そもそも「目的」とは何か
「目的」とは、意識的に選択された行動であり、無意識な先天的行動バイアスの全ては「結果」でしかない
何が無意識なのかを明確にすれば、意識の本質も目的も明確になるのである
先天的行動バイアスの全ては無意識である
なぜなら先天的行動バイアスや習性といったものの全ては、自分では選択していない遺伝的要因だけで決定しているものだからである
どんなに強く「思って」も、それは意識的に目的行動選択した「考え」とは全く異なるものなのである
振り込め詐欺師に騙されるのも、「何とかしなければ」という「思い」の暴走が引き起こすものであって、その強烈な「思い(気分感情の強度)」によってこそ、「この話は本当なのか?」という「考え(意識的な論理検証性)」が働かなくなるのである
ヒトの多くは意識の本質を、感情気分の強度や程度であると勘違いしていて。「自分だけは常に絶対に正常な判断が出来る優秀な存在である。」と勝手に勘違いしておけば満足なので、「ヒトの脳には先天的に欠陥がある。」という事実すら受け入れることを拒絶し、「先天的な行動習性だけで人間性が立証可能かも知れない。」などというオカルトお花畑を真に受け信用してしまうのである
ヒトに限らず、脳を持った生物の先天的行動習性の全てが、常に生存や種の保存にとって有利なわけではないのだが。それに対してジャレド:ダイアモンドは「潜在意識には目的がある。」などと言い出す始末である
一体どうやって「潜在意識には目的がある。」ことを証明すると言うのであろうか?
結果的に生存しているという「結果」さえあれば、その過程でどんなに無駄で不利な行動を採ったとしても、「常に必ず何らかの意識的目的選択が働いているはずだ。」とでも言うのであろうか
結果の全てに常に何らかの意識的「目的」選択が介在するわけではない
殺人に「潜在意識に目的がある。」だろうか? 否、殺人というのは気分感情が行動と直結した動物的野蛮行動ではあっても、そこに目的があるわけではない
意識の上にもない目的が、どうして「潜在意識に目的がある。」と証明出来るのであろうか?
殺人などの暴力行動は、その行動が自然環境下では生存に有利に働いたという「結果」でこそあれ。なんでその「結果」に過ぎない先天的習性が、当人すら預かり知らぬ「潜在意識」には目的が存在すると言えるのであろうか?
それとも、意識の上には存在しない無意識な何者かの意思や目的選択が介在するとでも言うのであろうか?
それはもはや宗教に過ぎない
宗教では、何が起きても「意味がある。」とか「無駄なことはない。」ことにするのだが。そういうことにしておけば、気分的に満足出来るから、「そういうことにしておく。」だけであって、合理的根拠があるわけではない
「生物の存在や行動の全てに意味や合理性が存在しているはずだ。」という、進化絶対万能論という、実証不能の観念に基づいて、「潜在意識には目的がある。」だとか、「先天的行動習性によって人間性が立証可能かも知れない。」などという非科学的「お花畑」が出てきてしまうのである
フランス:ゴルトンによる優生学においても、「進化の果てには必ず正しい結果があるはずだ。」という観念が働いており、ゴルトンはこれを「人種の観念」と呼んだ
ヒトがいくつかの人種に分別出来ることを根拠に、「特定の人種だけが生き残ることを目的とした進化が起きるはずだ。」という、論理的には何の根拠もない観念だけを頼りに優生学を提唱したのである
更に、ニーチェのゾロアスター教の観念である「超人」幻想に便乗することで、ナチスによるユダヤ人虐殺が正当化されてしまったのである
ナチスはユダヤ人だけでなく、障害者も殺害している
ヒトという種の生物は過酷な自然界における淘汰圧力から逃れた時点で、遺伝的進化はほとんど促されることはなくなったのである
多少の配偶者選択的な淘汰圧力は働くとしても、先天的障害や疾患だけで断種対象にされるいわれはないのである
弱肉強食の過酷な自然環境下であれば、ネズミに先天的疾患や障害があれば、否応なく天敵に喰われて淘汰されるであろうが、それらは全て「結果」であって、別に人間社会にまで持ち込む必要は一切ないのである
にも関わらず、生存だけが唯一絶対的「正解」になってしまうのであろうか?
