書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○メモ4。

2018年05月08日 17時15分35秒 | 日記
SIGMA 16mm F1.4だって



APS-Cサイズセンサーで24㎜相当の画角になる

ただ例によってSONYと4/3ミラーレス限定

凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹

ちょっとためになる光学勉強会 -シグマ光機

ミラー(金属ミラー)

ミラー(誘電体多層膜ミラー)

面精度

レンズいろいろ

焦点距離とバックフォーカス

凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹

うふふ


このツィートを選んだ担当者のセンスも素敵

凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹

日本観測史上最大の雹(ひょう)は直径29.5㎝ 重さ3,400g

熊谷地方気象台

大正6年6月29日 熊谷の記録に残っていて、世界的に見ても最大級らしい

間違いなく家とか車がぶっ壊れるだろうな

人に直撃したら…

凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹凸凹

大森玲子的なものなんだけど


光線状態が妙に良くて写真として気に入っている

60cmドール用ヘッドのサイズなんだけど

欲しい人いるんかな




Ende;
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○長文に追加。

2018年05月08日 16時31分15秒 | 意識論関連
道徳教育における「可哀相だからイジメをしない」という話は、「可哀相だと思わなければイジメをする。」という結論にしかならない

気分的に可哀相かどうかに関わらず、何をすべきで、何をすべきでないのかを自律的に選択出来る理性を養うことが重要なのだが、なにより最も重要なのは論理検証の難解さではなくて、「自律」の方が基盤となるのである

感情に左右されずに自律的に感情に逆らい抗い合理性のある行動選択を行うことが人間性なのであって。気分感情的に「可哀相だからイジメはやめましょう」などという話で子供を誘導しようなどという現在の道徳教育の方針は根本的に大間違いである

先天的に組み込まれた行動習性という無意識に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択を行うことが人間性の本質であって。先天的にマゾヒズムが強かろうが、ロリコンが強かろうが、それが人間としての価値を決めるわけではない

猛暑で暑くてたまらないからといって、アイスクリームの冷蔵庫に寝転がりたくなる心情自体は人畜無害なものであって。その気分感情が行動に直結しているから、ただのバカなのである

ロリコン癖が強くて、美形の女子小学生を見るとヤリたくて仕方ない衝動に駆られても。その衝動自体は別に人畜無害で、夜のオカズにしている分には何の社会的問題にはならないのである

たとえ女性の大半から「気持ち悪い」と思われようが、それは女性達の主観的感想であって、社会的に人畜無害であることが覆えるわけではないし、人間性自体とも無関係である

自分の気分感情に流されることなく、自律的に社会的責任判断選択を行うという現時点における選択可能性にこそ、人間性が宿っているのであって。美形の女子小学生を見て顔が赤くなっちゃっても、そんなものは「恥ずかしい」だけで社会的には何の害も及ぼすことはないのである

そもそも高校生が小学生見て性的興奮をするのはロリコンではなく、そのくらいの年齢差など成人すれば何の問題にもならない

むしろ、気分的に怖いからといって東電社内で原発の津波に対する脆弱性を放置する行動の方が問題だと言っているにも関わらず。気分感情論で物事を選択させようとする方が圧倒的に無責任なのである

道徳の教科書に載っている話を読んで、その場限りに「可哀相だからイジメをしたくない」という気分になっただけでは人間性を獲得したことにはならず。たとえ「こいつムカつくわー」と思ったとしてもイジメは行わないという自制心の方が重要なのである

「たかし君は涙が出ました。」だから何?

