることに抗うことを放棄することである。こうした身勝手な「決め付け」をしておけば大脳辺縁系は気分的に安心満足して、無意識な行動バイアスに流されることに何の疑問も持たずに済むであろう。それこそが人間性としての「人格」を放棄することなのである。


Ende;
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本音や建前。

2013年07月15日 20時15分22秒 | 意識論関連
○本音と建前。

 本音とは何か。

 本音の対義語は建前であるが、建前とは多数派迎合上の外見的偽善性をも含むものであるから、本音には偽善性が排除されていると言えるであろうか。

 残念ながら、本音というのは飲み屋の酔っ払い同士が多数派迎合するためのものであって、偽善ではないかも知れないが、善でもなく。むしろ悪辣性をも含むものである。

 それなら善というものは存在しないのであろうか。

 善が存在しないのであれば、悪も存在しないことになるのだが、そういうことには実際にはなっていないので、善は存在し得るのである。

 本音と建前というもの自体は、ヒトの本質の全てを網羅しているわけではなく、本音と建前のどちらにも善が含まれていなくても構わないのである。



 本音や建前といったものは、ヒトの一面的な感情論に過ぎず、大脳辺縁系が促す無意識な思考バイアスであるが故に、本音や建前には善性が抽出出来ないのである。

 善性とは、本音や建前といった文科系大衆観念からは抽出出来ないものであり、善性とは観念を排除した論理検証によってのみ抽出可能なものなのである。

 本音や建前をどんなにたくさん並べても、それらは文科系大衆観念である以上。善性が抽出出来ないのは必然的結果なのである。

 文科系大衆固定観念に基づいた議論をどんなに重ねても、ヒトという種の生物が持つ異常性や危険性といった悪の性質を議論することは構造原理的に出来ないのである。

 酒で脳を麻痺させて、文科系観念を共有していれば合理性が失われるのは当然の結果である。

 プラトンなんぞを哲学だと思っている奴は、哲学者としてポンコツである。そんなに論理検証するのが嫌なら、哲学研究者なんぞ辞めれば良いのである。

Ende;
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宮崎駿。

2013年07月15日 20時13分42秒 | 意識論関連
○耳をすませば。

 「他人と違う生き方は、それなりに厳しい。誰のせいにも出来ないから。」

 これは嘘である。「他人と同じ生き方をしていれば、誰かのせいに出来る。」ということにはならないからだ。たとえ誰かのせいに出来たとして、それで安易に誰かが責任をとってくれる訳でも何でもない。

 どのような生き方をするにせよ、自分の行動は全て自分で責任を負わなければならないし、他人と同じ生き方を選んだからといって厳しくないわけでもない。

 そもそも「他人と同じ生き方。」などという選択肢がどこかに厳然と存在していると言えるであろうか。

 「他人と同じ生き方。」さえしておけば、どこかの誰かが自分の行動責任を全てとってくれるものであるという錯覚こそがこうした文科系大衆観念の本質であり。これは同時に社会的「甘え」でもある。

 宮崎駿が有名だからといって、特別に意味のあるセリフを考えているとは限らないことを、多くのヒトは認識しないことの証明でもある。



 東電の原発安全担当者は「他人と同じ生き方」だと言えるだろうか。

 高速バスの運転手は「他人と同じ生き方」であろうか。

 一体この世のどこに「他人と同じ生き方」などというものが存在すると言うのであろう。

 この世界のどこに「他人のせいにしてよい生き方」などというものが存在するのであろうか。

 そんな無責任な嘘を鵜呑みにしているからこそ、無責任な「人災」は繰り返すのである。

 宮崎駿がどんなに世間的に成功していようとも、所詮は文科系芸術家に過ぎず、言っている内容に責任など存在しないのである。



 皆と同じように酒で脳を麻痺させて、下らない観念を共有することで安心満足することに社会的存在価値など存在しない。

 プラトンも所詮は飲み屋の酔っ払い同士の観念共有に過ぎないことを、哲学者達は誰も指摘することはない。

 だからこそヒトのほとんどは問題の本質を認識出来ないのである。


Ende;
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本質的な「和」とは。

2013年07月15日 20時11分46秒 | 意識論関連
○和を乱す。

 タレント人気っていうのも、結局はテレビでの露出量の方が影響大きいようで、どんなにかわいくても面白くてもテレビでの露出が減ると忘れられちゃうようで、篠原ともえも最近再発掘されて人気が出てきているようだ。

 そもそもメディア人気がどんなにあっても、社会持続可能性とか安全性とは無関係なその場限りの流行に過ぎず。メディア人気で世間的に成功して金持ちになっても人間として「偉い」わけではない。

 多数大衆から人気があると、あたかも幸福であるかのように外見上「見える」のかも知れないが、大衆人気があるが故にプライベートを根掘り葉掘りいじられたりすることもあるので、決して幸福とは限らない。

