書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

寝言。

2013年07月20日 16時29分57秒 | 意識論関連
○寝言。

「事故でも起きない限り目立つこともなく,事故が起きたら起きたで叩かれるインフラエンジニアによって,僕らの社会は支 えられている.」
https://mobile.twitter.com/efuwara/status/354523460220895232

 まず、「目立つかどうか」と、「事故が起きたら叩かれる」ことは無関係である。

 「普段目立っていれば事故が起きたときに叩かれても良い。」とでも言うのであろうか。

 それなら、「普段目立たないんだから、事故が起きても叩かれるいわれはない。」とでも言うのであろうか。

 efuwaraの言っていることは、最初から合理的根拠に欠けている。「目立つ」かどうかを基準にしている時点で、多数他人からの評価を基準にしており、こんなことを言っている時点で主体性やそれに伴う自律が欠如している証拠である。

 インフラストラクチャ公共事業は金額規模が大きいだけであって、インフラだけが社会を支えているわけではない。「インフラエンジニアだけが主導的に社会を支えている。」などという主張は身勝手傲慢に他ならない。

 「事故が起きたら起きたで。」などと他人事の様に言うのも当事者意識に欠けており、自律的な社会的責任意識の欠如によるものであり、もはや酔っ払いの寝言に過ぎない。

 こういった「寝言」を多数で共有して満足している「ヒト」の傲慢さこそが、様々な「人災」の原因でもあり。無意識性に他ならない。

 寝言を共有して気分的に安心満足するという「社会性」こそが、本能的な社会形成習性によるものであり。本能優先で論理検証性を放棄して多数迎合するからこそ「人災」に対する再発防止策を喪失するのである。

 こうした「酔っ払いの寝言」程大衆多数人気が得られるようで、やたらとリツイートされているようだが、こういうのを「大衆迎合」と言い、プラトンだの養老孟司の大衆人気と同根である。

 それを無意識洗脳だとすら認識していないからこそ、ヒトは「人災」に対する合理的対策を喪失し、暴走破綻を繰り返すのである。


○共感性。

 共感性というと、文科系大衆観念的には全面的に良いことであるかのように思われているようだが。ナチズムにせよオウム真理教にせよポルポト、ルワンダ虐殺、シエラレオネのゲリラなど、多くのヒトの集団組織的暴走の根源が共感によって作り出されているのである。

 共感というのは気分的安心満足に過ぎず、論理的安全性の保証は何もない。

 イジメなどの差別排除迫害というのも、結局は集団多数派の作り出す無意識な「空気」の共感共鳴によるものであり、多数共感しておけば個人の自律的選択判断責任が薄まるものであると勝手に錯覚しているからこそ、ヒトの大多数は共感共鳴に強迫観念的に執着し、誰も自律的に抑制することが出来ないからこそ「暴走」するのである。

 共感というのは気分的安心満足を得ることが出来るが、社会安全性とは全く無関係な身勝手な満足に他ならない。



○目立つ。

 目立つかどうかというのは、要するに人気があるかどうかということであろう。

 多数大衆から人気があって、ちやほやされて、金儲けが出来るだの、学力学歴が高いことこそが人間としての価値であると、文科系大衆観念的には評価されがちであるが。こうした観念には論理的根拠が全く伴わない。

 目立つこと自体を目的とするからこそ、通り魔やテロリストは事件の規模を自慢するのであり。目立つことを短絡的に価値だとする短絡的な文科系大衆観念こそが、無差別暴力の大きな一因ともなっているのである。

 マスコミは、やたらと芸能人へのバッシングに執着するが、「有名であること=目立つこと。」という観念が先にあるからこそ、必要以上に個人の私生活を暴露したがるのである。

 「有名であれば叩かれても仕方ない。」ことの論理的根拠は全くない。極めて俗な大衆観念に基づいているからこそ、特定個人を攻撃バッシングして安心満足するだけで、個人のプライバシー侵害を正当化するばかりで、本質的な社会安全性についての考えが全く伴わないのである。

 多数大衆に目立つかどうかに関わらず、個人が自律的に社会的責任を負うことで、社会というのは支えられているのであって、特定のインフラエンジニアだけで社会を支えているわけでも、芸能人のバッシングで社会安全性が確立されるわけでもない。

 自分の観念感覚の全てが常に正しいと思っているとすれば、もはやキチガイとしか形容し難い。自分の言っていることに論理的根拠があるのかどうか、単なる気分感情的安心満足のための観念に過ぎないのか、それを自律的に検証することをしないから「意識が低い。」というのである。

 多数評価だの報酬に関わらず、個人が自分の行動判断責任を自律的に採ることで、社会安全性というのは確立されるのであって。「目立つ」だの「起きたら起きたで。」などと無責任な論拠で「自分だけが社会を支えている。」などという傲慢な観念をぶちまけているからこそ、あらゆる「人災」に対する論理的対策を喪失するのである。

 それらは多数派に属し、「普通」で安心なのであろう。しかしそれは「正常」で安全であることの論証には全くならない。

 ヒトの多くは自分の気分が良くなる観念にすがり、問題の本質を見失って満足する習性がある。こうした無意識な盲目性こそが洗脳暴走を引き起こすことを。ヒトの多くは問題だとすら「思って」いない。