「俺は何とも思わんのだが」で終わる話に意味なんかなかろうて

世の中、春名風花ちゃんの親御さんみたいに子供の自主性や主体的意欲に全面的に協力してくれる人ばっかじゃないから、親に感謝出来る子供しかいないわけでもないので。同じ話で感動しないから人間として出来損ないの証明にはならないので、道徳の教科書というのは糞の役にも立たない文科系大衆観念上の「お花畑」でしかない

どんなに強く「思って」も、合理性のない話は社会的に役に立たないのである

「思い」は「考え」ではないからだ

自律的に社会的責任判断が出来る人間性を獲得するために必要なものとは、自発的に物事を検証できる主体的意欲や思考であり。これは子供に限らずヒト全般が本来持っているはずの特性なのだが、文科系大衆観念に基づいた多数派迎合性や同調圧力こそが自発的思考を抑圧し、多数派や権威に従順なだけの無責任なただのバカを大量生産してしまうことになるのである

「空気を読んで、イジメられないようにしとけよ。」などという世渡り術を「学習」させても人間性は養われることはなく。ただ教師が面倒臭い問題に対処しなくて済むだけの「問題の先送り」とか「はぐらかし」にしかならないのである

正確に明文化出来ない世渡り術を、一体どうやって「学べ」ば良いというのであろうか

あまりにバカげていて語るにも足らない



Ende;
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○長文。

2018年05月08日 14時38分09秒 | 意識論関連
ヒトという種の生物には、先天的に社会を形成し集団統率的に協調行動を採る習性がある

しかし、先天的行動習性である以上、特定場面における有用性だけを抽出して意識的「目的」行動選択だとみなすのは科学的見解にはならない

先天的行動習性というものは、特定環境下においては何らかの効用があるとみなすことは出来るが。行動習性である以上環境条件が異なれば無意味であったり、逆効果になる場合もある

そもそも先天的行動習性というものは、自己選択不可能な遺伝的に組み込まれた無意識な行動バイアスであって。個体当人の意識的目的行動選択とは無関係なものである

大衆観念上では、進化というものは全て目的のために選択されたものだという錯覚があるが。自らの遺伝的性質を産まれる前から選択することなど不可能であり、どんなに個体当人が考えようが願おうが努力しようが呪おうが遺伝的進化には無関係なのである

遺伝的進化というものは、偶発的変異に対して淘汰圧力が働いた「結果」以上の何物でもない

進化の結果だけをみれば、あたかも生存や種の保存などにとって有利な性質の多くが遺されてはいるのだが。これは生存や種の保存にとって有利な遺伝的性質を持った個体だけに淘汰された「結果」に過ぎず、遺伝的進化の素となる突然変異自体はランダムに起きるものであり、方向性も合理性も存在しないのである

遺伝的進化が起きる過程というものには、合理的な目的行動選択が介在する余地はなく、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。」的な膨大な失敗(絶滅)の末に起きるものであり、遺伝的進化の「結果」にも目的など存在しないのである

従来、生物学においては、「生物の目的は、生存や種の保存である。」などと本気で信じ込まれてきたが。理論科学的に検証すれば、「結果的に生存しているものを生物と分類している。」に過ぎないのである

ジャレド:ダイアモンドは、「生存などにとって不利な行動であったとしても、潜在意識には目的があります。」と述べたが。これは従来の生物学上における遺伝的進化というものを万能の願望器かと錯覚が作り出した妄想である

先天的な行動習性の全てが常に生存にとって有利に働く証明はなく。あくまで特定環境下において有利に働く行動習性であっても、環境変化にはむしろ追従出来ずに生存にとって不利に働く可能性は充分にある

糖質や脂肪や塩分が少ない環境下においては、これらの栄養素を率先して摂取しようとする習性が生存につながるとは言えるが。むしろ環境変化によってこうした習性は生存にとってはマイナスに働くことになる

このように先天的行動習性というものは、機械的シーケンシャルに働く条件反射的で無意識なものであり。それゆえ環境変化に対しては柔軟に変更融通することの出来ない厄介なものでもある

遺伝的進化というものは、あくまで強力で過酷な淘汰圧力によって特定の性質を持った個体だけが生き残るような環境がなければ起きないものであり。ヒトが作る社会のようなぬるま湯環境で起きるようなものではなく、リチャード:ドーキンスによる「利己的な遺伝子」などの話は、文科系大衆が勝手に「素晴らしい」などと形容しているだけの妄想やお伽話に過ぎず。実際にはこの40年間全く何の科学的応用性も立証されてはいない

