書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

社会を支えている。

2013年07月14日 15時51分40秒 | 意識論関連
○社会を支えている。

 安全性を保証出来ないインフラなんぞ、「社会を支えている。」ことにはならん。

 自分の金儲けのためにインフラに関わっておいて、安全性が担保出来ないというのは「甘え」以外の何物でもない。

 安全性が保証出来ない技術であれば、金儲けのための地位や権益を放棄してでも社会安全性を優先するのが「人間」というものである。

 金儲けや権益を優先して無責任に危険なインフラ整備に関わっていても、それは「社会を支えて。」などおらず、むしろ「社会を崩壊へと導いている。」だけである。

 「社会がインフラを求めている。」などというのも嘘である。社会が求めているのは安全性が確保されたインフラであって、技術関係者の金儲けのためのインフラではなく、明らかに責任のたらい回しのための言い逃れ/取り繕いに他ならない。

 本当に社会を根底から支えているのは農林水産業であって、インフラストラクチャなどの工業技術ではない。自分で「俺は社会を支えている。」などと言い出している時点で、既にオカルト観念に冒されたキチガイである。それは「人類の救済。」と称して破壊活動を正当化したキチガイ集団と、精神構造的には全く同じものだからだ。

 この種のキチガイは、どうせ「そう思わなきゃ、やってられない。」などと養老孟司みたいなことを言い出すに決まっている。こうした「居酒屋の酔っ払い。」的観念というのはプラトンが源であり、プラトンを哲学と分類し続けている現在の哲学界の無責任性についても批判すべきである。

 プラトンにせよ、養老孟司にせよ、これらは論理整合性のない「飲み屋の酔っ払いの戯言。」に対して、バカな文科系大衆が気分的同調によって安心満足を与えることで、論理検証性をヒトから奪う無意識行動バイアス/洗脳に他ならない。

 酒を呑むということは、要するに脳を麻痺させているということであり。酒を呑んで多数派同調するようなバカげた話を学術的「哲学」と分類しているなどというのは、もはや社会的犯罪である。

 気分的な「本音」をどんなに主張しても、それは社会的には糞の役にも立たない身勝手な文科系大衆観念的思い込みに過ぎず。思考停止の快楽を促す洗脳にしかならない。洗脳は気分的安心によって暴走しか生み出さず、社会を破壊へと導くものであることを、哲学界は全く認識していないのである。

 これはバカという以外に形容することが出来ない。



 教育というものは企業経営にとって便利なバカを育てることではなく、そもそも企業というものは利益を追求を目的とするものでもない。

 企業というものが社会的存在であることと同様、企業に勤める人もまた社会にとって有益でなければ存在価値など存在しないのであり。東京電力で企業利益を優先して原発の危険性を放置するようなバカを育てることは教育としての社会的役割を果たしていない。

 日本人に自律がないことと、起業精神の欠落には、同じ「個人の主体性の欠落」という風土文化固定観念が関わっており、これが社会の問題意識を阻害していると言える。

 社会問題が社会問題足りうる所以とは、その問題を解決することが出来ず、暴走を許してしまっているからであり。こうした暴走性というものは、無意識な固定観念/風土文化に対する強迫観念的恐怖心によって、個人の自律的判断というものを喪失させているのである。

 日本人の多くは「権威に服従しない社会は崩壊する。」などという観念を、勝手に論理的根拠もなく鵜呑みにしてしまうようだが。原発の暴走を許したのは東京電力という巨大企業の権威性に他ならず、論理的に社会を崩壊させる最も根源的原因というのは、「個人が自律的に社会的責任判断を行わないこと。」なのである。

 権威に服従しておけば、大衆の多くは自分では何も検証せず、それは同時に責任も負わずに済むので、気分的に安心して満足していられるであろう。こうした先天的思考バイアスこそが、ヒトから自律を喪失させるのである。

 無意識に先天的思考バイアスに従っておいた方が、気分的には安心満足であろうが。これこそが本質的な意識である自律的論理的検証性を喪失させるメカニズムなのである。

 科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーが、「プラトンの呪文。」を批判したのも、それが論理的根拠のない実証不能の観念であり、ヒトから自律判断力を喪失させる危険思想であるからに他ならない。

 一説には、学術論文への引用回数のトップ3にプラトンが入っているとの話であるが。引用回数などというのは「多数人気」の証明でこそあれ、プラトンの言っていることが論理的に正しいことの論証には全くならず。むしろ論文を書いている研究者の多くが自律的に論理検証も出来ない単なるオカルトキチガイに過ぎないことを証明してしまっているのである。

 全ての人類、或は多くの人類に自律的論理検証性を身につけさせることは難しいかも知れないが、難しいからやらないで済む話ではない。「難しい」というのは「実現不可能性の論証」ではなく、単なる主観的感想に過ぎない。そもそも難しいことに挑戦してこその学術研究者であり、何かにつけて「難しい」などと言い出すのは研究者としての「甘え」に他ならない。

 個人が経済取引を行う場合に、社会的責任判断を行わない傾向性は実在するが。これこそが意識の低さに由来する無責任性であって、自由市場経済であっても、取引を行う個人に社会的利益への意識が働いていれば、単なる金額的利益だけを追求することにはならないのである。

 ヒト自身が自らの先天的本能習性から自由でない以上、本質的な自由経済自体も成立しないのは必然的結果である。





Ende;
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