○キリンの首はなぜ長い?
「キリンは他の動物が食べることの出来ない高い木の葉を食べようと努力を続けた結果、徐々に首が長く進化した。」というのは風説で、個体の如何なる努力も遺伝子変異とは無関係なので、努力しても首は長くならない。
おそらく、キリンの祖先は他の動物よか多少首が長くて。その中でも特に首の長い個体の方が生存に適していたために、首の短い遺伝子を持ったキリンが全て絶滅した結果、首の長いキリンだけに淘汰された。
もしかすると、キリンのメスは首の長いオスの個体を好むような配偶者選択をする習性が働いたとも考えられるので、必ずしも首の長さが環境適応であるとも限らないし。オス同士はあの長い首で喧嘩することもあるので、長さが武器になっている可能性もある。
淘汰の過程でどのような力学が働いたのかは、もはや明確な証拠は遺っていないのだけれど、確実に言えることとしては、「個体の努力は進化には影響しない。」ということ。
従来、生物学においては、「生物の目的は、生存である。」と信じ込まれてきたが。これは理論的にも科学的にも間違いで、「結果的に死なずに生存しているものを生物と分類している。」だけであって、生物に目的なんぞ存在していないわけです。
首の短い遺伝子を持ったキリンの祖先が、どんなに努力して頑張ろうとも、たとえ生存や種の保存などの目的を持って行動選択しようとも、先天的に首が短かいので淘汰の対象になってしまった。
そもそも「生存」だの「種の保存」というのは、生物の「結果」であって。それは個体の目的行動選択ですらないわけです。
例えを変えます
昆虫などに見られる擬態に対して、文科系大衆の多くは「賢い」などという科学的には意味のわからない形容詞を用いることが多いのですが。個体の賢さと先天的遺伝形態には相関はなくて、たまたま枯れ葉などに似ていた個体が天敵から見つかりづらかった結果として、より枯れ葉などに似た遺伝形態を持った個体種だけに淘汰圧力が働いた結果が擬態なのです。
個体当人(虫ですけど)が、どんなに「天敵に見つかりたくない。」と願っても、祈っても、呪っても、先天的に天敵に見つかり易い遺伝子を持っていれば喰われちゃうわけで。当人(虫だけどね)の努力とか賢さなんてのは生き残りには何の意味も持たないわけです。
ヒトの多くは、「死にたくない。」と思っているでしょう。たとえ自殺願望があろうとも、身の上の不幸が取り除かれるんだったら特に死にたいとは思わないでしょうし。
ヒトの目的は生きることでしょうか?。
先天的な行動習性として「死にたくない。」と思うこと自体が、大脳辺縁系に組み込まれた行動バイアスでしかない以上、これは「人間としての目的。」の論証にはならないのです。
若干話が難解風味になりましたかね。
だって、どうせ皆そのうち死ぬんですよ。ヒトの死亡率は100%なんすから。こういう話をするとニヒリズム(虚無)に陥るヒトが多いんですけど。その感情自体もまた先天的な思考バイアスが促す錯覚妄想でしかなくて、短絡的に思考を停止させて満足しているだけの逃避でしかありません。
どうせ死ぬのに生き続ける必要性って何でしょう。
先天的行動バイアスというのも、「キリンの首の長さ」と同様、祖先の努力とか目的行動選択とは無関係なものであって。「死ななければ、どのような行動習性であろうとも構わない。」わけです。
より嘘がうまい個体とか、暴力的個体の方が生存に適していた可能性は充分あります。御先祖様が一体どのような行動を採ることによって死なずに済んだのかなんて、もはや誰にも知る由のない話であり。大嘘つきとか糞DQNの子孫だった可能性も充分あるわけで。現代のように科学捜査や監視カメラのない時代には今よりもっと顕在化しない犯罪が多かったことを考えると、結果的に生存していただけのヒトという種の生物に先天的人間性が組み込まれる進化過程の力学など存在しているとは到底言えないわけです。
そもそも現代文明が構築される以前の自然界においては、暴力性というのは生存という結果を導くためには必須だったと言えるでしょう。
結果的に遺されたヒトの暴力性が「目的」だとは言えませんよね、それは単なる「結果」でしかありませんから。
先天的に遺され、脳に組み込まれた行動バイアスというのは全て「結果」ですから、あらゆる先天的行動習性というものは、それだけで「目的」の論証には全くなりません。
ヒトという種の生物の本能習性は、結果以上に意味がないわけです。