特定環境下において利他的行動が観察できたとしても、それがヒトが人間性を常に発揮することの論証になど一切ならない

振り込め詐欺が仲間に食事をおごったからといって、振り込め詐欺の人間性を立証したことにはならないし。凶悪な殺人集団の構成員を鋼鉄とポリカーボネートの檻の中に閉じ込め、彼らがどのような行動を採ったとしても、既に行われた凶悪行動の反証には全くならない

松沢哲郎が予測した「先天的行動習性から、人間としての社会性の立証可能性」というものは、最初から理論的には立証不可能な嘘でしかないのである

ところが論理的思考の苦手な大衆マスコミの大多数は、従来の生物学の根本的間違いにすら気づくことなく、観念的に「素晴らしい」などと称して文化功労賞まで出す始末である

もはや「脳みそ壊れているの?」としか思えず、説明する気力すら削がれるのだが。私が説明しないことには誰も自発的に考えようともしないようなので、仕方なく説明を続けているのである

もういい加減うんざりだわ

 ◇

従来の生物学においては、先天的行動習性としての社会性(Sociality)を、短絡的に人間としての社会性と混同してきた

先天的な社会を形成する習性というものは、先天的習性である以上シーケンシャル機械的に発揮されるため、暴力団や振り込め詐欺集団、テロリストやホロコーストを実行する独裁政権でも発揮されるものでもある

子供のイジメやヘイトスピーチでも同じように発揮されるし、暴徒というのも環境依存的に発生するメカニズムは同様である

「集団心理」というのは、「皆でやれば、怖くない。」という、気分感情が促す安心感が促すものであり。「怖いか、怖くないか。」という気分によって生ずるものである

ヒトという種の生物は、先天的に怖いことはやりたがらないし、怖くなくて安心満足が得られる行動は率先してやろうとする。

まあ、当たり前の話だわな

だが、怖い相手に服従し、結果的に暴力的集団組織に荷担したり、傍観放置することによってイジメや差別といった行動を採るのは。個人に自律的な社会的責任判断選択能力がない幼稚な行動である

暴力的で威圧的な集団組織には逆らわず、傍観放置しておいた方が個人の生存にとっては有利な選択であろう

ところが文科系大衆の多くや哲学者のほとんど全員は、こうした目先の個人的生存こそを「一大事」などと称して、「死んだらそれでおしまい」などと思考停止に陥れ、人間としての社会的責任判断を二の次にしてはぐらかすのである

一応言っておくが死なないヒトはいないのである

無責任に原発の津波に対する脆弱性を認識しながら傍観放置しておいた方が東電社内では「生きやすい」だろうが、その人生は人間としてクズである

人間性や倫理の本質とは、「個人が自律的に社会的責任を負う。」ことであって、これを先天的行動習性というシーケンシャルで機械手続き的条件反射行動バイアスで立証することなど構造原理的に最初から不可能なのである

倫理の話で思い出されるのは、マイケル:サンデルがやたらと持ち出す「トロッコ問題」の話なのだが。「一人殺すか、十人殺すか。」という話に倫理の本質は含まれておらず。バカな学生や大衆の多くは、「悩んだ」ことを「考えた」ことと錯覚し、あたかも自分の頭が良くなったかのような錯覚に陥り満足し、その満足感からサンデルを好きになり、盲目的に信頼するようになるのである

自らの頭の悪さを認識せずに頭が良くなることはない

ヒトは、自分の頭の悪さを認識させられると気分が悪くなる。そのため、ヒトの多くは自分の頭が悪いと認識させられるような話を忌み嫌い、訳のわからぬ屁理屈をでっちあげて聞かなかったことにする

ヒトというのはバカでいた方が気分が楽なのである

これは先天的な欠陥であり、受け入れざるを得ない不条理でもある

実存主義の「吐き気」とは、これを受け入れるための通過儀礼のようなものであろう

人は「即自存在」ではないが故に「即自存在」化を求めるとジャン:ポール:サルトルは述べたが。既に存在している自己というものが自己選択を介していない「即自存在ではない」状態であるが、現時点においては選択可能性が存在することが「即自存在」化(本質的自己)の追求なのである