それは、個人が主観的に「死にたくない。」という、先天的バイアスと目的論をごちゃまぜにしているからである
どんなに強く「死にたくない。」と思おうが、願おうが、呪おうが、ヒトの死亡率は100%である以上、生存自体を目的にするというのは意味が全くない
永遠に生きることに一体何の意味があると言うのであろうか?
この話をするとよく出てくるのが、「だって皆死にたくないでしょ。」という多数決の論理である
多数決というものは個人の存在意義にも、科学論理的証明にも全くならず。単なる民主主義の規則や制度でしかない
永遠に生きて、一体何をするつもりなのかしら?
目的もなしに、ただ「死にたくないから。」などという話では、何の合理性も存在しないのである
永遠の命を求めるような奴は、基本的に何も考えたことのないただのバカしかいないのである
死ぬことが「怖い」のも、所詮は先天的な習性が促す行動バイアスに過ぎず、無意識に過ぎない
「怖い」というだけなら、アイヒマン実験(スタンレー:ミルグラム)において権威の命令に背くことも同じである。それでも一人の尊厳ある個人としての意識的行動選択としては、理不尽な権威の命令には逆らわなければならない
東京電力福島第一原発において、上司に逆らって津波に対する危険性を主張することも、上司に逆らうことで失職するリスクもあるさぞかし「怖い」ことであろう
それでも倫理的には、「組織の利益を優先せずに、個人が自律的に社会的責任判断選択をする。」必要がある
倫理とは、人間性の本質とは何か。それは「個人の自律」にある
トロッコ問題で「何人殺すか」などという軽薄な言葉遊びに倫理の本質などない
自分の内部の主観的な感情に過ぎない「恐怖」や「不安」が促す行動バイアスには、人間性や倫理の本質は存在しない
たとえ、それがどんなに「大きくて」も、である
感情気分の程度強度で行動が決定していて、倫理も人間性もすったくれもないのである
「心」とは何か
「気分的に満足していれば、悪いことをしようとしなくなる。」だろう。それならその場限りに気分的な安心や満足さえ追求しておけば、人間性が高まるとでも思っているのが宗教である
宗教というのは、その場限りの気分的安心満足を得るためのものであり。実証不能の神とか仏とか変態ストーカーが年がら年中「あなたを見ている」ような錯覚を用いて、その恐怖心によって行動抑制するためのものである
だから中東由来の一神教では「神がいないのであれば、何をしても許される」などという、子供じみた話になってしまう
社会の持続可能性や安全性を求めるのは、神ではなく人である
神がいようといまいと、「ならぬことは、ならぬ。」のである
それとも何ですか、神がいないのであれば原発が暴走しても許されるんですか?
航空機が住宅に墜落してきても許されるんですか?
要するに「許してもらえない」と怖い相手として神を妄想しているだけであって、怖いかどうかが行動規範になっている時点で、既に自律が全くないわけです
自律のないヒトに「心」なんかないでしょ
だから宗教なんか要らんのです
だからといって、いきなり宗教弾圧を始めようとするのもまた、新手の宗教に過ぎない
すぐに「あれはダメ、これはダメ。」と規制とか懲罰だけで解決をしたがるのが、ヒトという種の生物の悪いクセであり
理詰めで説得するという根気が足りないから宗教弾圧などという暴力的解決法に依存したがる
宗教の良くない部分というのは、自分の信じている宗教以外に属する人を、問答無用で排除差別するという、生物の先天的な社会形成習性を暴走させてしまう部分である
イスラム教でもキリスト教でも、「隣人を大切に」と説かれているにも関わらず、自分達と異なる集団を問答無用で差別することで、仲間内の共有感覚を満足させるために差別をするようになる
子供達を放置すると、自動的にイジメが生ずるのも。先天的な社会形成習性の自然な暴走によるものである
ヒトという種の生物は、他人を統率協調的に排除することで、仲間意識(当然ながら無意識な先天的バイアス)を満足させて安心しようとする習性があり。宗教は構造的にこれを助長してしまうのである
何せ、宗教の動機がそもそも気分的安心満足を目的としているため、これに抗うという発想が全然出てこないからだ
千日回峰行のような難行苦行さえやっときゃ徳が高まると勘違いしている
