イヌをしつける場合には、イヌが勝手な行動を採ろうとした瞬間に強制的に首輪を引くという結構暴力的な訓練を行う必要性がある
これを怠った場合には イヌは無駄吠えをしたり飼い主に噛み付いたりするようになる
ところが、結構暴力的な訓練をすることによって、イヌは従順に服従し、統率的協調性も発揮するようになる
これが所謂(いわゆる)先天的に組み込まれた社会形成習性というものである
イヌにも見られるこうした服従性というものは、ヒトにおいては暴走族や振り込め詐欺、ISILなどのテロリスト集団などにおいても発揮されることがある
あちきが学生時代に 同級生にクソDQN野郎がいて、おいらは大抵の場合無視しとったのだが。何をキッカケにしたのか知らんが、ある日やたらと絡んできやがったので、ぶちギレて怒鳴り散らしたら翌日からヘラヘラ笑いながら「おはようございます。」などとうれしそうに挨拶をするようになったのである
ぶちギレるような「怖い」相手のことを、自分よりも順位序列が「上」であると見なすことによって、平気で卑屈な態度を採ることができるようになる
これもまた、ヒトに見られる先天的な社会形成習性が促す行動パターンなのである
誰を順位序列が「上」だと見なすかは個人差があるのだが、その基準が単なる「怖い」とか「カッコイイ」かどうかといった短絡的で幼稚な場合に暴走族だの暴力団に服従するようになる
古代や中世では、ヒトという種の生物は暴力者に服従することで戦乱の世に陥っていたわけだが。暴力というものでは社会安全性や持続可能性が確立することが出来ないという論理性が働くことによって、暴力的統率とは異なる別の統率協調性を求めることで、ヒトは民主的社会体制を確立できるようになったわけだが
先天的習性として、ヒトは絶対的に順位序列が「上」である何者かを盲目的に信奉しておくことで、気分的に安心することができるようにもなる
それがまあ、宗教における神仏の類なのだが。
ヒトが宗教にのめり込む原因は、先天的な社会形成習性としての絶対的な服従対象として神仏を崇め奉ることで、気分的安心満足を得ようとする習性の結果である
と、まあ、こんな「ミもフタもないこと。」を述べてしまうと、短絡的に「宗教なんて無くしてしまえば良い。」といった別の宗教にのめり込もうとするバカがいるのでビックリしてしまうのだが
宗教によって気分的に安定できるのであれば、薬の一種だと考えることもできる
しかし、薬というものは多過ぎれば毒にもなる
そもそも毒物を適量投与することによって「薬」として作用するのであって。医薬品のほとんど全ては用法用量を間違えれば毒でしかない
宗教というものにおいて、その社会的効用とは。本来暴力的集団には服従せず、自律的に自らの行動規範とする対象として神仏を持つことにある
ところが、その本来の社会的効用を逸脱し、先天的な行動習性が促す気分的安心満足だけを追求することによって、宗教の名を借りたテロリズムへと変貌してしまうのである
暴力依存というのは、ヒトに限らず生物全般に見られる習性であり。それによって自然界の中では「生存」に適することで「進化(変異)」を遂げてきた
故に野生生物というのは基本的に狂暴なのである
それはヒトにおいても同じことで、現代社会の中で育ったからといって数万年以上にわたって磨かれてきた狂暴性はなくなるわけではない
もし、進化生物学的にヒトから暴力性がなくなるためには、暴力的な個体に対する強力な淘汰圧力が必要になるのだが。これもまた一種の優生学的妄想としか言いようがない
ヒトという種の生物には、進化的に組み込まれた先天的行動習性とは別の論理的思考による行動選択可能性が存在しており
これによってヒトは社会的責任判断という倫理性や人間性を発揮することも可能なのである
可能ではあるが簡単ではない
そこが問題なのである
何せ先天的には組み込まれていない行動を採らなくてはならない場合もあるわけで、さらには先天的な社会形成習性によって統率的協調性を発揮して「組織の利益を追求」している集団に対しては自分の利益に損なう選択をしなければならない場合も少なくはない
イジメに対して反対すれば、イジメの対象にされてしまうことなども一例である
