事象の大きさ
戦争の話になると、突然非民主的な軍隊という組織に従属することを強要する徴兵の話にすり替えられてしまうのだけれど。これは選択肢があまりに狭窄過ぎていて、民間が武装して戦力として活動するという選択肢があっても良いはずである。太平洋戦争時に軍隊組織というものがどれだけ国民に損害を与えたのかを考えれば、むしろ有事には信頼出来る個人を武装させるという選択肢があって然りであろう。
そもそも、戦争という国家間の話になってしまうと急に武力衝突という有事の話ばっかりになってしまうのだけれど。これを個人の犯罪に置き換えて考えて見ると、無差別殺人犯が現れても警察が武装してはいけないなんて話にはならないのだが。しかし、警察が武力によって犯罪者を確保制圧するというのは、本来対処療法であって、根源的問題解決には全くなっていない。犯罪そのものの科学的分析によって、原因を究明し再発防止策を立てなければ、本当の意味での効果ある対策とは言えないのだけれど。現在の司法制度自体が科料の程度を決定するだけであって、こうした短絡的な懲罰による感情論によって、本当の意味での犯罪対策が行われなくなっているのである。
武力による抑止というのは、あくまで対処でしかなく。武力衝突という非合理な手段に出るような国家が存在すること自体が最も根源的原因であって。これは国家というものを構成している「ヒト」という種の生物に由来する危険性である。
「ヒトという種の生物は危険だ、だから武力を用いて抑圧しなければならない。」というのは、明らかに短絡的で、言っている当人に人間としての自律が欠けている証明でもある。そもそも抑圧する方もまた「ヒト」なのであって、「ヒト」が「ヒト」を抑圧しておけばどうにかなるというものではない。
犯罪にせよ戦争にせよ、最も根源的原因というのは、ヒトという種の生物の危険性を自分自身の危険性であると認識せずに、「自分だけは絶対に大丈夫」などという根拠のない身勝手な思い込みに基づいているからこそ犯罪を引き起こすのであり、それに対して多数派もまた不毛な司法制度を温存して満足するだけというバカげたことを繰り返しているからこそ、いつまでも不毛な議論が繰り返されるだけなのである。
スタンダード、つまり法手続きや社会制度といったものに完全なものはない。プリンター銃にせよ、危険ドラッグにせよ、これらを包括的に規制するとなれば、あらゆることを規制対象として扱わなければならなくなる。法手続きというのは立法の主旨に基づいて運用されなければ拡大解釈にしかならず、常に法の運用というのも管理が必要なものであって。単に「飲食店の中で客が踊っていた。」からといって短絡的に有罪とするのは警察権力の暴走でしかない。
危険ドラッグやプリンター銃といった事例にもあるように、最終的に必要なのは個人の自律である。これは政府の原発事故調査委員会において畑村洋太郎も述べていたことである。
スタンダードという外形だけどんなに取り繕っても、その中身となる自律的な人間がいないことには何の意味もないのである。
あらゆる「人災」の全てはイレギュラーである。スタンダードの問題ではない。
原発事故においても、津波による危険性は充分認知していたにも関わらず、これを放置したのは法的スタンダードの問題ではなく、個々の事象における対処を行うべき個人の自律がなかったことが最も根源的で、最も重大な原因である。
犯罪者当人が自暴自棄な破壊衝動を抑えられないのであれば、法律スタンダードなどクソの役にも立たないのは明白である。死んでもおかしくない危険な薬物中毒に手を出すのも、いつ暴発するかもわからぬプラッチック銃を欲しがるのも、そこに自律的な社会的責任判断選択をするという人間が存在していないからである。
戦争であろうとイジメ暴力であろうと、その根源はヒトという種の危険性であり。事象の大きさだけで別物として扱うのは間違いである。ハインリッヒの法則などというものをいちいち明言しなければならないのは、ヒトという種の生物は事象の大きさだけで分類しようとする習性があるからであって。最初から事象の大きさだけで分類したりしなければハインリッヒの法則などと特別扱いする必要性すらないからだ。
プラスチックの銃なんぞ、別にネット上にSTLデータがなくとも構造さえ知っていれば作ることは可能である。よくよく考えればABSの板材を削ってでも作れるものであって、3Dプリンターだけが特別に危険なわけでも何でもない。
不毛な規制に執着しても、根源的原因がなくならない限り犯罪は増えることはあっても減ることはない。