ちょっと難しいかしら

平たく説明しとこうね

ヒトは自分の遺伝子を選択出来ない

産まれてくる以前に決定している遺伝的性質を、自分では選択することが出来ないのは構造原理的なものであり、動かしようがない

その選択不可能な遺伝的性質に基づいて構成された脳もまた、自己自身では選択不可能なものであり。その脳からわいてくる感情や好き嫌いの類も自己の本質の証明にはならない

この話をしだすと、短絡的に「じゃあ、自由意思など存在しないんだな。」と勝手な解釈をして思考停止で満足したがるバカが出てくるので面倒臭いが否定しておく

先天的な脳の性質によって促される気分感情に選択可能性はないが、どの気分感情を優先するかは選択可能性が存在するのである

過去の選択は今更変更出来ないが、現時点においては選択可能性は開かれている

この現選択可能性こそが、自己の本質であり、意識の本質なのである

既に組み込まれた気分感情や主観的好き嫌いという無意識に促されてくるバイアスに抗い、広い視野に立脚した統合的論理検証によって慎重に導き出された選択が、自己の本質的意識なのである

凶悪殺人犯を短絡的に「死刑にしちまえ!」と、怒鳴り散らしておけば満足だろう

しかし、今育っている途中の子供達の中から凶悪犯罪者を生み出さないために必要なことは、目先の凶悪犯の死刑ではないことは明らかである

どのような凶悪犯であろうとも、かつては子供だったのであり、本来「社会の財産」だったのである

凶悪犯を生み出してしまった社会全体の責任というものも存在するのであり、ただ特定の犯人だけを悪者にしておけば凶悪殺人事件が起きなくなるという短絡的で無責任な話ではないのである

自己の脳の短絡性を認識し、いかにバカなのかを認知出来なければ、バカは治らない

ややこしいことに、ヒトの多くは多数派を短絡的に「正常」だと錯覚する習性があるため。多数派意見に同調することを「共感性が高い。」と称して人間性か何かと勘違いしている場合が非常に多いが、それは芸術家の類が人気取りのために必要な世間的成功の話であって、あくまで利己性以上の意味はない



 ■進化に目的はない

従来の生物学においては、進化というものは何らかの目的に基づいて自ら「進化した」という表現がまかり通っていたが。これは進化というものに対する大衆観念的妄想にもとづいた嘘でしかない

遺伝的進化というものは、誰の目的意思も介在する余地はなく、偶発的変異に対して偶発的淘汰圧力がかかった「結果」でしかないからだ

従来生物学においては「○○のために進化させた」などという表現を平気で行っていたが、自らの遺伝的性質を意図的に「進化させる」ことなど原理的に不可能であり。これは行動習性においても言えることである

ヒトに限らずイヌなどにも見られる先天的な社会形成習性というものが、結果的に特定環境下において生存や種の保存にとって有利に働いた結果、遺伝的に組み込まれているわけだが

こうした社会形成習性というものは短絡的に人間性や知能の本質の論証になど全くならない

文科系大衆観念上では、先天的な習性が生存や種の保存などに適した進化をしたことを、「賢い」などと形容することがあるが。これは進化というものが意識目的行動選択によってなされたものであるという非科学的妄想に基づいた錯覚でしかない

昆虫の擬態を「賢い」などと形容することがあるが、擬態というのはあくまで偶発的変異に対して「より枯れ葉などに似ている個体以外が淘汰された結果」でしかなく、こうした進化には誰の「考え」も介在する余地はなく、論理的には誰も「賢く」などない

のべつまくなし様々な形態に変異した中で、偶発的に枯れ葉などにより似ている姿をした個体だけが喰われることなく残っただけであって、こうした進化の過程には何の目的意図も「考え」も介在していないのである

これは先天的な遺伝的進化の全てに該当する話で、たとえヒトの社会形成習性であっても同じことである

ヒトは、目的行動のために集団組織的に協調行動を採ることはあるが。習性としての社会形成には目的がなく、イジメやヘイトスピーチ、暴力団などの無意味な集団組織を形成することもしばしばである