どんなに個人的に苦しいことをしても、社会持続可能性や安全性に寄与しないのであれば、そんなもん糞の役にも立たない
それは特攻隊や自爆攻撃でも同じことである
本当に平和こそを目的としているのであれば、子供達にどのような社会を遺したら良いのかを理詰めで考えたら、もはや宗派なんぞどうでも良くなるはずである
本当の人間としての「心」とは、どの宗派に属しているかではなく、「個人が自律的に社会的責任判断を行うこと。」こそが重要なのであり。これなくして「心」もへったくれもあったもんじゃない
ヒトである以上必ず死ぬ
だったら今存在している意味って何だろう
自分が存在し続ける意義って何だろう
隣で子供が危害を加えられていて、飯が旨いだろうか
地球の裏側で赤ん坊が黒焦げにされていて、楽しさなんて感じられるだろうか
宮沢賢治ではないが、世の中に苦しんでいる人がいたら、自分も幸福ではいられないのが人間である
自分だけ詐欺で金儲けして満足しているのは、エサを貪るサルと同じである
他のサルが餓えようが、自分の食欲さえ満たしておけば満足なのがサルの脳である
弱者を迫害して自分達にだけ有利になるよう行動するのはサルの論理である
自然界においては、それが生存や種の保存に適した行動なのかも知れないが。そもそも一体何のために生存や種の保存をしなければならないのか
自然界での過酷な生存競争という「結果」を、どうして人間社会にまで持ち込まなければならないのであろうか
な、
それこそが本質的な人間としての「心」に基づいた目的行動選択という「考え」が働いていないから、優生学などというオカルトを鵜呑みにしてしまうのである
いやもうね、ジャレド:ダイアモンドとか松沢哲郎とか、生物学の権威と言われている糞ジジイは片っ端からクビにしないと生物学の腐敗はなくならないよ
優生学に対する論理反証を認めないなんて、もはやA級戦犯としか言いようがないでしょ
別に懲罰を加えるつもりはないよ、ただ、無能な奴が権威に就いているのは社会的に無駄で無責任だって話だからね
まあ、でもジャレド:ダイアモンドの言っている内容を鵜呑みに出来るようなバカじゃないと生物学者にはなれないんだろうから、下手すると何十年もかかるのかもね
オラの知ったこっちゃないけど
その間に回避可能だった危険性が回避出来なくても、オイラの責任じゃないからね
Ende;
「目的」とは、意識的に選択された行動であり、無意識な先天的行動バイアスの全ては「結果」でしかない
何が無意識なのかを明確にすれば、意識の本質も目的も明確になるのである
先天的行動バイアスの全ては無意識である
なぜなら先天的行動バイアスや習性といったものの全ては、自分では選択していない遺伝的要因だけで決定しているものだからである
どんなに強く「思って」も、それは意識的に目的行動選択した「考え」とは全く異なるものなのである
振り込め詐欺師に騙されるのも、「何とかしなければ」という「思い」の暴走が引き起こすものであって、その強烈な「思い(気分感情の強度)」によってこそ、「この話は本当なのか?」という「考え(意識的な論理検証性)」が働かなくなるのである
ヒトの多くは意識の本質を、感情気分の強度や程度であると勘違いしていて。「自分だけは常に絶対に正常な判断が出来る優秀な存在である。」と勝手に勘違いしておけば満足なので、「ヒトの脳には先天的に欠陥がある。」という事実すら受け入れることを拒絶し、「先天的な行動習性だけで人間性が立証可能かも知れない。」などというオカルトお花畑を真に受け信用してしまうのである
ヒトに限らず、脳を持った生物の先天的行動習性の全てが、常に生存や種の保存にとって有利なわけではないのだが。それに対してジャレド:ダイアモンドは「潜在意識には目的がある。」などと言い出す始末である
一体どうやって「潜在意識には目的がある。」ことを証明すると言うのであろうか?
結果的に生存しているという「結果」さえあれば、その過程でどんなに無駄で不利な行動を採ったとしても、「常に必ず何らかの意識的目的選択が働いているはずだ。」とでも言うのであろうか
結果の全てに常に何らかの意識的「目的」選択が介在するわけではない
殺人に「潜在意識に目的がある。」だろうか? 否、殺人というのは気分感情が行動と直結した動物的野蛮行動ではあっても、そこに目的があるわけではない
意識の上にもない目的が、どうして「潜在意識に目的がある。」と証明出来るのであろうか?
