進化の全てに「説明」がつけられる訳ではない
大脳辺縁系によって促される先天的な行動習性というものは、「その行動をする習性を持った個体が結果的に生存に適していた。」ことによって淘汰された結果に過ぎず。生存や種の保存などの目的のために誰がしかの意図的選択によって遺伝子を都合良く書き換えたわけではなく、遺伝的な進化というものは徹頭徹尾「結果」であって、そこに意識的な選択としての「目的」が介在する余地は1ミリもない。
生物の特徴や性質が、生存や種の保存などに適応してきたのは、適応出来なかった圧倒的大多数の屍の上に成立する偶発的「結果」でしかなく。そこに誰の意識的「目的」意図や選択が介在する余地はない。
「生存」とか「種の保存」などといったものも、これらは生物の「結果」であって、結果以上の意味が存在するわけではない。
ジャレド:ダイアモンドは、生存や種の保存に適さない行動に対しては、「潜在意識の中には行動合理性がある。」などという、何の論理的立証もない実証不能の観念をこじつけており、もはや科学を逸脱したオカルト宗教にしかなっていない。
強姦などの暴力行為は、生存や種の保存にとっては有利に働くが。こうした行動をする個体の意識の中には生存だの種の保存だのといった観念があるわけではなく、先天的行動習性としてむやみやたらと交尾がしたいだけであって、繁殖に適さない幼い個体との交尾を行った後に殺害して証拠隠滅を謀るといった行動も見られ。こうした行動には何の合理的説明も不可能であり、ジャレド:ダイアモンドの発想に従えば、「強姦殺人を行うヒトの行動であっても、潜在意識の中には種の保存を目的とした行動である。」ということになってしまうのである。
こんなバカみたいな話を有り難がっているバカが多過ぎて話にならない
何ですか、「潜在意識」って
潜在意識のせいにしとけば、もはや何だって本能習性が促す行動の全てが説明出来ているとでも思っているんでしょうか?
テロリズムやホロコーストであっても、潜在意識の中には意味があるとでも言うんでしょうか?
科学的には反証可能な民族主義者達の主張であっても、「民族浄化には潜在的意識の中には行動合理性が存在している。」とでも言うんでしょうか?
これらは、「説明のための説明。」に過ぎず、目的が科学的検証から逸脱して、単に「納得して気分的に満足感を得ること。」が目的になってしまっている
ヒトという種の生物は、気分的な安心や満足感を得ることで、思考を簡単に停止させてバカになる習性があります。そのため、気分的な「納得」さえ得られてしまえば、理論的根拠もない実証不能の観念であっても簡単に信じ込んで疑わなくなる原因となる
マイケル:サンデルの講義のように、悩ましい答のない問題を提示されて、倫理の本質を含まない問題であることにも気付かずに、気分的葛藤をしたり、悩んだりすることによって、あたかも自分の頭が良くなった、頭を使ったかのような錯覚に陥り、問題の本質を見失い、盲目的に誰かを信奉するようになる
そもそも、理科離れが叫ばれている昨今において。なぜ哲学や生物学だけが人気があるのでしょうか?
それは現在の哲学や進化生物学が、科学的検証から逸脱した観念論で終わってしまっているためであって。結局大衆迎合の域を脱していないからである
ヒトという種の生物でありさえすれば、潜在意識的に常に正しい行動が促されるように出来ている優秀な生物であるとでも思っておけば、バカな文科系大衆やマスコミは喜んで「素晴らしい」などという形容詞をつけて満足する
先天的習性というものは、あくまで環境依存的な「結果」でしかなく。特定環境下だけの行動を抽出して、先天的習性から人間としての社会性を立証可能だと言い張るのは、人間個人の自律的判断力を無視した、先天的本能習性万能論にしかなっていない
先天的本能習性というのは、徹頭徹尾「結果」である
従って、環境が異なれば簡単に意味のない行動に陥ることは珍しくなく。自然界においてもほんの僅かな環境変化に適応出来ずに大量繁殖などにより環境破壊に至る場合が非常に多く、自然というものは非常に脆いバランスの上に成り立っているのである
本当に進化の全てに意味があるというのであれば、あらゆる環境変化にも対応出来るはずであり、天敵がいなくなったら自動的に繁殖能力が下がるメカニズムが組み込まれていなければならないのだが。実際には繁殖力が先天的に強い生物は天敵がいなくなれば環境を喰い尽くすまで繁殖して環境ごと絶滅するのである
現在の生物の性質の全てが、絶対的に常に完璧で完全な最適化が終了しているわけでもなく。あくまで現状環境下においての暫定的な適応でしかない
現在の環境下において意味がない性質があったとしても、それが環境変化の際に生存や種の保存に役立つこともあるわけで、現在の環境下において説明のつかない性質があったとしても、それは別におかしなことでも何でもないのである
オカピというのはキリンと同じ祖先を持っていると言われ、首が長くても頭を下げた時に脳溢血にならないメカニズムを持っているという
オカピの首の長さであれば、別にこうしたメカニズムは必要ないのだが。首が長くなる以前からこうしたメカニズムが偶然備わっていたことによって、キリンは首が長くなる変異が起きても死ななかっただけである
こうした話に対して、生物学者達は、「遺伝子が予め予想して都合の良い変異をしていた。」などというオカルト全開の「説明」をしたがるのだが。一体誰が、どのようにして遺伝子を都合良く目的などのために変異させたと言うのであろうか?
