現在の学校教育では「イジメられないように空気を読め」と教育しているそうだが
これはつまりイジメる方の問題点は無視して「イジメられる方が空気読まないから悪い」と言っているのと同義である
本来は「空気」などという多数派同調性に流されることなくイジメをやらないことの方が重要であり
イジメを行うような生徒の方を改善すべきなのだが
その場限りに学級内の「空気」に迎合同調してイジメられないようにしておけば良いと言っているに過ぎない
それなら「東京電力社内で原発の津波に対する危険性を放置しておいた方が社内で居づらくならないので放置しておいた方が無難」なのと同じことである
こういう非合理な教育をしているから様々な「人災」が後を絶たないのである
イジメがなぜ起こるのかについての構造(先天的習性など)についての説明は一切行わずに イジメが起きるような集団多数に迎合さえしておいてくれれば教師としては「俺が面倒なことにならずに済むので迎合しておけ。」と言っているだけであり 極めて社会的に無責任である
「イジメについての構造や心理については義務教育の段階では難し過ぎるので後回しにしている」などという言い逃れをするバカもいるが
難解極まりない入試問題で生徒を選別しておいて人間性や倫理といった人間としての根幹に関わることは「難しいから後回し」というのは本末転倒である
その上「道徳」と称して気分的な「感謝」だの「かわいそうだから」などといった観念論ばかりを持ち出して生徒を都合の良いように誘導しようとするのだが
生徒がどのように「思う」のかを大人や他人が制御できるわけではない
どう「思った」かどうかで短絡的に行動が決定してしまう理性の欠如こそが問題の本質であり
その場限りの「思い」といった情動に対して自律的に行動を抑制する能力を身につけることの方が重要なのだが
現在の義務教育ではこうした本質的な人間性の構築については「はぐらかし」ているだけである
論理的思考の苦手な文科系大衆観念に基づいて「道徳」教育をしているからこそ、こうした不毛な実証不能の観念論ばかりが先行してしまうのであって
主観的「感想」に過ぎない「思い」などに頼ることがそもそも大間違いなのである
「思った」だけでは「考え」ではない
「あいつ気にいらねぇ。」といった「思い」の強度程度で行動が決定してしまうからイジメなどという野蛮行為が発生することになるのである
にも関わらず、「道徳」教育では「かわいそうだと思いなさい」などと、主観的感覚としての「思い」を強制的に誘導してどうにかなると思っているらしいのである
これはもう脳が壊れているとしか考えられない
ヒトという種の生物の脳には先天的な欠陥があり、その欠陥を欠陥であると自覚認識することによって、いわばハードウェアのバグをソフトウェアでリカバリーすることが可能であるにも関わらず
こうした理論的説明や改善策といったものを一切せずに理論的に不可能な実証不能の観念でごまかすことしか現在の教育はしていない
人間性の根幹は「自律的な社会的責任判断力」にある
そして「自律とは自発性の中にあり、他にはない。」のも定義である
したがって人間性にとって最も重要なのは自発性であり、生徒個人の主体性を大切にすることが生徒個人の人格形成の基本なのである
「自分の主体性を誰も認めてくれないのに、どうして他人の主体性を認めなくてはならないのか。」ということである
他人との違いや主体的意向といったものを認められる心の広さを獲得するためには、先ず当人が他人(特に親や教師といった大人達)から他人との違いや主体性を認められることが必要なのである
単に「年齢が上なら敬え」などといったバカげた話を強要しても、「それなら犯罪者でも目上なら敬うのかよ。」と返されるのがオチであろう
子供はそんなにバカではない
泥酔して通りすがりの女子のオッパイ揉んでる男を敬っている場合ではなく、そんな奴は首根っこ捕まえて警察に突き出すべきなのは年齢とは無関係である
「親に感謝しろ。」などという話も、家庭環境は様々で虐待されている子供にまで感謝を強要するのは支離滅裂というものである
家庭環境によっては酷い家庭内ヒエラルキーにさらされている子供もいるのであって、そういう生徒が学級内で家庭内のストレスを解消するためにイジメを行っている場合というのもある
逆に 家庭内で甘やかされている場合には服従欲求(マゾヒズム)が満たされない不満を解消する形で威圧的行動を採るバカはイジメに協調的に同調する場合というのもある
共に先天的な社会形成習性が促す行動バイアスによってイジメなどの差別や暴力が発生「してしまう」のである
イジメというのは基本的に無意識に行っているものであって、合理性があるわけではない
故に殺人事件にまで発展してしまうこともある
一度始めたイジメは 徹底的に行わないといられなくなる中毒性や強迫観念があるためだ
何せ先天的行動バイアスの暴走であるから これを止めるためには強い自発的意志が必要不可欠である
こうしたヒトの先天的欠陥に対してリカバリーするパッチは自発的理性であり 自律的な社会的責任判断力である それは決して大人などから強制されて身につくものではなく自発的に自覚するものなのである
「道徳」の学習時間で強制的に「親や教師といった大人に感謝しろ。」と強要するべきものではなく、「子供から感謝されるような大人とはどのようなものであるか。」を親教師が常に考え続けるべきものなのである
「俺に感謝しろ」と述べていたらただのバカでしかなかろう
道徳の教科書には直接的に「大人に感謝しろ。」とは書いていないのだが、表現が遠回しなだけで言っている意味はそういうことである
そんなバカな大人に感謝を感じる程バカな子供がいたら むしろその頭の悪さの方が大問題である