 多数派であることは普通であるとは言えるであろうが、普通であることが正常であることの証明には全くならない。

 アイヒマン実験に多くのヒトが引っ掛かるからといって、無為に多数派や権威の命令に服従することが人間の行動選択として「正しい。」「正常」ということにはならないからだ。

 言い換えれば、「ヒトの多くはバカだから、バカであることが正常だ。」などという支離滅裂な数理など語るに足らない。



○論理検証性について。

 論理的な話を理解してくれない人というのがいるけど、こういう人っていうのは自発的に論理検証をしたことがなくて、論理的な話に「慣れて」いないのが原因なのではないかと思われる。

 試験における論理検証性の成績というものは、成績という「エサ」(・抽象化された報酬)に対する機械的条件反射によって思考しているだけなので。どんなに試験成績が高くても、自律的な論理検証を行うわけではないばかりか、むしろエサ報酬の確約されていない事柄については自発的には何も考えないのである。

 重要なのは自律的であることであって、単なる試験成績が高いだけでは本質的な知能としての論理検証性にはならない。

 与えられた問題の中身だけを論理検証していても、それは「その問題を解けば評価や優越感が得られる。」という快楽欲しさのための環境依存的な条件反射思考に過ぎず。どんなに難解な問題で成績が良くても、自分の行動責任に関わる事柄において常に自律的論理検証判断をすることの証明には全くならない。

 難解なミステリー犯罪小説を解くことが出来たとしても、現実の犯罪の原因について論理的に分析して再発防止策を発見出来るわけではないのと同じことである。

 東電やオウム真理教内部にも高い学力成績の者は多数存在したにも関わらず、誰も自発的には自分達の行動を検証しなかったのも、そのためである。

 すなはち、「特定基準の成績=本質的知能」であるという論理的根拠のない文科系大衆観念こそが、あらゆる組織的洗脳暴走状態の根源に存在していると言える。



 厄介なのは、既に「学力成績=本質的知能」という文科系大衆観念に基づいて学力成績に強迫観念的に執着してきた者というのは、それまで自発的自律的に何も本質的な知能について何も検証してこなかった愚かさを認識することを拒絶する性質があり。何が何でも特定成績さえ高ければ「頭が良い。」ことにしておこうとする点である。

 芸人の宇治原なんとか君が「俺は頭が良いんじゃぁ。」とヒステリックに怒鳴り散らしたことがあるが、これこそが「頭の悪さ」に由来する拒絶反応に他ならない。

 クイズや学力試験の成績がどんなに高くても、誰の言っていることが間違いなのかを自律的に論理検証し、何が正しいのかを判断出来ないことには本質的な知能としての価値は存在しない。

 これは一級建築士免許においても、弁護士免許においても、あらゆる試験免許において言えることでもあり。免許検定というものは自律的な責任判断の証明にも本質的知能の論証にも全くならない。



 「目立つ」かどうかを基準に、「俺が社会を支えているんじゃぁ。」などと言っている時点で、既に自律の欠落を証明しているようなものであり、こういった傲慢極まりない自律のないバカが社会を破綻に陥れていると言えるのである。


○生かされている。

 文科系大衆観念的には、「自分は社会から生かされている。」などと言っておけばウケが良いのであろうが。

 「生存」自体を意義とするのであれば、振り込め詐欺師が仲間から「生かされている。」と述べているのと同義であろう。

 自律的な社会的責任判断を下すためには、場合によっては生存に適さない行動を採らざるを得ない場面というのも存在するのであって。「生存」自体を絶対的価値として扱っている限り、人間としての自律的な社会的責任判断にはつながらない。

 文科系観念者であれば、論理的合理性などパスして大衆の脳を撹乱するような観念を枚挙しておけば安心満足なのであろうが。「生かされている。」ことが絶対的価値だと言っている時点で自律が根本的に欠落していることを証明しているのである。

 ヒトは必ず死ぬ。ヒトの死亡率は100%である。

 単に生きながらえることだけを絶対価値であると言い張るのであれば、権威多数派に迎合して社会の破綻暴走に加担しておくことも正当化可能であろう。それでも「自分は社会に生かされている。」だの「生きるためには。」などと言い張るのであれば、これこそがヒトという種の生物における自律的な社会的責任判断の欠落の最大要因に他ならない。

 多数派に迎合せず、多数派が認定する権威を批判すれば、社会的には不利な立場に陥ることは必定である。

 多数派がバカであれば、バカに迎合しておいた方が社会的には有利なのも必然である。

 自分から自発的に「生きて」いない者でなければ、自律的に不利な立場を選択することも出来ない。従って「社会から生かされている。」などと言っている時点で、主体的自律が欠落していることの証明でもあるのだ。

 それが社会的には無責任でもあることを、多くの文科系大衆は認識していない。




 efuwaraにせよ、養老孟司にせよ、重要なのは彼ら特定個人を非難しバッシングすることではない。彼らのような文科系大衆観念に意識を奪われ自律的な論理検証性を喪失するという性質習性は、あらゆる「ヒト」に存在する危険性であることを認識し、一人一人が自分自身の行動判断責任を持つ意識が必要なのである。

 ヒトは間違える。間違えることを前提として、どうしたら間違いを繰り返さないように出来るのか、その対策を具体的/論理的に立てることであって。特定個人を非難中傷して満足することもまた文科系大衆観念に他ならず、問題の本質を見失う原因ともなるのである。

Ende;
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