ヒトであっても、その行動や思考が常に合理性に基づいた選択をしているわけでもないのに。何で単なる分子配列に意図的「目的」選択が可能だと言えるのであろうか?
こうした生物学のオカルト性というものは、「進化の全てには意味があるはずだ。」という実証不能の観念に基づいたこじつけが常態常識化しており。それに何の疑問も持たないバカだけが生物学者になっているためである
物理系の学者達の多くは、「生物学は訳がわからない。」と言うのだが。そもそも根本的な部分でとんでもない大間違いをしているからこそ、訳がわからないのであり。理論的には理解することが不可能な観念論の集合でしかないのである
「なぜ、そのような進化をしたのか。その進化にどのような説明が可能なのか。」を問うても無駄である。なぜなら進化の全ては常に「結果」以上の意味を持たないからである
ヒトはある程度バカな方が生存に適している
オカルト宗教であろうと、より多数派で権力を持った集団に迎合していた方が生存には有利だからである
子供によるイジメにおいても、圧倒的多数による傍観放置があるからこそ、暴力や差別が常態化してしまうのであって。こうした集団組織に対する迎合性や統率協調性という。生物学上の「社会性(社会形成習性)」が促す行動バイアスによって、ヒトは自動的、本能的にイジメが発生するようになっているのである
イジメや差別、暴力などが先天的に組み込まれている以上。ヒトの先天的な本能習性に人間性が組み込まれていることは立証不可能である
バカであれば、特定環境下における行動だけを抽出して先天的な本能習性から人間性が立証可能だと「思って」しまうのであろうが、これは論理的検証の出来ないバカだからとしか言いようがない
ヒトの大半は凡人でバカである
人類の文明というものは、ごく限られた人達の発見や発明によって成立したものであって。ヒトの全てが知的生命体というわけではないのである
地動説を唱えたガリレオ:ガリレイが、その当時の権力によって火炙りを宣告されたのも、大半のヒトがバカで論理的理解能力が欠如していた証拠である
遺伝子の研究で今では有名なメンデルも、生前は研究が認められることはなく、没後数十年経ってから再発見されることになったのである。そもそもメンデルの研究内容が理解できなかった時点で、遺伝子という概念自体がヒトの脳の意識にも存在していなかったことの証明であり。「遺伝子を残すため。」などという概念は、理論的証明によって初めて説明可能になったものであって。それ以前は意識の上はおろか、潜在意識の中にも存在していなかった概念なのである
だいたいネズミが交尾するのに、いちいち「種の保存のため」だとか考えているわけがない
メスを見てペニスを突っ込んでみたいから突っ込んでいるだけであって、その結果として繁殖につながったことが生存につながったとしても、それらは全て「結果」以上の意味はない
「メスを見ても興奮してペニスを突っ込もうとしない個体の遺伝子は残らない。」ただ、それだけの「結果」に過ぎないのに、どうして行動合理性を後からこじつける必要性があるのか?