そこで問題となるのが、「人間としての目的。」なんですね。
「人間性の本質。」とは何でしょう。
「倫理。」と言い換えても構わないでしょう。
国会原発事故調査委員会の報告書において、委員長の畑村洋太郎は事故の最も根源的原因として、「個人が自律的に社会的責任を負わなかったこと。」を挙げています。
これは、あらゆる「人災」において共通する原因であり。原発事故だけが特別に必要なものというわけではありません。
事故以外の犯罪や紛争においても、「人災」である以上根源的原因は個人の自律の欠如が根源的原因です。他のあらゆる要因があったとしても、最も根源的原因は個人の自律であり、人間性の欠落によってあらゆる「人災」は引き起こされることに違いはありません。
例えば、貧困がテロや通り魔の要因になるとしても、貧困者の全てがテロリストや通り魔になるわけでもなく。また、生活に困窮しているわけでもなければ、むしろお金には全く困っていないにも関わらず銃乱射事件を起こすケースがある以上、貧困格差は根源的原因ではなく、あくまで傾向性としての外的要因を述べているに過ぎないのです。
あらゆる「人災」の根源的原因というのは、結局は個人の判断に起因するものであり、たとえ国家単位の事象であっても、為政者やその支持者達の過った判断が原因であり。地勢学などの外見的分析というのは、「貧困国程紛争が多い。」などの傾向性は述べることは出来ても、それは根源的原因の分析にはならないのです。
ヒトは、事象の大きさによって根源的原因が異なるものだと錯覚しがちな傾向がありますが。原発事故であれ、学生による殺人であれ、国家単位の紛争であろうとも、根源的にはヒト個人の判断の誤りが原因であることに違いはありません。
国家などの大きな組織集団単位での事象であろうとも、その中心人物や集団の誤りを傍観放置する大多数の無責任なヒトの行動が助長しているに過ぎず。結局は個人の自律的な社会的責任判断の欠落が招くものであることに違いなどなく。こうしたメカニズムは子供のイジメと基本的には違いがありません。
○社会形成習性について
生物学では、長い間、動物が統率的な役割分担を行う先天的な習性を「社会性」と呼んで、これを短絡的に人間としての社会性と混同してきました。
これだけでも生物学者達の無能や無責任さの証明でもあるのですが、それでもなを京都大学霊長類研究所の松沢哲郎はチンパンジーの研究から「先天的な習性によって、人間としての社会性を立証出来るかもしれない。」などという、理論的に不可能な予測を立て、これを根拠に文化功労賞まで獲得し。更にはマスコミの誰も生物学界のこうした腐敗を指摘できないという、ほとんど集団痴呆(洗脳)とも言える状態に疑問すら持ちません。
まあ、この話は理論的本質とは直接関係がないので詳細は別の記事を読んでもらうとして、本題に戻りましょう。
生物学における「社会性」とは、統率的協調行動や、役割分担のことを指しています。しかし、こうした行動というのは先天的な習性として行うだけなので、そこに人間性や倫理に基づいた行動選択が介在する保証は全くなく。むしろテロリストやゲリラ、暴力団などといった人間性を大きく欠いた集団においても発揮されるものでもあり。こうした先天的な行動習性という「結果」が、短絡的に人間性であることの証明になど一切なりません。
暴力団の鉄砲玉が、命懸けで集団組織の利益の為に自爆的攻撃をしても、そんなものが人間性の証明になどならないのは当然でしょう。
東京電力福島第一原発の運営において、「組織の利益を優先した。」ことこそが、むしろ「個人の自律的な社会的責任」の放棄の最も大きな原因となったことからも。自分が属する集団組織にとって利益になる先天的行動習性が人間性の論証になるわけではないのです。
こうした社会的無責任というのは、西武グループや東芝やオリンパス、三菱自動車などにおける粉飾決算やデータ改ざんなどにおける原因でもあり。自分達が属する集団組織の利益しか考慮に入れない献身性こそが、社会的責任を放棄する要因となっているのです。
振り込め詐欺師が、仲間内で食事を奢れば断片的には「利他的行動」にはなりますが、これを根拠に短絡的に人間性の論証にするのは無茶苦茶です。
ヒトという種の生物が特定環境下においてどのような行動を採ったとしても、それは人間性や倫理の証明には一切ならないのです。