イジメには合理的に選択された目的がないため、時に殺人にまで発展することがある

では、なぜ殺人までしなければならないのか。それは集団を形成していることが気分的に安心満足であるため、集団形成そのものが目的化してしまうために生ずる暴走である

イジメというのは、イジメ自体が目的ではなく、集団的にイジメを行う組織を形成して協調的にイジメを行うことによって、集団内部のヒエラルキーや順位序列を決定することで、気分的に安心満足するという先天的習性が促す行動バイアスの結果でしかない

そのため、集団の序列や規律命令系統を維持するためには、「バカにされたくない。」とか「ナメられたくない。」という強迫観念によって、目的や合理性など全くなくてもイジメを過激化させなくてはならなくなり。結果的に殺人にまで発展暴走してしまうのである

なにせ先天的な行動習性であるため、目的や合理性に考えが及ばなければ歯止めがかかることなく中毒のようにイジメを過激化させなくてはならなくなるのである

イジメという暴力を基準に形成された集団組織であるため、暴力性が暴走するのは必然とも言える

社会形成習性を満足させるために集団組織を形成維持することが優先されるため、何のためにイジメを行っているのかについての考えなど全くなく。理性という歯止めが一切効かないのである

ヒトは威圧的で暴力的な相手に逆らうことが面倒臭いため、とりあえず目先の暴力的相手には逆らわずに迎合しておくことが少なくない

しかし、こうした便宜的迎合というものは、暴力的な相手を認証することに結果的になってしまうため、より暴力的な個体を中心としたヒエラルキーを形成してしまう原因でもある

自然界における野生動物であれば、捕食においてこうした暴力的集団組織は生存価にとって有利に働くとは言えるが。ヒトが作り出した社会においては独裁状態に陥る要因ともなってしまう

ことほど左様に、先天的習性というものは特定環境下において生存価にとって有利に働くことはあっても、それが常にあらゆる環境条件においても有利に働く保証など一切なく。あくまで機械手続き的な条件反射として組み込まれた「習性」に過ぎず、これに合理性のある「目的」などないのである

「生存価にとって有利に働いた」のも所詮は「結果」であって、別に誰かが目的意識に基づいて選択したようなものでは一切ない

であるからして、ヒトの先天的な社会形成習性であっても、それがたとえ生存価にとって有利に働いたからといって、これが常に自動的に「正しい結果」を導いてくれるわけでも何でもなく。場合によっては暴力集団の暴走を招く原因ともなるのである

しかし、暴力集団が「怖い」からといって看過しておけば、暴力集団が社会を支配し独裁状態に陥るのは当たり前の結果なので。合理的目的行動選択としては、暴力集団には従わずに合理性のある組織的協調行動を選択するわけだが。独裁状態の社会では、こうした合理的行動選択は個体の生存価には不利に働くことにもなる

ヒトの脳に限らず、嫌な体験をすれば、ヒトは「嫌な思いを何度もしたくはない。」という感情が働くため。暴力的独裁状態に迎合し傍観放置するようになるのも、先天的習性が促す行動バイアスでもある

「嫌なこと」や「怖いこと」を忌避するのは、感情論であり先天的行動バイアスである

イジメが過激化して殺人にまで至るのも、「集団内部でバカにされて、逆にイジメの対象にされてしまうのではないか。」という強迫観念によって、より暴力的行動を採る「怖い」存在であり続けなければならないという妄想が働いているからである

イジメを旨として組織された集団である以上、より暴力的な個体こそが「英雄」であり「カッコイイ」ことになるため。暴力性を過激化させ続けなければ序列を失うことになりかねないという強迫観念によって、より暴力性を過激化させなければならない状況に勝手に陥ってしまうのである

「怖いから、やらない。」というのは、動物的行動バイアスであり、先天的習性に則った短絡的行動選択である

そもそもが先天的行動習性自体に自己選択が介在していない以上、「怖い」などの感情に流されている状態には、個人の主体的意思や意識が存在していないのである

自分の脳が形成される過程において、自分の選択可能性が介在しない以上、先天的本能習性が促す感情や行動バイアスに従って行動している状態は、本質的には自己選択が存在していないのである