ヒトの脳が肥大した理由の一つの「説明」として、「見た目がより幼い個体に性的興奮をすることによって、結果的に幼形成熟性が生じ、頭と共に脳も肥大した。」というのがある
初潮も迎えていない幼い女児に、性的興奮をしてしまうのは何故かと言えば。「祖先が外見上幼い個体を好んだために、幼い個体種への変異が促され、その結果外見上幼い個体に性的興奮をしてしまう種になった。」という「説明」が可能である
ところが、この「外見上幼い」という点がくせ者で、実年齢に関わらずに本当に幼い女児であっても性的興奮をしてしまうことが、ヒトという種の生物にはよくある
幼形成熟が促されるためには、成熟した女性でありながら外見上幼いことが求められるのだが。何せ先天的本能習性というのは、ただの「結果」でしかないので、実年齢に関係なく外見上幼なければ本当に幼ない女児でも構わないのである
性的な興奮を促されることを、「好き」と形容することがあるが。この漠然とした形容詞は、単なる脳内麻薬に起因する快楽を述べているに過ぎないからであり。繁殖行動として配偶相手を「好き」なのと、哺乳類の先天的習性として幼い子に対してかわいいので守ってあげたいという「好き」という感情がゴッチャになっているというのもある
哺乳類は子供を見るとかわいいという感情が生ずる習性があり、それが結果的に子育てという行動をも促すのだが。こうした感情というものは方向性がなく、イヌだろうがネコだろうが、しまいにゃ「ワニの子を振って泣き声がかわいい。」だとか言い出す始末である
おいらは虫が苦手な方であるが、3ミリ程の黄色い半透明のシャクトリ虫の子供が指の上で歩いているのを見てかわいいと感じたこともある
つまり、感情というものは合理的な意味や「説明」がなくても構わないものであって。進化的に全く説明のつかない行動を促したとしても何の問題もないものなのである
従って、幼い女児を見て性的に興奮してしまったとしても、その本能習性が促す行動バイアスや感情自体には意味がなく。勝手に「自分はロリコンで、先天的に人間として出来損ないだ。」などと思い込んで落ち込む必要性もなければ、「ヒトという種の生物は、より幼い個体を求めることを目的としている。」などというバカみたいなこじつけも必要ないのである
時折バカが「先天的な本能習性には抗うことが出来ない。」などと、自律的判断力を放棄するためのしょうもない言い逃れをしたがる奴がいるのだが。こういうバカが出てきてしまうのは生物学の進化理論自体が根底から間違っていることに起因しているのである
徹頭徹尾「結果」でしかない先天的本能習性に、どうして従わなければならないのであろうか?
それは一体誰の「目的」を満たすためのものなのか、考えたこともないのであろう
実際には「本能習性に抗えない。」のではなく、主観的に「本能習性に抗いたくない。」という欲望を正当化するための屁理屈こじつけに過ぎず。生物学が「本能習性には目的も意味も説明も出来なかった。」ことを認めれば、こういうバカも出て来なくなるのである
ニーチェの言う「超人」などというのも、自分の行動習性を事後正当化するための言い逃れに使えるために人気があるだけであって。ヒトの進化(変異)に目的もすったくれも最初から存在していないのである
「進化という変異に目的が存在するはずだ。」という生物学者達の妄想に基づいて、フランシス:ゴルトンの優生学理論は正当化され続けてしまった。これとニーチェの超人幻想が結び付くことによって、600万人ものホロコーストが引き起こされたのである
ナチス政権下においては断種政策も盛んに行われており、これもまた「進化」という結果を目的と履き違えた観念が原因である
ジャレド:ダイアモンドも含めて生物学者達というのは、本当は根本的に間違っていて論理的に何の答も出せない問題を提供し、学生達は何かを考え自分の頭が良くなったかのような錯覚に陥り、ジャレド:ダイアモンドの講義を主観的に「好き」になることで人気を得ているが。何で論理検証の出来ないバカ学生の主観的好き嫌いの多数決が科学的に正しいと言えるのであろうか?