東京電力福島第一原発において、津波に対する危険性を述べることは「組織の利益」にそぐわないために。それを主張した社員は退職して四国で農業を営んでいたりする
これは、福島第一原発において、むしろ津波に対する危険性を主張することのない「イエスマン」だけへと「淘汰」が生じる原因でもあった
こうした悪循環というものは、生物進化的には対処不可能なものであり。進化的に組み込まれた行動習性に抗うのは理性以外にない
大衆観念的には「優しい気持ち」にさえなれば全てが解決するかのような妄想を抱くのであろうが、こんなもの合理的根拠のない「お花畑」も甚だしい。
何も考えていない短絡的なバカであれば、「先天的な習性には抗えない。」などということを平気で言えるようだが。もはや語るにも足らないバカの主張には反論する気も失せる
理性が一切働かない奴なら、現代社会においてマトモに生活すら出来ないはずである
それとも何だろう、理性すらも先天的習性に由来するものであるとでも思っているのであろうか
「進化的にヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれていて、常に人間性が発揮されるようになっているはずだ。」とでも錯覚しているのであろうか
そして、人間性が発揮されないのは「環境が悪いからに過ぎないからだ。」とでも言うのであろうか
人間性というものの本質は、「自律的に社会的責任判断を行うことができる。」ことであり。環境依存に過ぎない生物進化的な行動習性の全てはこれにそぐわない
なぜなら進化生物学的に説明される行動習性の全ては特定環境下における「結果」でしかないからだ
すなはち、京都大学霊長類研究所が主張している「先天的行動習性によって知能や人間性を立証出来るかも知れない。」などという話は、単なる大衆迎合的大嘘でしかなく。科学的根拠の全くない大衆マスコミの気分的安心満足を促すだけの「お花畑」に過ぎないのである
先天的な社会形成習性というものは、必ずしも人間性に基づいた行動だけで発揮されるわけではなく。暴力破壊的だったり利己的で無責任な集団組織においても発揮される行動バイアスに過ぎず。先天的な習性によって人間性を伴った知能を立証することは構造原理的に最初から不可能なのである
「京都大学」という肩書や権威に基づいて、理論的に立証不可能な話をも鵜呑みにしてしまうという大衆マスコミの頭の悪さも、権威服従性という社会形成習性の一つに因るものである
何せ京都大学に限らず生物学者のほとんど全員は、「進化の全てが常に正しい結果しか及ぼさない。」と思っている以上、生物学者の誰に確認を取っても「裏をとった」ことにはならないのである
権威と見なした相手の命令に対し、それが暴力的であっても服従してしまいがちであることは通称「アイヒマン実験」において立証済みである
それとも何だろう、先天的な欠陥は「なかったこと」にしておかないと不安なので、意識から外して安心満足しておこうとでも思っているのであろうか
これは完全に「バカの発想」である
危険学/失敗学では、刑法懲罰を停止して理論的原因究明を優先するという手法が採られるのは。刑法懲罰というものが理論的原因究明や、それに伴う再発防止策にとって有害でしかないからである
ヒトという種の生物は、刑法などの懲罰こそが正義であるという錯覚をする先天的習性があるため。むしろ危険学や失敗学のような理論的再発防止策を無視して厳罰化ばかりを唯一絶対の解決策であると勘違いしている
これは「感情が理性を阻害している。」状態であり。こうした状態を異常だと認識していないからこそ、振り込め詐欺師にそそのかされて「焦る」とか「慌てる」といった感情によって論理思考が簡単に停止してしまうのである
時折、到底信じられないようなデイビッド:フィンチャーの映画のような残虐な犯罪が発生することがある
それに対して「こんな奴は死刑にしてしまえ!」と怒鳴り散らしておけば満足するのが大多数の大衆観念である
だが、残虐な犯罪が起きる度に怒鳴り散らしても、それは残虐な犯罪の原因究明にも再発防止策にもつながらないため、一向に具体性のある再発防止策は確立されないのである
ましてや自暴自棄な通り魔やテロリストに対して厳罰を与えても、それこそテロ準備で服役させても、テロというものへの再発防止には全くならないのは明らかである