既に存在している自己だけでは、本質的には自己とは言えないのである

しかし、ヒトの場合は、脳に先天的な障害のようなものでもなければ、大抵の場合は選択可能性が存在しており、合理性に基づいた「考え」が可能である

だから自己の本質は現状における選択可能性の中にだけ存在するのである

しかし、ヒトという種の生物の脳の性質として、過去に既に行ってしまった行動選択を事後正当化しようとするバイアスが存在するため。「今更やめられない」といった言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしによって現選択可能性を発揮することが困難になるのである

イジメを行う集団というのは、「どれだけイジメられるか。」を集団内部の評価基準として競争するために、イジメを過激化させ続けなければならなくなる

「やめられなくなる。」から麻薬と同じ「中毒」なのである

イジメ集団の内部においては、「よりイジメを過激化させる」ことを競争するためにイジメを行っているのであって。イジメる相手が誰であるかなど、本当はどうでも良いのであり。あくまでイジメ集団の内部での序列を維持することこそが気分的に「安心」であり、その「安心」というのは「集団内部でより怖い存在であり続けなければならない」という強迫観念(恐怖)によって促されるものなのである

安心というものの正体は、恐怖を忌避することである

脳内物質ドーパミンは、その常習性によって行動や思考を整理する。「馴れる」「ハマる」「癖になる」といった性質は全てこのドーパミンの常習性によって作り出される

ヒトはこの世に産まれてからずっと「生きて」いるために、「生きて」いる状態が安心なのだが。これは逆に言えば「生きていない」状態への恐怖心も同時に形成されている

ヒトは基本的に生存中毒であるとも言えるのだが、それゆえ生存こそが唯一絶対の価値か何かと錯覚し、生存価にとって不利になる行動を中傷し、「頭が悪い」などと形容することがある

イジメ集団に逆らってイジメの対象にされることを「空気を読まないバカだ。」と学校で教えるのも、そのためである

「命は一番大切」などと称し、イジメられないようにイジメ集団を傍観放置することの方が重要視されるのは、本質的人間性を蔑ろにする「はぐらかし」でしかない

「何年生きたか」を競争するために産まれてきたわけでもないのに、何でイジメや差別といった「人災」を傍観放置してまで「生き続け」なければならないのであろうか

「生存自体に意義はない」というのは、そういうことである

別に自殺を推奨しているわけではなく、「誰かが自殺しなければならないような社会を傍観放置するような社会に生き続けなければならない理由などない。」という意味である

「命が一番大切」だと言いながら、一方で死刑制度を維持し続けるという支離滅裂な判断は合理性を大きく欠いている

現在の司法制度下においては弁護側が一方的に不利な状況であるにも関わらず、冤罪を絶対に避けられない以上、死刑は無くす必要性があり。また、明らかに現行犯が明確な通り魔やテロリストであろうとも、「なぜ、通り魔やテロといった非合理的な行動をするようになるのか。」についての検証をするためにも、いわば生体実験のために生かしておく必要性もあるからだ



 *:私の話は時折内容が他の話にシフトしたと思われがちであるが。右脳優位な私の頭の中では三次元的に様々な事象が関連付けられており、決して別の話ではないのだが。何せ一次元の文章という媒体を用いる以上、こうした断片的説明にならざるを得ない。 一般的に「右脳優位だと感情的だ」などと言われているが、これは言語という一次元媒体での説明が苦手なだけで、左脳優位だと短絡的なだけで、理性的であるとも言えない



イジメが起きた時に、イジメられないように「空気を読んでイジメられないよう傍観放置すること」を推奨するなどというのは論外であるが。イジメをした方に罰を与えても、イジメの根本的原因究明にはならず、当然ながら論理的合理性のある再発防止策にも至らない

イジメをしている方も、実は「なぜ自分はこんなにイジメをしているんだろうか。」という論理的原因を認識していない場合が多く。意味も目的もわからず、「そうしていないといられない。」という無意識で行っているのである

イジメが起きる一つの要因として、ストレスがある。親や教師に序列意識(無意識なバイアス)が強く、服従や統率ばかりを強要し、生徒の自主的意思を尊重しない環境がストレスとなって。結果的に生徒だけになった時に序列順位を無理矢理決定しておきたくなる結果、イジメという形で発現するのである