環境に左右されるという「先天的行動習性」である以上、そこに個人の「自律的な社会的責任判断能力」の論証には全く結びつきませんから。松沢哲郎などの生物学者達が言い張る「先天的行動習性に人間性が組み込まれている可能性。」などというのは、論理科学的検証の苦手な文科系大衆やマスコミに対する人気取り、大衆迎合にしかなっていないのです。
「キリンの首がなぜ長いのか」についての進化に対する錯覚など、生物の遺伝的進化というものに対する文科系大衆マスコミの間違った解釈同様に。生物の先天的な社会形成習性もまた、何らかの目的のために自らの遺伝子を書き換えて進化したかのような妄想錯覚をすることによって、「先天的な社会形成習性にまで人間性が自動的に組み込まれているはずだ。」という、理論的には何の根拠もない実証不能の観念を、大多数のヒトは信じ込んでいるわけです。
「遺伝的進化の全ては、常に絶対的に正しい結果しか導かない。」という妄想は、フランス:ゴルトンの提唱した優生学の根拠にも用いられているものです。
こうした生物学の根源的間違いが、なぜ傍観放置されるのでしょうか。
一つの原因は、ヒトという種の生物に先天的に人間性が組み込まれているとすれば、それは自分という存在が生物として優秀で、何も考えなくとも自動的に正しい判断が下せるかのような錯覚を促すため、気分的に安心で満足感が得られるからです。
こうした気分的安心満足というもの自体が、そもそも先天的な思考バイアスという「習性」の結果であることにすら気付かないため、そこで思考が停止して正しい論理検証が出来なくなってしまうわけです。
○洗脳
マイケル:サンデルの授業は、多数の学生から人気があります。それは、サンデルの授業を受けると、あたかも何かを考えたような錯覚に陥り、自分の頭が良くなったかのような妄想に陥って気分的に安心満足するためです。
限られた条件の中で、一人殺すか、五人殺すかを選択しなければならない状況の内部には、そもそも倫理の本質が存在していません。
「誰かが死ななければならない状況。」という危機に、なぜ陥ったのか。もしどうやっても危険を予測不可能であることが証明できるのであれば、これは天災の範疇ですから避けようがありませんから誰の責任でもありませんし。予測可能性が存在するとすれば、それは「人災」ですから、そこには倫理や人間性が問われることになるわけです。
哲学でありながら、一定条件の範囲内でしか考えてはいけないなどという思考拘束条件を付加した思考が、どうして哲学だと言えるのでしょう。
哲学というのは、物事をあらゆる角度から検証し、深く考えることを意味するものであり。特定条件内だけで答のない問題で気分的に悩ましく葛藤することなどではありません。
ところがヒトの多くは、気分的に悩ましい問題を提起され葛藤さえすれば、あたかも何かを深く考えたかのような錯覚に陥り、自分の頭が良くなったかのような妄想を抱くことによって、論理的には何の根拠もない話を鵜呑みにし、問題を提起した相手を盲目的に信頼信奉するようになる習性があるのです。
これが洗脳の基本的構造です。
どっかのバカな病理診断医がマイケル:サンデルを信奉していましたが、サンデルのペテンを見抜けないバカならそこいら中に腐る程いる凡人でしかありません。 さぞかし多数がバカなら自分も同じバカでもバカが薄まるとでも錯覚して気分的に安心満足しているに違いありません。
こうした洗脳というものは、サンデルに限ったことではなく。養老孟司の著作にも存在するものであり、大多数の大衆や文科系マスコミも陥った一般的な現象なのです。
養老孟司の著作が具体的に何かの役に立ったことがあるでしょうか。
人気があっても糞の役にも立たない話というのは腐る程あります。それらは全て、その場限りに気分的に安心満足し、自分の頭が良くなったかのような錯覚に陥って思考停止しているだけの文芸エンターテイメントでしかないのです。
文芸エンターテイメントを、単なる気分的満足に過ぎないと認識しているのであればまだしも、大抵の凡人はサンデルや養老が何かの役に立つものだと妄想しているからこそ、問題の本質が見落とされ放置されてしまうのです。
亀山郁夫によるドスト:エフスキー論においても、「現代の社会を予言した。」などという形容は、所詮論理的根拠に基づいた予測ではなく、ノストラダムスの大予言ヨロシク後から観念的にこじつけただけに過ぎません。
ですから何の役にも立たないのです。
まだ途中だけどアップしとくわ 続きはまた今度。