 元モー娘。の知真理が何かやらかして干されたみたいだけど、テレビの露出が多くて人気があっても個人の精神的充実とは無関係だからこそ、変なことをやらかしたりするんじゃないかと、おいらは思う。

 そういや槇原敬之も違法薬物で捕まったりしてたし。

 どんなに多数大衆からの人気を獲得しても、個人の幸福とは無関係なだけでなく、人間としての価値の証明にはならない。

 多数派に迎合せずに自律的な社会的責任として内部告発をしても、日本においては「和を乱す不届き者。」として排除差別の対象になることも少なくない。

 「法律手続きさえ守らせておけば法治国家だ。」などという権力迎合観念を平気で言うバカも少なくないが。自律的な論理検証性に基づかない観念は「個人の意見」としての体も為していないのである。

 「何も考えずに権力にお任せしておけば気分的に安心だ。」などという話のどこに個人の主体性が存在するであろうか。法律統治だけを論ずるのであれば、戦前の日本も現在の北朝鮮であっても法律統治にはなっているのであり。むしろ統治の法律手続き自体にに何の疑問も批判も持たない国民の無為無策こそが社会を崩壊へと導くのである。

 制度手続き上民主主義や法律統治を導入していても、国民個人に自律的判断力がなければ社会は崩壊へと暴走するのである。

 ヒトという種の生物は、「上(親/権威)」に服従し、多数派に迎合することで本能的に安心満足する性質がある。その気分的安心というものを論理的安全性と錯覚しているからこそ、あらゆる「人災」は一向に減らないのである。

 原発の暴走には違法性など介在しておらず、法律統治自体は社会安全性の保証には全くならない。法律自体が間違っているのであれば、これは現状の法律自体への疑問や批判を持つ必要性があり、そのためには国民個人が論理検証するという「自律」性が必要不可欠なのである。



Ende;
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いつ気付くか。

2013年07月15日 20時06分54秒 | 意識論関連
○何でも飲み込める。

 進学塾講師の林修が言うには、「何でも食べられる子供は良い子供。」なんだそうだ。

 食べ物の好き嫌いがなければ自律的な社会的責任判断を下す論証になるのかね。東電幹部や原発安全担当者は好き嫌いが激しかったとか、不正を内部告発をする人が好き嫌いがなかったとか、そういう数理統計的根拠でもあるんでしょうかね。

 カリスマ講師だとか言っても、所詮は進学ビジネスの金儲けが上手いだけであって。入学試験に合格させる学力をつけさせる能力が高いだけであり、人間としての自律的な社会的責任判断力を身につけさせるわけではない。

 そりゃ親大人にとって従順で取り扱い易い子供なら、学力成績も高くて入学試験に合格する確率は高いんでしょうよ。でもどんなに有名な大学や企業に合格してからといっても、人間としての社会的責任を負う論証には全くならない。

 所詮は一発ギャグが受けてテレビの露出が増えたことで視聴率を稼げるからマスコミが「カリスマ」扱いしているだけであって。マスコミも含めて林修も「人間としての本質的価値」についての考えに基づいているわけではない。

 ヒトを騙そうとするペテン師にとって、何でも鵜呑みにしてくれる大衆マスコミは、まさに「何でも飲み込んでくれる。」ので便利なのであろう。マスコミというのは視聴率評価されることだけが目的になっており、出演者がどんなに無責任でも、発言責任は全て出演者に丸投げしているのが現在のマスコミというものである。

 そもそも林修は、自分がなぜ20代にギャンブルにハマったのかについての検証を全くしておらず、何ら再発防止策を全く持っていない。

 「何でも食べられるように育てました。」という母親の言葉に「感動」して、気分が良くなったことを短絡的に「良い子供」と判定する短絡性/文科系大衆観念こそが論理的再発防止策を喪失させるのであり。こうした短絡性こそがギャンブルにハマった要因であることを、林は認識していない。

 進学ビジネスというのは、生徒を入学試験に合格させるために洗脳することが目的であって、人間として自律的に社会的責任判断を下せるように育てることが目的ではない。

 進学だの就職だの出世、世間的成功といった短絡的文科系大衆観念に基づいた価値観こそが、「目先の効用」の追求であり、こうした意識狭窄性こそが社会を崩壊へと導いたことを、ヒトの多くは認識しておらず、故に「人災」が減らないのは必然的結果というものである。

 林修も薄っぺらだが、こうした薄っぺらさというのは世間一般に蔓延しているからこそ、中身のある話が蔑ろにされるのである。

 そもそも「生存戦略」などという論理的根拠のない観念を、科学的論証として扱っている生物学を放置しておいて、一体なにが「責任ある判断」であろう。そんなものはバカの寝言としか形容し難い。

Ende;
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