「罰を与えれば、解決だ。」という短絡的発想や、それに基づいた司法制度そのものが、そもそもヒトの暴力性に起因する不毛なものであることを認識していないからこそ。テロという「暴力で解決する。」という行為の要因となっているのである
犯罪者などに罰を与えると、気分的にスッキリする。
その気分的スッキリ感によって、あたかも全てが解決したかのような錯覚に陥り。被害者や遺族に時折出てくる「再発防止を優先してください。」という意見は、なかったことにされてしまうのである
その場限りの気分的スッキリ感によって、被害者や遺族の意見を丸ごと無視するというのは、極めて無神経でその場限りな対応なのだが。それ以上の社会制度自体が現状存在していないために、司法判決以上の何も追求されることはない
司法というのは「徹底的な事実解明」などと言っても、所詮は「身勝手」だとか「短絡的」、「衝動的」、「計画的」などと形容して罰を与えるだけであって。「なぜ自律的な社会的責任判断が出来ないようになってしまっているのか。」といった人格形成過程にまで言及し、犯罪予備軍に対する対策は一切行われない
そもそも短絡性と衝動性は計画性と相反するものであり、どっちでも良い話なのであり。司法が行うのは「罰への恐怖心を用いて抑止する。」だけであって、テロ特措法のように「犯罪をするかもしれないから、予め罰を与えておく。」といった、「罰で全てを解決する。」という根本的間違いには全く言及するつもりはない
金田元法相のようなバカ大臣に、こうした根源的間違いに気付くだけの知性もないので、司法役人達の作った法案を通すこと以上には何の自発的「考え」も最初からないのである
一応制度としては民主主義制度を導入している日本においては、市民がバカのままなら「バカ主義」が続くだけである
それによって回避可能性があったはずの事象に巻き込まれてから後悔しても
おいらの責任ではない
ただ、同じ社会に生活している以上、回避可能性があったはずの事象においらが巻き込まれても迷惑なので、一応しつこく何度でも述べるけどね
それ以上のことはそもそも何も出来ないのでやらないよ
Ende;
これを怠った場合には イヌは無駄吠えをしたり飼い主に噛み付いたりするようになる
ところが、結構暴力的な訓練をすることによって、イヌは従順に服従し、統率的協調性も発揮するようになる
これが所謂(いわゆる)先天的に組み込まれた社会形成習性というものである
イヌにも見られるこうした服従性というものは、ヒトにおいては暴走族や振り込め詐欺、ISILなどのテロリスト集団などにおいても発揮されることがある
あちきが学生時代に 同級生にクソDQN野郎がいて、おいらは大抵の場合無視しとったのだが。何をキッカケにしたのか知らんが、ある日やたらと絡んできやがったので、ぶちギレて怒鳴り散らしたら翌日からヘラヘラ笑いながら「おはようございます。」などとうれしそうに挨拶をするようになったのである
ぶちギレるような「怖い」相手のことを、自分よりも順位序列が「上」であると見なすことによって、平気で卑屈な態度を採ることができるようになる
これもまた、ヒトに見られる先天的な社会形成習性が促す行動パターンなのである
誰を順位序列が「上」だと見なすかは個人差があるのだが、その基準が単なる「怖い」とか「カッコイイ」かどうかといった短絡的で幼稚な場合に暴走族だの暴力団に服従するようになる
古代や中世では、ヒトという種の生物は暴力者に服従することで戦乱の世に陥っていたわけだが。暴力というものでは社会安全性や持続可能性が確立することが出来ないという論理性が働くことによって、暴力的統率とは異なる別の統率協調性を求めることで、ヒトは民主的社会体制を確立できるようになったわけだが
先天的習性として、ヒトは絶対的に順位序列が「上」である何者かを盲目的に信奉しておくことで、気分的に安心することができるようにもなる
それがまあ、宗教における神仏の類なのだが。
ヒトが宗教にのめり込む原因は、先天的な社会形成習性としての絶対的な服従対象として神仏を崇め奉ることで、気分的安心満足を得ようとする習性の結果である