Ende;
「キリンは他の動物が食べることの出来ない高い木の葉を食べようと努力を続けた結果、徐々に首が長く進化した。」というのは風説で、個体の如何なる努力も遺伝子変異とは無関係なので、努力しても首は長くならない。
おそらく、キリンの祖先は他の動物よか多少首が長くて。その中でも特に首の長い個体の方が生存に適していたために、首の短い遺伝子を持ったキリンが全て絶滅した結果、首の長いキリンだけに淘汰された。
もしかすると、キリンのメスは首の長いオスの個体を好むような配偶者選択をする習性が働いたとも考えられるので、必ずしも首の長さが環境適応であるとも限らないし。オス同士はあの長い首で喧嘩することもあるので、長さが武器になっている可能性もある。
淘汰の過程でどのような力学が働いたのかは、もはや明確な証拠は遺っていないのだけれど、確実に言えることとしては、「個体の努力は進化には影響しない。」ということ。
従来、生物学においては、「生物の目的は、生存である。」と信じ込まれてきたが。これは理論的にも科学的にも間違いで、「結果的に死なずに生存しているものを生物と分類している。」だけであって、生物に目的なんぞ存在していないわけです。
首の短い遺伝子を持ったキリンの祖先が、どんなに努力して頑張ろうとも、たとえ生存や種の保存などの目的を持って行動選択しようとも、先天的に首が短かいので淘汰の対象になってしまった。
そもそも「生存」だの「種の保存」というのは、生物の「結果」であって。それは個体の目的行動選択ですらないわけです。
例えを変えます
昆虫などに見られる擬態に対して、文科系大衆の多くは「賢い」などという科学的には意味のわからない形容詞を用いることが多いのですが。個体の賢さと先天的遺伝形態には相関はなくて、たまたま枯れ葉などに似ていた個体が天敵から見つかりづらかった結果として、より枯れ葉などに似た遺伝形態を持った個体種だけに淘汰圧力が働いた結果が擬態なのです。
個体当人(虫ですけど)が、どんなに「天敵に見つかりたくない。」と願っても、祈っても、呪っても、先天的に天敵に見つかり易い遺伝子を持っていれば喰われちゃうわけで。当人(虫だけどね)の努力とか賢さなんてのは生き残りには何の意味も持たないわけです。
ヒトの多くは、「死にたくない。」と思っているでしょう。たとえ自殺願望があろうとも、身の上の不幸が取り除かれるんだったら特に死にたいとは思わないでしょうし。
ヒトの目的は生きることでしょうか?。
先天的な行動習性として「死にたくない。」と思うこと自体が、大脳辺縁系に組み込まれた行動バイアスでしかない以上、これは「人間としての目的。」の論証にはならないのです。
若干話が難解風味になりましたかね。
だって、どうせ皆そのうち死ぬんですよ。ヒトの死亡率は100%なんすから。こういう話をするとニヒリズム(虚無)に陥るヒトが多いんですけど。その感情自体もまた先天的な思考バイアスが促す錯覚妄想でしかなくて、短絡的に思考を停止させて満足しているだけの逃避でしかありません。
どうせ死ぬのに生き続ける必要性って何でしょう。
先天的行動バイアスというのも、「キリンの首の長さ」と同様、祖先の努力とか目的行動選択とは無関係なものであって。「死ななければ、どのような行動習性であろうとも構わない。」わけです。
より嘘がうまい個体とか、暴力的個体の方が生存に適していた可能性は充分あります。御先祖様が一体どのような行動を採ることによって死なずに済んだのかなんて、もはや誰にも知る由のない話であり。大嘘つきとか糞DQNの子孫だった可能性も充分あるわけで。現代のように科学捜査や監視カメラのない時代には今よりもっと顕在化しない犯罪が多かったことを考えると、結果的に生存していただけのヒトという種の生物に先天的人間性が組み込まれる進化過程の力学など存在しているとは到底言えないわけです。
そもそも現代文明が構築される以前の自然界においては、暴力性というのは生存という結果を導くためには必須だったと言えるでしょう。
結果的に遺されたヒトの暴力性が「目的」だとは言えませんよね、それは単なる「結果」でしかありませんから。
先天的に遺され、脳に組み込まれた行動バイアスというのは全て「結果」ですから、あらゆる先天的行動習性というものは、それだけで「目的」の論証には全くなりません。
ヒトという種の生物の本能習性は、結果以上に意味がないわけです。