マイケル:サンデルの講義でも養老孟司の講義でも同様だが、悩ましい問題を提供されて自分の頭が良くなったような錯覚に陥るからこそ、自分では「教祖」の言っていることの何が間違っているのかに気付かなくなるのである
洗脳状態のヒトというのは、決して自分が洗脳状態に陥っているとはつゆとも「思って。」いない
その強い「思い」込みこそが、自律的な論理検証性を阻害し、バカに陥るのである
この「思い」というのは、先天的な思考バイアスであり、本能習性が促す感情であり、これこそが無意識の源なのである
無意識が何なのかを識別できずに、意識の本質を認識できるわけがない
本論は、読者が自分自身の頭の悪さを認識することを目的としているため。サンデルやダイアモンドや養老のように気分が良くなったり、頭が良くなったような錯覚に陥って満足することが出来ない
科学や哲学というものは、本来そういうものなのである
自分の愚かさを知らずに頭が悪くなることあっても、頭が良くなることなどない
Ende;
大脳辺縁系によって促される先天的な行動習性というものは、「その行動をする習性を持った個体が結果的に生存に適していた。」ことによって淘汰された結果に過ぎず。生存や種の保存などの目的のために誰がしかの意図的選択によって遺伝子を都合良く書き換えたわけではなく、遺伝的な進化というものは徹頭徹尾「結果」であって、そこに意識的な選択としての「目的」が介在する余地は1ミリもない。
生物の特徴や性質が、生存や種の保存などに適応してきたのは、適応出来なかった圧倒的大多数の屍の上に成立する偶発的「結果」でしかなく。そこに誰の意識的「目的」意図や選択が介在する余地はない。
「生存」とか「種の保存」などといったものも、これらは生物の「結果」であって、結果以上の意味が存在するわけではない。
ジャレド:ダイアモンドは、生存や種の保存に適さない行動に対しては、「潜在意識の中には行動合理性がある。」などという、何の論理的立証もない実証不能の観念をこじつけており、もはや科学を逸脱したオカルト宗教にしかなっていない。
強姦などの暴力行為は、生存や種の保存にとっては有利に働くが。こうした行動をする個体の意識の中には生存だの種の保存だのといった観念があるわけではなく、先天的行動習性としてむやみやたらと交尾がしたいだけであって、繁殖に適さない幼い個体との交尾を行った後に殺害して証拠隠滅を謀るといった行動も見られ。こうした行動には何の合理的説明も不可能であり、ジャレド:ダイアモンドの発想に従えば、「強姦殺人を行うヒトの行動であっても、潜在意識の中には種の保存を目的とした行動である。」ということになってしまうのである。
こんなバカみたいな話を有り難がっているバカが多過ぎて話にならない
何ですか、「潜在意識」って
潜在意識のせいにしとけば、もはや何だって本能習性が促す行動の全てが説明出来ているとでも思っているんでしょうか?
テロリズムやホロコーストであっても、潜在意識の中には意味があるとでも言うんでしょうか?
科学的には反証可能な民族主義者達の主張であっても、「民族浄化には潜在的意識の中には行動合理性が存在している。」とでも言うんでしょうか?
これらは、「説明のための説明。」に過ぎず、目的が科学的検証から逸脱して、単に「納得して気分的に満足感を得ること。」が目的になってしまっている
ヒトという種の生物は、気分的な安心や満足感を得ることで、思考を簡単に停止させてバカになる習性があります。そのため、気分的な「納得」さえ得られてしまえば、理論的根拠もない実証不能の観念であっても簡単に信じ込んで疑わなくなる原因となる
マイケル:サンデルの講義のように、悩ましい答のない問題を提示されて、倫理の本質を含まない問題であることにも気付かずに、気分的葛藤をしたり、悩んだりすることによって、あたかも自分の頭が良くなった、頭を使ったかのような錯覚に陥り、問題の本質を見失い、盲目的に誰かを信奉するようになる
そもそも、理科離れが叫ばれている昨今において。なぜ哲学や生物学だけが人気があるのでしょうか?
それは現在の哲学や進化生物学が、科学的検証から逸脱した観念論で終わってしまっているためであって。結局大衆迎合の域を脱していないからである
ヒトという種の生物でありさえすれば、潜在意識的に常に正しい行動が促されるように出来ている優秀な生物であるとでも思っておけば、バカな文科系大衆やマスコミは喜んで「素晴らしい」などという形容詞をつけて満足する
先天的習性というものは、あくまで環境依存的な「結果」でしかなく。特定環境下だけの行動を抽出して、先天的習性から人間としての社会性を立証可能だと言い張るのは、人間個人の自律的判断力を無視した、先天的本能習性万能論にしかなっていない
先天的本能習性というのは、徹頭徹尾「結果」である
従って、環境が異なれば簡単に意味のない行動に陥ることは珍しくなく。自然界においてもほんの僅かな環境変化に適応出来ずに大量繁殖などにより環境破壊に至る場合が非常に多く、自然というものは非常に脆いバランスの上に成り立っているのである
本当に進化の全てに意味があるというのであれば、あらゆる環境変化にも対応出来るはずであり、天敵がいなくなったら自動的に繁殖能力が下がるメカニズムが組み込まれていなければならないのだが。実際には繁殖力が先天的に強い生物は天敵がいなくなれば環境を喰い尽くすまで繁殖して環境ごと絶滅するのである
現在の生物の性質の全てが、絶対的に常に完璧で完全な最適化が終了しているわけでもなく。あくまで現状環境下においての暫定的な適応でしかない
現在の環境下において意味がない性質があったとしても、それが環境変化の際に生存や種の保存に役立つこともあるわけで、現在の環境下において説明のつかない性質があったとしても、それは別におかしなことでも何でもないのである
オカピというのはキリンと同じ祖先を持っていると言われ、首が長くても頭を下げた時に脳溢血にならないメカニズムを持っているという
オカピの首の長さであれば、別にこうしたメカニズムは必要ないのだが。首が長くなる以前からこうしたメカニズムが偶然備わっていたことによって、キリンは首が長くなる変異が起きても死ななかっただけである
こうした話に対して、生物学者達は、「遺伝子が予め予想して都合の良い変異をしていた。」などというオカルト全開の「説明」をしたがるのだが。一体誰が、どのようにして遺伝子を都合良く目的などのために変異させたと言うのであろうか?