殺人などの暴力行動は、その行動が自然環境下では生存に有利に働いたという「結果」でこそあれ。なんでその「結果」に過ぎない先天的習性が、当人すら預かり知らぬ「潜在意識」には目的が存在すると言えるのであろうか?
それとも、意識の上には存在しない無意識な何者かの意思や目的選択が介在するとでも言うのであろうか?
それはもはや宗教に過ぎない
宗教では、何が起きても「意味がある。」とか「無駄なことはない。」ことにするのだが。そういうことにしておけば、気分的に満足出来るから、「そういうことにしておく。」だけであって、合理的根拠があるわけではない
「生物の存在や行動の全てに意味や合理性が存在しているはずだ。」という、進化絶対万能論という、実証不能の観念に基づいて、「潜在意識には目的がある。」だとか、「先天的行動習性によって人間性が立証可能かも知れない。」などという非科学的「お花畑」が出てきてしまうのである
フランス:ゴルトンによる優生学においても、「進化の果てには必ず正しい結果があるはずだ。」という観念が働いており、ゴルトンはこれを「人種の観念」と呼んだ
ヒトがいくつかの人種に分別出来ることを根拠に、「特定の人種だけが生き残ることを目的とした進化が起きるはずだ。」という、論理的には何の根拠もない観念だけを頼りに優生学を提唱したのである
更に、ニーチェのゾロアスター教の観念である「超人」幻想に便乗することで、ナチスによるユダヤ人虐殺が正当化されてしまったのである
ナチスはユダヤ人だけでなく、障害者も殺害している
ヒトという種の生物は過酷な自然界における淘汰圧力から逃れた時点で、遺伝的進化はほとんど促されることはなくなったのである
多少の配偶者選択的な淘汰圧力は働くとしても、先天的障害や疾患だけで断種対象にされるいわれはないのである
弱肉強食の過酷な自然環境下であれば、ネズミに先天的疾患や障害があれば、否応なく天敵に喰われて淘汰されるであろうが、それらは全て「結果」であって、別に人間社会にまで持ち込む必要は一切ないのである
にも関わらず、生存だけが唯一絶対的「正解」になってしまうのであろうか?
それは、個人が主観的に「死にたくない。」という、先天的バイアスと目的論をごちゃまぜにしているからである
どんなに強く「死にたくない。」と思おうが、願おうが、呪おうが、ヒトの死亡率は100%である以上、生存自体を目的にするというのは意味が全くない
永遠に生きることに一体何の意味があると言うのであろうか?
この話をするとよく出てくるのが、「だって皆死にたくないでしょ。」という多数決の論理である
多数決というものは個人の存在意義にも、科学論理的証明にも全くならず。単なる民主主義の規則や制度でしかない
永遠に生きて、一体何をするつもりなのかしら?
目的もなしに、ただ「死にたくないから。」などという話では、何の合理性も存在しないのである
永遠の命を求めるような奴は、基本的に何も考えたことのないただのバカしかいないのである
死ぬことが「怖い」のも、所詮は先天的な習性が促す行動バイアスに過ぎず、無意識に過ぎない
「怖い」というだけなら、アイヒマン実験(スタンレー:ミルグラム)において権威の命令に背くことも同じである。それでも一人の尊厳ある個人としての意識的行動選択としては、理不尽な権威の命令には逆らわなければならない
東京電力福島第一原発において、上司に逆らって津波に対する危険性を主張することも、上司に逆らうことで失職するリスクもあるさぞかし「怖い」ことであろう
それでも倫理的には、「組織の利益を優先せずに、個人が自律的に社会的責任判断選択をする。」必要がある
倫理とは、人間性の本質とは何か。それは「個人の自律」にある
トロッコ問題で「何人殺すか」などという軽薄な言葉遊びに倫理の本質などない
自分の内部の主観的な感情に過ぎない「恐怖」や「不安」が促す行動バイアスには、人間性や倫理の本質は存在しない
たとえ、それがどんなに「大きくて」も、である
感情気分の程度強度で行動が決定していて、倫理も人間性もすったくれもないのである
「心」とは何か
「気分的に満足していれば、悪いことをしようとしなくなる。」だろう。それならその場限りに気分的な安心や満足さえ追求しておけば、人間性が高まるとでも思っているのが宗教である
宗教というのは、その場限りの気分的安心満足を得るためのものであり。実証不能の神とか仏とか変態ストーカーが年がら年中「あなたを見ている」ような錯覚を用いて、その恐怖心によって行動抑制するためのものである
だから中東由来の一神教では「神がいないのであれば、何をしても許される」などという、子供じみた話になってしまう
社会の持続可能性や安全性を求めるのは、神ではなく人である
神がいようといまいと、「ならぬことは、ならぬ。」のである
それとも何ですか、神がいないのであれば原発が暴走しても許されるんですか?