Ende;
戦争の話になると、突然非民主的な軍隊という組織に従属することを強要する徴兵の話にすり替えられてしまうのだけれど。これは選択肢があまりに狭窄過ぎていて、民間が武装して戦力として活動するという選択肢があっても良いはずである。太平洋戦争時に軍隊組織というものがどれだけ国民に損害を与えたのかを考えれば、むしろ有事には信頼出来る個人を武装させるという選択肢があって然りであろう。
そもそも、戦争という国家間の話になってしまうと急に武力衝突という有事の話ばっかりになってしまうのだけれど。これを個人の犯罪に置き換えて考えて見ると、無差別殺人犯が現れても警察が武装してはいけないなんて話にはならないのだが。しかし、警察が武力によって犯罪者を確保制圧するというのは、本来対処療法であって、根源的問題解決には全くなっていない。犯罪そのものの科学的分析によって、原因を究明し再発防止策を立てなければ、本当の意味での効果ある対策とは言えないのだけれど。現在の司法制度自体が科料の程度を決定するだけであって、こうした短絡的な懲罰による感情論によって、本当の意味での犯罪対策が行われなくなっているのである。
武力による抑止というのは、あくまで対処でしかなく。武力衝突という非合理な手段に出るような国家が存在すること自体が最も根源的原因であって。これは国家というものを構成している「ヒト」という種の生物に由来する危険性である。
「ヒトという種の生物は危険だ、だから武力を用いて抑圧しなければならない。」というのは、明らかに短絡的で、言っている当人に人間としての自律が欠けている証明でもある。そもそも抑圧する方もまた「ヒト」なのであって、「ヒト」が「ヒト」を抑圧しておけばどうにかなるというものではない。
犯罪にせよ戦争にせよ、最も根源的原因というのは、ヒトという種の生物の危険性を自分自身の危険性であると認識せずに、「自分だけは絶対に大丈夫」などという根拠のない身勝手な思い込みに基づいているからこそ犯罪を引き起こすのであり、それに対して多数派もまた不毛な司法制度を温存して満足するだけというバカげたことを繰り返しているからこそ、いつまでも不毛な議論が繰り返されるだけなのである。
スタンダード、つまり法手続きや社会制度といったものに完全なものはない。プリンター銃にせよ、危険ドラッグにせよ、これらを包括的に規制するとなれば、あらゆることを規制対象として扱わなければならなくなる。法手続きというのは立法の主旨に基づいて運用されなければ拡大解釈にしかならず、常に法の運用というのも管理が必要なものであって。単に「飲食店の中で客が踊っていた。」からといって短絡的に有罪とするのは警察権力の暴走でしかない。
危険ドラッグやプリンター銃といった事例にもあるように、最終的に必要なのは個人の自律である。これは政府の原発事故調査委員会において畑村洋太郎も述べていたことである。
スタンダードという外形だけどんなに取り繕っても、その中身となる自律的な人間がいないことには何の意味もないのである。
あらゆる「人災」の全てはイレギュラーである。スタンダードの問題ではない。
原発事故においても、津波による危険性は充分認知していたにも関わらず、これを放置したのは法的スタンダードの問題ではなく、個々の事象における対処を行うべき個人の自律がなかったことが最も根源的で、最も重大な原因である。
犯罪者当人が自暴自棄な破壊衝動を抑えられないのであれば、法律スタンダードなどクソの役にも立たないのは明白である。死んでもおかしくない危険な薬物中毒に手を出すのも、いつ暴発するかもわからぬプラッチック銃を欲しがるのも、そこに自律的な社会的責任判断選択をするという人間が存在していないからである。
戦争であろうとイジメ暴力であろうと、その根源はヒトという種の危険性であり。事象の大きさだけで別物として扱うのは間違いである。ハインリッヒの法則などというものをいちいち明言しなければならないのは、ヒトという種の生物は事象の大きさだけで分類しようとする習性があるからであって。最初から事象の大きさだけで分類したりしなければハインリッヒの法則などと特別扱いする必要性すらないからだ。
プラスチックの銃なんぞ、別にネット上にSTLデータがなくとも構造さえ知っていれば作ることは可能である。よくよく考えればABSの板材を削ってでも作れるものであって、3Dプリンターだけが特別に危険なわけでも何でもない。
不毛な規制に執着しても、根源的原因がなくならない限り犯罪は増えることはあっても減ることはない。
Ende;