ヒトであっても、その行動や思考が常に合理性に基づいた選択をしているわけでもないのに。何で単なる分子配列に意図的「目的」選択が可能だと言えるのであろうか?
こうした生物学のオカルト性というものは、「進化の全てには意味があるはずだ。」という実証不能の観念に基づいたこじつけが常態常識化しており。それに何の疑問も持たないバカだけが生物学者になっているためである
物理系の学者達の多くは、「生物学は訳がわからない。」と言うのだが。そもそも根本的な部分でとんでもない大間違いをしているからこそ、訳がわからないのであり。理論的には理解することが不可能な観念論の集合でしかないのである
「なぜ、そのような進化をしたのか。その進化にどのような説明が可能なのか。」を問うても無駄である。なぜなら進化の全ては常に「結果」以上の意味を持たないからである
ヒトはある程度バカな方が生存に適している
オカルト宗教であろうと、より多数派で権力を持った集団に迎合していた方が生存には有利だからである
子供によるイジメにおいても、圧倒的多数による傍観放置があるからこそ、暴力や差別が常態化してしまうのであって。こうした集団組織に対する迎合性や統率協調性という。生物学上の「社会性(社会形成習性)」が促す行動バイアスによって、ヒトは自動的、本能的にイジメが発生するようになっているのである
イジメや差別、暴力などが先天的に組み込まれている以上。ヒトの先天的な本能習性に人間性が組み込まれていることは立証不可能である
バカであれば、特定環境下における行動だけを抽出して先天的な本能習性から人間性が立証可能だと「思って」しまうのであろうが、これは論理的検証の出来ないバカだからとしか言いようがない
ヒトの大半は凡人でバカである
人類の文明というものは、ごく限られた人達の発見や発明によって成立したものであって。ヒトの全てが知的生命体というわけではないのである
地動説を唱えたガリレオ:ガリレイが、その当時の権力によって火炙りを宣告されたのも、大半のヒトがバカで論理的理解能力が欠如していた証拠である
遺伝子の研究で今では有名なメンデルも、生前は研究が認められることはなく、没後数十年経ってから再発見されることになったのである。そもそもメンデルの研究内容が理解できなかった時点で、遺伝子という概念自体がヒトの脳の意識にも存在していなかったことの証明であり。「遺伝子を残すため。」などという概念は、理論的証明によって初めて説明可能になったものであって。それ以前は意識の上はおろか、潜在意識の中にも存在していなかった概念なのである
だいたいネズミが交尾するのに、いちいち「種の保存のため」だとか考えているわけがない
メスを見てペニスを突っ込んでみたいから突っ込んでいるだけであって、その結果として繁殖につながったことが生存につながったとしても、それらは全て「結果」以上の意味はない
「メスを見ても興奮してペニスを突っ込もうとしない個体の遺伝子は残らない。」ただ、それだけの「結果」に過ぎないのに、どうして行動合理性を後からこじつける必要性があるのか?