そこで問題となるのが、「人間としての目的。」なんですね。
「人間性の本質。」とは何でしょう。
「倫理。」と言い換えても構わないでしょう。
国会原発事故調査委員会の報告書において、委員長の畑村洋太郎は事故の最も根源的原因として、「個人が自律的に社会的責任を負わなかったこと。」を挙げています。
これは、あらゆる「人災」において共通する原因であり。原発事故だけが特別に必要なものというわけではありません。
事故以外の犯罪や紛争においても、「人災」である以上根源的原因は個人の自律の欠如が根源的原因です。他のあらゆる要因があったとしても、最も根源的原因は個人の自律であり、人間性の欠落によってあらゆる「人災」は引き起こされることに違いはありません。
例えば、貧困がテロや通り魔の要因になるとしても、貧困者の全てがテロリストや通り魔になるわけでもなく。また、生活に困窮しているわけでもなければ、むしろお金には全く困っていないにも関わらず銃乱射事件を起こすケースがある以上、貧困格差は根源的原因ではなく、あくまで傾向性としての外的要因を述べているに過ぎないのです。
あらゆる「人災」の根源的原因というのは、結局は個人の判断に起因するものであり、たとえ国家単位の事象であっても、為政者やその支持者達の過った判断が原因であり。地勢学などの外見的分析というのは、「貧困国程紛争が多い。」などの傾向性は述べることは出来ても、それは根源的原因の分析にはならないのです。
ヒトは、事象の大きさによって根源的原因が異なるものだと錯覚しがちな傾向がありますが。原発事故であれ、学生による殺人であれ、国家単位の紛争であろうとも、根源的にはヒト個人の判断の誤りが原因であることに違いはありません。
国家などの大きな組織集団単位での事象であろうとも、その中心人物や集団の誤りを傍観放置する大多数の無責任なヒトの行動が助長しているに過ぎず。結局は個人の自律的な社会的責任判断の欠落が招くものであることに違いなどなく。こうしたメカニズムは子供のイジメと基本的には違いがありません。
○社会形成習性について
生物学では、長い間、動物が統率的な役割分担を行う先天的な習性を「社会性」と呼んで、これを短絡的に人間としての社会性と混同してきました。
これだけでも生物学者達の無能や無責任さの証明でもあるのですが、それでもなを京都大学霊長類研究所の松沢哲郎はチンパンジーの研究から「先天的な習性によって、人間としての社会性を立証出来るかもしれない。」などという、理論的に不可能な予測を立て、これを根拠に文化功労賞まで獲得し。更にはマスコミの誰も生物学界のこうした腐敗を指摘できないという、ほとんど集団痴呆(洗脳)とも言える状態に疑問すら持ちません。
まあ、この話は理論的本質とは直接関係がないので詳細は別の記事を読んでもらうとして、本題に戻りましょう。
生物学における「社会性」とは、統率的協調行動や、役割分担のことを指しています。しかし、こうした行動というのは先天的な習性として行うだけなので、そこに人間性や倫理に基づいた行動選択が介在する保証は全くなく。むしろテロリストやゲリラ、暴力団などといった人間性を大きく欠いた集団においても発揮されるものでもあり。こうした先天的な行動習性という「結果」が、短絡的に人間性であることの証明になど一切なりません。
暴力団の鉄砲玉が、命懸けで集団組織の利益の為に自爆的攻撃をしても、そんなものが人間性の証明になどならないのは当然でしょう。
東京電力福島第一原発の運営において、「組織の利益を優先した。」ことこそが、むしろ「個人の自律的な社会的責任」の放棄の最も大きな原因となったことからも。自分が属する集団組織にとって利益になる先天的行動習性が人間性の論証になるわけではないのです。
こうした社会的無責任というのは、西武グループや東芝やオリンパス、三菱自動車などにおける粉飾決算やデータ改ざんなどにおける原因でもあり。自分達が属する集団組織の利益しか考慮に入れない献身性こそが、社会的責任を放棄する要因となっているのです。
振り込め詐欺師が、仲間内で食事を奢れば断片的には「利他的行動」にはなりますが、これを根拠に短絡的に人間性の論証にするのは無茶苦茶です。
ヒトという種の生物が特定環境下においてどのような行動を採ったとしても、それは人間性や倫理の証明には一切ならないのです。
