人それぞれ得意なことや好きなことって皆違うんだよね。
漁師なんて過酷な仕事が好きな人っていうのもいるし。
客商売が好きっていう人もいる。
おいらなんか一人で黙々と一つのことにのめり込んでいるのが好きなんだけど、人によっては「辛くないの?」的に心配されることも珍しくない。
だから、すき屋のオヤジ的に「俺は24時間働いたぞ」的に自慢されても、それをお金で雇った不特定多数の他人に強要するのはスジ違いで、同じことが続けて出来る人なんてそうそういないから、ほとんどの人は辞めちゃうのは当たり前なんだよ。
大学とか研究所の研究者っていうのは、基本的に研究内容を自分で自由に選ぶことができるようになっていて、だから毎晩終電間際までヘトヘトになるまで研究に没頭していても続けられるし、続けられない時点で研究者としては出来損ないだとも言える。
単に親教師達から気に入られようとして強迫観念的に学力成績に執着した結果として「研究内容を自由に選んで良いよ。」って言われた研究者っていうのは、本当は何をしたいのかなんてわからないから、世間的にウケが良さそうとか評価されそうなことを選んじゃって、本気の研究者から言わせれば「ハーメルンの笛吹に全員くっついて行っちゃうものだ。」って形容されたりする。
現在の脳神経科学者でテレビに出まくっている奴らは、本当は脳科学なんて興味がないから脳血流の増加だとか脳活性といった現象を短絡的に「脳に良い。」だの「頭が良くなる。」なんて無責任に言い出す。「現象」と「実証」の違いがわからない大衆を騙して人気を得て、それで調子に乗っているあいつらには本当に研究に没頭するつもりはない。
業績の捏造なんていうのも、業績という評価だけを目的にしていて、研究内容自体には本当は興味がないから起こすんであって、人間としての純粋さが欠けている結果だと言える。
ノーベル賞受賞者の益川敏英さんなんかは、「嫌いなことはそんなに頑張らなくて良いから、好きなことや得意なことを伸ばした方が良い。」ってNHK教育の高校講座で言っていた。
小柴昌俊さんも「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。」て言ってた。
おいらがこうやって記事を書いても、誰も読まないし当然金にもならないけど、でもおいらはこういうことするのが好きなので。居酒屋で酔っぱらって仲間内で話を丸めて騒いだりするのは性に合わないから、むしろ「何が楽しいねん。」とか思ってしまう。
人はそれぞれみんな違うんだから、自分の努力とか頑張りを他人に強要するのは間違っている。
「努力とか頑張りっていうのはウンコと一緒。」っていうつぶやきを読んだことがあるけど、他人に見せびらかしたり、他人に強要するもんじゃないんだよね。
世間の多数他人からの評価や報酬を基準にするっていうのは、人間としての純粋さが足りていないから社会的責任への配慮が働かなくなる。
こういう人間としての純粋さっていうのは、ロリコンだから純粋じゃないとか、趣味が悪いから純粋じゃないといったことではなくて。ロリコンでもそれをイラストとかフィギュアとか文学といった芸術に昇華させていれば充分に純粋なんであって、先天的欲望本能を自分でコントロール出来ていればどんなに悪趣味でも他人に迷惑はかけないければ良いんだよね。
そこを勘違いして一人で一日中何かに没頭していることをキモいだとか文科系大衆観念的に評価して、仲間内で平均的に多数と同じように振る舞うように強要したりするのも大間違い。
ヒトという種の生物は、その先天的本能習性として集団協調的に役割分担をする「社会性」というのがあって。これはアリやハチ、ハダカデバネズミなどの哺乳類の多くに見ることが出来る行動バイアスに過ぎない。
行動バイアスというのは無意識であって、その場限りに気分的に安心とか満足な行動でしかなくて、麻薬中毒と一緒で「流されて」しまう。
そもそも本能欲望といったものは脳内麻薬によって作り出されるものだから、麻薬中毒なんかの依存症とメカニズムは一緒なんだよね。
文科系の大衆観念に流されて、論理的に物事を「考え」られないから刑法罰なんていう不毛な制度が漫然と温存されているんであって。ヒトという種の生物が持つ先天的危険性というものが一向に科学的に分析されることがないから、同じような犯罪とか過失が繰り返されることになる。