航空機が住宅に墜落してきても許されるんですか?
要するに「許してもらえない」と怖い相手として神を妄想しているだけであって、怖いかどうかが行動規範になっている時点で、既に自律が全くないわけです
自律のないヒトに「心」なんかないでしょ
だから宗教なんか要らんのです
だからといって、いきなり宗教弾圧を始めようとするのもまた、新手の宗教に過ぎない
すぐに「あれはダメ、これはダメ。」と規制とか懲罰だけで解決をしたがるのが、ヒトという種の生物の悪いクセであり
理詰めで説得するという根気が足りないから宗教弾圧などという暴力的解決法に依存したがる
宗教の良くない部分というのは、自分の信じている宗教以外に属する人を、問答無用で排除差別するという、生物の先天的な社会形成習性を暴走させてしまう部分である
イスラム教でもキリスト教でも、「隣人を大切に」と説かれているにも関わらず、自分達と異なる集団を問答無用で差別することで、仲間内の共有感覚を満足させるために差別をするようになる
子供達を放置すると、自動的にイジメが生ずるのも。先天的な社会形成習性の自然な暴走によるものである
ヒトという種の生物は、他人を統率協調的に排除することで、仲間意識(当然ながら無意識な先天的バイアス)を満足させて安心しようとする習性があり。宗教は構造的にこれを助長してしまうのである
何せ、宗教の動機がそもそも気分的安心満足を目的としているため、これに抗うという発想が全然出てこないからだ
千日回峰行のような難行苦行さえやっときゃ徳が高まると勘違いしている
どんなに個人的に苦しいことをしても、社会持続可能性や安全性に寄与しないのであれば、そんなもん糞の役にも立たない
それは特攻隊や自爆攻撃でも同じことである
本当に平和こそを目的としているのであれば、子供達にどのような社会を遺したら良いのかを理詰めで考えたら、もはや宗派なんぞどうでも良くなるはずである
本当の人間としての「心」とは、どの宗派に属しているかではなく、「個人が自律的に社会的責任判断を行うこと。」こそが重要なのであり。これなくして「心」もへったくれもあったもんじゃない
ヒトである以上必ず死ぬ
だったら今存在している意味って何だろう
自分が存在し続ける意義って何だろう
隣で子供が危害を加えられていて、飯が旨いだろうか
地球の裏側で赤ん坊が黒焦げにされていて、楽しさなんて感じられるだろうか
宮沢賢治ではないが、世の中に苦しんでいる人がいたら、自分も幸福ではいられないのが人間である
自分だけ詐欺で金儲けして満足しているのは、エサを貪るサルと同じである
他のサルが餓えようが、自分の食欲さえ満たしておけば満足なのがサルの脳である
弱者を迫害して自分達にだけ有利になるよう行動するのはサルの論理である
自然界においては、それが生存や種の保存に適した行動なのかも知れないが。そもそも一体何のために生存や種の保存をしなければならないのか
自然界での過酷な生存競争という「結果」を、どうして人間社会にまで持ち込まなければならないのであろうか
な、
それこそが本質的な人間としての「心」に基づいた目的行動選択という「考え」が働いていないから、優生学などというオカルトを鵜呑みにしてしまうのである
いやもうね、ジャレド:ダイアモンドとか松沢哲郎とか、生物学の権威と言われている糞ジジイは片っ端からクビにしないと生物学の腐敗はなくならないよ
優生学に対する論理反証を認めないなんて、もはやA級戦犯としか言いようがないでしょ
別に懲罰を加えるつもりはないよ、ただ、無能な奴が権威に就いているのは社会的に無駄で無責任だって話だからね
まあ、でもジャレド:ダイアモンドの言っている内容を鵜呑みに出来るようなバカじゃないと生物学者にはなれないんだろうから、下手すると何十年もかかるのかもね
オラの知ったこっちゃないけど
その間に回避可能だった危険性が回避出来なくても、オイラの責任じゃないからね
Ende;