環境に左右されるという「先天的行動習性」である以上、そこに個人の「自律的な社会的責任判断能力」の論証には全く結びつきませんから。松沢哲郎などの生物学者達が言い張る「先天的行動習性に人間性が組み込まれている可能性。」などというのは、論理科学的検証の苦手な文科系大衆やマスコミに対する人気取り、大衆迎合にしかなっていないのです。
「キリンの首がなぜ長いのか」についての進化に対する錯覚など、生物の遺伝的進化というものに対する文科系大衆マスコミの間違った解釈同様に。生物の先天的な社会形成習性もまた、何らかの目的のために自らの遺伝子を書き換えて進化したかのような妄想錯覚をすることによって、「先天的な社会形成習性にまで人間性が自動的に組み込まれているはずだ。」という、理論的には何の根拠もない実証不能の観念を、大多数のヒトは信じ込んでいるわけです。
「遺伝的進化の全ては、常に絶対的に正しい結果しか導かない。」という妄想は、フランス:ゴルトンの提唱した優生学の根拠にも用いられているものです。
こうした生物学の根源的間違いが、なぜ傍観放置されるのでしょうか。
一つの原因は、ヒトという種の生物に先天的に人間性が組み込まれているとすれば、それは自分という存在が生物として優秀で、何も考えなくとも自動的に正しい判断が下せるかのような錯覚を促すため、気分的に安心で満足感が得られるからです。
こうした気分的安心満足というもの自体が、そもそも先天的な思考バイアスという「習性」の結果であることにすら気付かないため、そこで思考が停止して正しい論理検証が出来なくなってしまうわけです。
○洗脳
マイケル:サンデルの授業は、多数の学生から人気があります。それは、サンデルの授業を受けると、あたかも何かを考えたような錯覚に陥り、自分の頭が良くなったかのような妄想に陥って気分的に安心満足するためです。
限られた条件の中で、一人殺すか、五人殺すかを選択しなければならない状況の内部には、そもそも倫理の本質が存在していません。
「誰かが死ななければならない状況。」という危機に、なぜ陥ったのか。もしどうやっても危険を予測不可能であることが証明できるのであれば、これは天災の範疇ですから避けようがありませんから誰の責任でもありませんし。予測可能性が存在するとすれば、それは「人災」ですから、そこには倫理や人間性が問われることになるわけです。
哲学でありながら、一定条件の範囲内でしか考えてはいけないなどという思考拘束条件を付加した思考が、どうして哲学だと言えるのでしょう。
哲学というのは、物事をあらゆる角度から検証し、深く考えることを意味するものであり。特定条件内だけで答のない問題で気分的に悩ましく葛藤することなどではありません。
ところがヒトの多くは、気分的に悩ましい問題を提起され葛藤さえすれば、あたかも何かを深く考えたかのような錯覚に陥り、自分の頭が良くなったかのような妄想を抱くことによって、論理的には何の根拠もない話を鵜呑みにし、問題を提起した相手を盲目的に信頼信奉するようになる習性があるのです。
これが洗脳の基本的構造です。
どっかのバカな病理診断医がマイケル:サンデルを信奉していましたが、サンデルのペテンを見抜けないバカならそこいら中に腐る程いる凡人でしかありません。 さぞかし多数がバカなら自分も同じバカでもバカが薄まるとでも錯覚して気分的に安心満足しているに違いありません。
こうした洗脳というものは、サンデルに限ったことではなく。養老孟司の著作にも存在するものであり、大多数の大衆や文科系マスコミも陥った一般的な現象なのです。
養老孟司の著作が具体的に何かの役に立ったことがあるでしょうか。
人気があっても糞の役にも立たない話というのは腐る程あります。それらは全て、その場限りに気分的に安心満足し、自分の頭が良くなったかのような錯覚に陥って思考停止しているだけの文芸エンターテイメントでしかないのです。
文芸エンターテイメントを、単なる気分的満足に過ぎないと認識しているのであればまだしも、大抵の凡人はサンデルや養老が何かの役に立つものだと妄想しているからこそ、問題の本質が見落とされ放置されてしまうのです。
亀山郁夫によるドスト:エフスキー論においても、「現代の社会を予言した。」などという形容は、所詮論理的根拠に基づいた予測ではなく、ノストラダムスの大予言ヨロシク後から観念的にこじつけただけに過ぎません。
ですから何の役にも立たないのです。
まだ途中だけどアップしとくわ 続きはまた今度。
Ende;