と、まあ、こんな「ミもフタもないこと。」を述べてしまうと、短絡的に「宗教なんて無くしてしまえば良い。」といった別の宗教にのめり込もうとするバカがいるのでビックリしてしまうのだが
宗教によって気分的に安定できるのであれば、薬の一種だと考えることもできる
しかし、薬というものは多過ぎれば毒にもなる
そもそも毒物を適量投与することによって「薬」として作用するのであって。医薬品のほとんど全ては用法用量を間違えれば毒でしかない
宗教というものにおいて、その社会的効用とは。本来暴力的集団には服従せず、自律的に自らの行動規範とする対象として神仏を持つことにある
ところが、その本来の社会的効用を逸脱し、先天的な行動習性が促す気分的安心満足だけを追求することによって、宗教の名を借りたテロリズムへと変貌してしまうのである
暴力依存というのは、ヒトに限らず生物全般に見られる習性であり。それによって自然界の中では「生存」に適することで「進化(変異)」を遂げてきた
故に野生生物というのは基本的に狂暴なのである
それはヒトにおいても同じことで、現代社会の中で育ったからといって数万年以上にわたって磨かれてきた狂暴性はなくなるわけではない
もし、進化生物学的にヒトから暴力性がなくなるためには、暴力的な個体に対する強力な淘汰圧力が必要になるのだが。これもまた一種の優生学的妄想としか言いようがない
ヒトという種の生物には、進化的に組み込まれた先天的行動習性とは別の論理的思考による行動選択可能性が存在しており
これによってヒトは社会的責任判断という倫理性や人間性を発揮することも可能なのである
可能ではあるが簡単ではない
そこが問題なのである
何せ先天的には組み込まれていない行動を採らなくてはならない場合もあるわけで、さらには先天的な社会形成習性によって統率的協調性を発揮して「組織の利益を追求」している集団に対しては自分の利益に損なう選択をしなければならない場合も少なくはない
イジメに対して反対すれば、イジメの対象にされてしまうことなども一例である
東京電力福島第一原発において、津波に対する危険性を述べることは「組織の利益」にそぐわないために。それを主張した社員は退職して四国で農業を営んでいたりする
これは、福島第一原発において、むしろ津波に対する危険性を主張することのない「イエスマン」だけへと「淘汰」が生じる原因でもあった
こうした悪循環というものは、生物進化的には対処不可能なものであり。進化的に組み込まれた行動習性に抗うのは理性以外にない
大衆観念的には「優しい気持ち」にさえなれば全てが解決するかのような妄想を抱くのであろうが、こんなもの合理的根拠のない「お花畑」も甚だしい。
何も考えていない短絡的なバカであれば、「先天的な習性には抗えない。」などということを平気で言えるようだが。もはや語るにも足らないバカの主張には反論する気も失せる
理性が一切働かない奴なら、現代社会においてマトモに生活すら出来ないはずである
それとも何だろう、理性すらも先天的習性に由来するものであるとでも思っているのであろうか
「進化的にヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれていて、常に人間性が発揮されるようになっているはずだ。」とでも錯覚しているのであろうか
そして、人間性が発揮されないのは「環境が悪いからに過ぎないからだ。」とでも言うのであろうか
人間性というものの本質は、「自律的に社会的責任判断を行うことができる。」ことであり。環境依存に過ぎない生物進化的な行動習性の全てはこれにそぐわない
なぜなら進化生物学的に説明される行動習性の全ては特定環境下における「結果」でしかないからだ
すなはち、京都大学霊長類研究所が主張している「先天的行動習性によって知能や人間性を立証出来るかも知れない。」などという話は、単なる大衆迎合的大嘘でしかなく。科学的根拠の全くない大衆マスコミの気分的安心満足を促すだけの「お花畑」に過ぎないのである
先天的な社会形成習性というものは、必ずしも人間性に基づいた行動だけで発揮されるわけではなく。暴力破壊的だったり利己的で無責任な集団組織においても発揮される行動バイアスに過ぎず。先天的な習性によって人間性を伴った知能を立証することは構造原理的に最初から不可能なのである