ヒトの脳が肥大した理由の一つの「説明」として、「見た目がより幼い個体に性的興奮をすることによって、結果的に幼形成熟性が生じ、頭と共に脳も肥大した。」というのがある
初潮も迎えていない幼い女児に、性的興奮をしてしまうのは何故かと言えば。「祖先が外見上幼い個体を好んだために、幼い個体種への変異が促され、その結果外見上幼い個体に性的興奮をしてしまう種になった。」という「説明」が可能である
ところが、この「外見上幼い」という点がくせ者で、実年齢に関わらずに本当に幼い女児であっても性的興奮をしてしまうことが、ヒトという種の生物にはよくある
幼形成熟が促されるためには、成熟した女性でありながら外見上幼いことが求められるのだが。何せ先天的本能習性というのは、ただの「結果」でしかないので、実年齢に関係なく外見上幼なければ本当に幼ない女児でも構わないのである
性的な興奮を促されることを、「好き」と形容することがあるが。この漠然とした形容詞は、単なる脳内麻薬に起因する快楽を述べているに過ぎないからであり。繁殖行動として配偶相手を「好き」なのと、哺乳類の先天的習性として幼い子に対してかわいいので守ってあげたいという「好き」という感情がゴッチャになっているというのもある
哺乳類は子供を見るとかわいいという感情が生ずる習性があり、それが結果的に子育てという行動をも促すのだが。こうした感情というものは方向性がなく、イヌだろうがネコだろうが、しまいにゃ「ワニの子を振って泣き声がかわいい。」だとか言い出す始末である
おいらは虫が苦手な方であるが、3ミリ程の黄色い半透明のシャクトリ虫の子供が指の上で歩いているのを見てかわいいと感じたこともある
つまり、感情というものは合理的な意味や「説明」がなくても構わないものであって。進化的に全く説明のつかない行動を促したとしても何の問題もないものなのである
従って、幼い女児を見て性的に興奮してしまったとしても、その本能習性が促す行動バイアスや感情自体には意味がなく。勝手に「自分はロリコンで、先天的に人間として出来損ないだ。」などと思い込んで落ち込む必要性もなければ、「ヒトという種の生物は、より幼い個体を求めることを目的としている。」などというバカみたいなこじつけも必要ないのである
時折バカが「先天的な本能習性には抗うことが出来ない。」などと、自律的判断力を放棄するためのしょうもない言い逃れをしたがる奴がいるのだが。こういうバカが出てきてしまうのは生物学の進化理論自体が根底から間違っていることに起因しているのである
徹頭徹尾「結果」でしかない先天的本能習性に、どうして従わなければならないのであろうか?
それは一体誰の「目的」を満たすためのものなのか、考えたこともないのであろう
実際には「本能習性に抗えない。」のではなく、主観的に「本能習性に抗いたくない。」という欲望を正当化するための屁理屈こじつけに過ぎず。生物学が「本能習性には目的も意味も説明も出来なかった。」ことを認めれば、こういうバカも出て来なくなるのである
ニーチェの言う「超人」などというのも、自分の行動習性を事後正当化するための言い逃れに使えるために人気があるだけであって。ヒトの進化(変異)に目的もすったくれも最初から存在していないのである
「進化という変異に目的が存在するはずだ。」という生物学者達の妄想に基づいて、フランシス:ゴルトンの優生学理論は正当化され続けてしまった。これとニーチェの超人幻想が結び付くことによって、600万人ものホロコーストが引き起こされたのである
ナチス政権下においては断種政策も盛んに行われており、これもまた「進化」という結果を目的と履き違えた観念が原因である
ジャレド:ダイアモンドも含めて生物学者達というのは、本当は根本的に間違っていて論理的に何の答も出せない問題を提供し、学生達は何かを考え自分の頭が良くなったかのような錯覚に陥り、ジャレド:ダイアモンドの講義を主観的に「好き」になることで人気を得ているが。何で論理検証の出来ないバカ学生の主観的好き嫌いの多数決が科学的に正しいと言えるのであろうか?
マイケル:サンデルの講義でも養老孟司の講義でも同様だが、悩ましい問題を提供されて自分の頭が良くなったような錯覚に陥るからこそ、自分では「教祖」の言っていることの何が間違っているのかに気付かなくなるのである
洗脳状態のヒトというのは、決して自分が洗脳状態に陥っているとはつゆとも「思って。」いない
その強い「思い」込みこそが、自律的な論理検証性を阻害し、バカに陥るのである
この「思い」というのは、先天的な思考バイアスであり、本能習性が促す感情であり、これこそが無意識の源なのである
無意識が何なのかを識別できずに、意識の本質を認識できるわけがない
本論は、読者が自分自身の頭の悪さを認識することを目的としているため。サンデルやダイアモンドや養老のように気分が良くなったり、頭が良くなったような錯覚に陥って満足することが出来ない
科学や哲学というものは、本来そういうものなのである
自分の愚かさを知らずに頭が悪くなることあっても、頭が良くなることなどない
Ende;