ヒトの感情として、報復さえしておけば満足安心する習性があるけど、こうした行動バイアスこそがパレスチナなんかの暴力の応酬を作り出すんであって。あらゆる人災の全てはヒトから論理性が抜け落ちることで生ずるものなんだよね。
その場限りの感情に流されずに冷静に物事を「考え」るためには、まず自分自身の感情というものがどういうものなのかを知ることが必要で、自分の感情を客観視出来ることが大前提。
文科系大衆観念的には短絡的で安易な感情に基づく行動こそが純粋だと、子供じみた短絡性こそが純粋だと妄想錯覚しているけど。そういった短絡性こそがヒトから論理性を喪失させる。
子供は親の存在がなければ生きられない存在だから、多数他人に迎合し服従することは致し方ないことだけど、それを正当化するなら原発の危険性を放置した東京電力の幹部達も正当化されてしまう。
社会の中で責任を持って事業を行うことによって、初めて企業としての存続価値が出てくるんであって。デフレが悪いだとか、国際競争力のためにだとかを言い訳に無責任に持続可能性も安全性もないことが許されるわけではない。
日本人は特に「お客様は神様」的基準が刷り込み学習されていて、顧客の身勝手は許されるんだけど、従業員の意見は尊重されない「文化」が蔓延している。
ブラック企業みたいのが蔓延するのも、ブラック企業で働く社畜さんたちが存在するからこそであって、本当は社員が企業をもっと選択できるようになっていればブラック企業も自然に淘汰されるはずなんだけどね。
お金を使う自由は凄くあるのに、稼ぐことに自由がないから経済がうまく回らないのは当たり前の話なんですけどね。
現状の社会を漠然と受け入れるのではなくて、何が問題で、どうしたら解決するのかを論理的に考えることを誰もしないから社会が良い方向に向かないんだよね。
世間一般では金儲けの金額だけで人を評価したりするからブラック企業やエセ脳科学が増えたりする。こういう短絡性をなくさないと、どうにもならない。
社会制度だけ民主主義を導入していても、民衆がバカならバカ主義にしかならないんですよ。民衆の一人一人が責任を持って社会安全性や持続可能性を追求していかないと、社会が崩壊破綻に向かうのは必然です。
Ende;
漁師なんて過酷な仕事が好きな人っていうのもいるし。
客商売が好きっていう人もいる。
おいらなんか一人で黙々と一つのことにのめり込んでいるのが好きなんだけど、人によっては「辛くないの?」的に心配されることも珍しくない。
だから、すき屋のオヤジ的に「俺は24時間働いたぞ」的に自慢されても、それをお金で雇った不特定多数の他人に強要するのはスジ違いで、同じことが続けて出来る人なんてそうそういないから、ほとんどの人は辞めちゃうのは当たり前なんだよ。
大学とか研究所の研究者っていうのは、基本的に研究内容を自分で自由に選ぶことができるようになっていて、だから毎晩終電間際までヘトヘトになるまで研究に没頭していても続けられるし、続けられない時点で研究者としては出来損ないだとも言える。
単に親教師達から気に入られようとして強迫観念的に学力成績に執着した結果として「研究内容を自由に選んで良いよ。」って言われた研究者っていうのは、本当は何をしたいのかなんてわからないから、世間的にウケが良さそうとか評価されそうなことを選んじゃって、本気の研究者から言わせれば「ハーメルンの笛吹に全員くっついて行っちゃうものだ。」って形容されたりする。
現在の脳神経科学者でテレビに出まくっている奴らは、本当は脳科学なんて興味がないから脳血流の増加だとか脳活性といった現象を短絡的に「脳に良い。」だの「頭が良くなる。」なんて無責任に言い出す。「現象」と「実証」の違いがわからない大衆を騙して人気を得て、それで調子に乗っているあいつらには本当に研究に没頭するつもりはない。
業績の捏造なんていうのも、業績という評価だけを目的にしていて、研究内容自体には本当は興味がないから起こすんであって、人間としての純粋さが欠けている結果だと言える。
ノーベル賞受賞者の益川敏英さんなんかは、「嫌いなことはそんなに頑張らなくて良いから、好きなことや得意なことを伸ばした方が良い。」ってNHK教育の高校講座で言っていた。
小柴昌俊さんも「これなら一生続けることが出来る、そういうものを見つけなさい。」て言ってた。