「京都大学」という肩書や権威に基づいて、理論的に立証不可能な話をも鵜呑みにしてしまうという大衆マスコミの頭の悪さも、権威服従性という社会形成習性の一つに因るものである
何せ京都大学に限らず生物学者のほとんど全員は、「進化の全てが常に正しい結果しか及ぼさない。」と思っている以上、生物学者の誰に確認を取っても「裏をとった」ことにはならないのである
権威と見なした相手の命令に対し、それが暴力的であっても服従してしまいがちであることは通称「アイヒマン実験」において立証済みである
それとも何だろう、先天的な欠陥は「なかったこと」にしておかないと不安なので、意識から外して安心満足しておこうとでも思っているのであろうか
これは完全に「バカの発想」である
危険学/失敗学では、刑法懲罰を停止して理論的原因究明を優先するという手法が採られるのは。刑法懲罰というものが理論的原因究明や、それに伴う再発防止策にとって有害でしかないからである
ヒトという種の生物は、刑法などの懲罰こそが正義であるという錯覚をする先天的習性があるため。むしろ危険学や失敗学のような理論的再発防止策を無視して厳罰化ばかりを唯一絶対の解決策であると勘違いしている
これは「感情が理性を阻害している。」状態であり。こうした状態を異常だと認識していないからこそ、振り込め詐欺師にそそのかされて「焦る」とか「慌てる」といった感情によって論理思考が簡単に停止してしまうのである
時折、到底信じられないようなデイビッド:フィンチャーの映画のような残虐な犯罪が発生することがある
それに対して「こんな奴は死刑にしてしまえ!」と怒鳴り散らしておけば満足するのが大多数の大衆観念である
だが、残虐な犯罪が起きる度に怒鳴り散らしても、それは残虐な犯罪の原因究明にも再発防止策にもつながらないため、一向に具体性のある再発防止策は確立されないのである
ましてや自暴自棄な通り魔やテロリストに対して厳罰を与えても、それこそテロ準備で服役させても、テロというものへの再発防止には全くならないのは明らかである
「罰を与えれば、解決だ。」という短絡的発想や、それに基づいた司法制度そのものが、そもそもヒトの暴力性に起因する不毛なものであることを認識していないからこそ。テロという「暴力で解決する。」という行為の要因となっているのである
犯罪者などに罰を与えると、気分的にスッキリする。
その気分的スッキリ感によって、あたかも全てが解決したかのような錯覚に陥り。被害者や遺族に時折出てくる「再発防止を優先してください。」という意見は、なかったことにされてしまうのである
その場限りの気分的スッキリ感によって、被害者や遺族の意見を丸ごと無視するというのは、極めて無神経でその場限りな対応なのだが。それ以上の社会制度自体が現状存在していないために、司法判決以上の何も追求されることはない
司法というのは「徹底的な事実解明」などと言っても、所詮は「身勝手」だとか「短絡的」、「衝動的」、「計画的」などと形容して罰を与えるだけであって。「なぜ自律的な社会的責任判断が出来ないようになってしまっているのか。」といった人格形成過程にまで言及し、犯罪予備軍に対する対策は一切行われない
そもそも短絡性と衝動性は計画性と相反するものであり、どっちでも良い話なのであり。司法が行うのは「罰への恐怖心を用いて抑止する。」だけであって、テロ特措法のように「犯罪をするかもしれないから、予め罰を与えておく。」といった、「罰で全てを解決する。」という根本的間違いには全く言及するつもりはない
金田元法相のようなバカ大臣に、こうした根源的間違いに気付くだけの知性もないので、司法役人達の作った法案を通すこと以上には何の自発的「考え」も最初からないのである
一応制度としては民主主義制度を導入している日本においては、市民がバカのままなら「バカ主義」が続くだけである
それによって回避可能性があったはずの事象に巻き込まれてから後悔しても
おいらの責任ではない
ただ、同じ社会に生活している以上、回避可能性があったはずの事象においらが巻き込まれても迷惑なので、一応しつこく何度でも述べるけどね
それ以上のことはそもそも何も出来ないのでやらないよ
Ende;