Ende;
これはつまりイジメる方の問題点は無視して「イジメられる方が空気読まないから悪い」と言っているのと同義である
本来は「空気」などという多数派同調性に流されることなくイジメをやらないことの方が重要であり
イジメを行うような生徒の方を改善すべきなのだが
その場限りに学級内の「空気」に迎合同調してイジメられないようにしておけば良いと言っているに過ぎない
それなら「東京電力社内で原発の津波に対する危険性を放置しておいた方が社内で居づらくならないので放置しておいた方が無難」なのと同じことである
こういう非合理な教育をしているから様々な「人災」が後を絶たないのである
イジメがなぜ起こるのかについての構造(先天的習性など)についての説明は一切行わずに イジメが起きるような集団多数に迎合さえしておいてくれれば教師としては「俺が面倒なことにならずに済むので迎合しておけ。」と言っているだけであり 極めて社会的に無責任である
「イジメについての構造や心理については義務教育の段階では難し過ぎるので後回しにしている」などという言い逃れをするバカもいるが
難解極まりない入試問題で生徒を選別しておいて人間性や倫理といった人間としての根幹に関わることは「難しいから後回し」というのは本末転倒である
その上「道徳」と称して気分的な「感謝」だの「かわいそうだから」などといった観念論ばかりを持ち出して生徒を都合の良いように誘導しようとするのだが
生徒がどのように「思う」のかを大人や他人が制御できるわけではない
どう「思った」かどうかで短絡的に行動が決定してしまう理性の欠如こそが問題の本質であり
その場限りの「思い」といった情動に対して自律的に行動を抑制する能力を身につけることの方が重要なのだが
現在の義務教育ではこうした本質的な人間性の構築については「はぐらかし」ているだけである
論理的思考の苦手な文科系大衆観念に基づいて「道徳」教育をしているからこそ、こうした不毛な実証不能の観念論ばかりが先行してしまうのであって
主観的「感想」に過ぎない「思い」などに頼ることがそもそも大間違いなのである
「思った」だけでは「考え」ではない
「あいつ気にいらねぇ。」といった「思い」の強度程度で行動が決定してしまうからイジメなどという野蛮行為が発生することになるのである
にも関わらず、「道徳」教育では「かわいそうだと思いなさい」などと、主観的感覚としての「思い」を強制的に誘導してどうにかなると思っているらしいのである
これはもう脳が壊れているとしか考えられない
ヒトという種の生物の脳には先天的な欠陥があり、その欠陥を欠陥であると自覚認識することによって、いわばハードウェアのバグをソフトウェアでリカバリーすることが可能であるにも関わらず
こうした理論的説明や改善策といったものを一切せずに理論的に不可能な実証不能の観念でごまかすことしか現在の教育はしていない
人間性の根幹は「自律的な社会的責任判断力」にある
そして「自律とは自発性の中にあり、他にはない。」のも定義である
したがって人間性にとって最も重要なのは自発性であり、生徒個人の主体性を大切にすることが生徒個人の人格形成の基本なのである
「自分の主体性を誰も認めてくれないのに、どうして他人の主体性を認めなくてはならないのか。」ということである
他人との違いや主体的意向といったものを認められる心の広さを獲得するためには、先ず当人が他人(特に親や教師といった大人達)から他人との違いや主体性を認められることが必要なのである
単に「年齢が上なら敬え」などといったバカげた話を強要しても、「それなら犯罪者でも目上なら敬うのかよ。」と返されるのがオチであろう
子供はそんなにバカではない
泥酔して通りすがりの女子のオッパイ揉んでる男を敬っている場合ではなく、そんな奴は首根っこ捕まえて警察に突き出すべきなのは年齢とは無関係である
「親に感謝しろ。」などという話も、家庭環境は様々で虐待されている子供にまで感謝を強要するのは支離滅裂というものである
家庭環境によっては酷い家庭内ヒエラルキーにさらされている子供もいるのであって、そういう生徒が学級内で家庭内のストレスを解消するためにイジメを行っている場合というのもある
逆に 家庭内で甘やかされている場合には服従欲求(マゾヒズム)が満たされない不満を解消する形で威圧的行動を採るバカはイジメに協調的に同調する場合というのもある
共に先天的な社会形成習性が促す行動バイアスによってイジメなどの差別や暴力が発生「してしまう」のである
イジメというのは基本的に無意識に行っているものであって、合理性があるわけではない
故に殺人事件にまで発展してしまうこともある
一度始めたイジメは 徹底的に行わないといられなくなる中毒性や強迫観念があるためだ
何せ先天的行動バイアスの暴走であるから これを止めるためには強い自発的意志が必要不可欠である
こうしたヒトの先天的欠陥に対してリカバリーするパッチは自発的理性であり 自律的な社会的責任判断力である それは決して大人などから強制されて身につくものではなく自発的に自覚するものなのである
「道徳」の学習時間で強制的に「親や教師といった大人に感謝しろ。」と強要するべきものではなく、「子供から感謝されるような大人とはどのようなものであるか。」を親教師が常に考え続けるべきものなのである
「俺に感謝しろ」と述べていたらただのバカでしかなかろう
道徳の教科書には直接的に「大人に感謝しろ。」とは書いていないのだが、表現が遠回しなだけで言っている意味はそういうことである
そんなバカな大人に感謝を感じる程バカな子供がいたら むしろその頭の悪さの方が大問題である
Ende;