おいらがこうやって記事を書いても、誰も読まないし当然金にもならないけど、でもおいらはこういうことするのが好きなので。居酒屋で酔っぱらって仲間内で話を丸めて騒いだりするのは性に合わないから、むしろ「何が楽しいねん。」とか思ってしまう。
人はそれぞれみんな違うんだから、自分の努力とか頑張りを他人に強要するのは間違っている。
「努力とか頑張りっていうのはウンコと一緒。」っていうつぶやきを読んだことがあるけど、他人に見せびらかしたり、他人に強要するもんじゃないんだよね。
世間の多数他人からの評価や報酬を基準にするっていうのは、人間としての純粋さが足りていないから社会的責任への配慮が働かなくなる。
こういう人間としての純粋さっていうのは、ロリコンだから純粋じゃないとか、趣味が悪いから純粋じゃないといったことではなくて。ロリコンでもそれをイラストとかフィギュアとか文学といった芸術に昇華させていれば充分に純粋なんであって、先天的欲望本能を自分でコントロール出来ていればどんなに悪趣味でも他人に迷惑はかけないければ良いんだよね。
そこを勘違いして一人で一日中何かに没頭していることをキモいだとか文科系大衆観念的に評価して、仲間内で平均的に多数と同じように振る舞うように強要したりするのも大間違い。
ヒトという種の生物は、その先天的本能習性として集団協調的に役割分担をする「社会性」というのがあって。これはアリやハチ、ハダカデバネズミなどの哺乳類の多くに見ることが出来る行動バイアスに過ぎない。
行動バイアスというのは無意識であって、その場限りに気分的に安心とか満足な行動でしかなくて、麻薬中毒と一緒で「流されて」しまう。
そもそも本能欲望といったものは脳内麻薬によって作り出されるものだから、麻薬中毒なんかの依存症とメカニズムは一緒なんだよね。
文科系の大衆観念に流されて、論理的に物事を「考え」られないから刑法罰なんていう不毛な制度が漫然と温存されているんであって。ヒトという種の生物が持つ先天的危険性というものが一向に科学的に分析されることがないから、同じような犯罪とか過失が繰り返されることになる。
ヒトの感情として、報復さえしておけば満足安心する習性があるけど、こうした行動バイアスこそがパレスチナなんかの暴力の応酬を作り出すんであって。あらゆる人災の全てはヒトから論理性が抜け落ちることで生ずるものなんだよね。
その場限りの感情に流されずに冷静に物事を「考え」るためには、まず自分自身の感情というものがどういうものなのかを知ることが必要で、自分の感情を客観視出来ることが大前提。
文科系大衆観念的には短絡的で安易な感情に基づく行動こそが純粋だと、子供じみた短絡性こそが純粋だと妄想錯覚しているけど。そういった短絡性こそがヒトから論理性を喪失させる。
子供は親の存在がなければ生きられない存在だから、多数他人に迎合し服従することは致し方ないことだけど、それを正当化するなら原発の危険性を放置した東京電力の幹部達も正当化されてしまう。
社会の中で責任を持って事業を行うことによって、初めて企業としての存続価値が出てくるんであって。デフレが悪いだとか、国際競争力のためにだとかを言い訳に無責任に持続可能性も安全性もないことが許されるわけではない。
日本人は特に「お客様は神様」的基準が刷り込み学習されていて、顧客の身勝手は許されるんだけど、従業員の意見は尊重されない「文化」が蔓延している。
ブラック企業みたいのが蔓延するのも、ブラック企業で働く社畜さんたちが存在するからこそであって、本当は社員が企業をもっと選択できるようになっていればブラック企業も自然に淘汰されるはずなんだけどね。
お金を使う自由は凄くあるのに、稼ぐことに自由がないから経済がうまく回らないのは当たり前の話なんですけどね。
現状の社会を漠然と受け入れるのではなくて、何が問題で、どうしたら解決するのかを論理的に考えることを誰もしないから社会が良い方向に向かないんだよね。
世間一般では金儲けの金額だけで人を評価したりするからブラック企業やエセ脳科学が増えたりする。こういう短絡性をなくさないと、どうにもならない。
社会制度だけ民主主義を導入していても、民衆がバカならバカ主義にしかならないんですよ。民衆の一人一人が責任を持って社会安全性や持続可能性を追求していかないと、社会が崩壊破綻に向かうのは必然です。
Ende;