家庭内や学校においてヒエラルキーを強要されていれば、ヒエラルキー序列を決定することが「普通」になってしまい、その結果差別やイジメといった序列順位への異常執着が起きてしまうのである

家庭内における虐待というのは、いわば家庭内ヒエラルキーの最たるものだと言える。家庭内で序列が最下位として扱われていれば、自己肯定感覚を維持するために学級内において誰かを「自分より序列が下」として扱うことで満足しようとするようになり。これが引き金となって子供達の中だけで集団組織を形成し、その中だけが「居場所」になってしまえば集団内部での序列に異常執着するようになるのは必然的結果である

ある保育園では、子供一人一人の自主的意思を尊重し、何をして遊ぶのかを毎日一人一人聞いて指導することによって、暴力的にもならず、無駄に大声をあげることもなく、ほとんど放置しておいても静かに遊んでいるようになるという

無駄な興奮状態に子供や生徒が陥るのは、主体的意思や自分で考える精神的余裕がないからであって。虐待が世代間で連鎖するのも、感情が先行して冷静に自分の行動を抑制するだけの精神的余裕が失われているためである

嗜虐性というのは、ヒトに限らず様々な動物に見られる性質であり。これはヒトであっても存在しないというものではない。

女性の身体に勃起したペニスを挿入し、喘ぐ女性の声や姿に興奮するというのは、先天的な嗜虐性なくしては行えないものであり。ヒトという種の生物が繁殖するためには必要なものでもある

未成年者が誰彼構わず繁殖行動を採ってしまったら大変なことになるのだが。とは言っても未成年だからといって嗜虐性が生じないわけでもなく、誰かを虐めて満足しようとする習性は抑えることが出来ない

先天的欲求というものは、当人の意図目的とは無関係に、脳の大脳辺縁系が勝手に促す行動バイアスであり。欲求自体をなくすことは出来ないのである

こうした先天的習性を別の形で満足させるために発達したのがスポーツや野蛮な祭の類、芸術だと言える

「どれだけ残虐な虐めが出来るか。」を競争するのではなく、特定のルールに基づいて競うことによって勝敗などの順位序列を代替することで気分的な「納得」を促すのである

しかし、とは言えスポーツも大人から強要されていれば、これもストレスの原因となるので、一概に「スポーツに邁進させておけば全ての嗜虐性が解消される。」というものではなく。あくまで代替行動の一つとして便宜的に効果を持っているに過ぎず、野球チーム内で上級生からイジメを受けたという話も少なくはない

大衆観念的には、体育会系組織は真面目で正しい人達であるという勝手な妄想を抱くようだが。その内部では序列差別による服従統率がとれているだけであって、別に人間として正しい行動を採るという保証はなく、不祥事も時折露見する

少年野球チームが、コーチや監督などの統率者がいる場合には形式的礼儀や服従統率は発揮するものの。試合や練習が終わって子供達だけになれば周囲の迷惑も気にせず自転車を並走させながら道路を塞いで帰る場面というのを良く見るのだが、それでも大衆観念的には体育会系集団というのは「真面目な人達」という実証のない観念を抱いていることが多い。

誰がしかに対して忠誠忠実に服従する状態を、大衆観念上では「真面目」とか「素直」と形容して人間性か何かと勝手に勘違いしていることが多いが。ナチス政権下でユダヤ人の大量虐殺計画を立案したアドルフ:アイヒマン中佐も、国際法廷では「自分はただ、組織に忠実な吏官に過ぎない。」と述べていることからも、服従による統率性というものは人間性とは無関係なただの機械手続き的条件反射としての行動習性でしかなく、服従する相手を理性的に検証選択するという主体的意思がなければ、ただの臣民でしかなく、環境依存性から逃れることは出来ない

通り魔などの犯罪者の中には、「俺が悪いことをするのは、社会が悪いからだ。」などという自分の環境依存性を自慢げに主張するバカがいるが。社会のどこが具体的に間違っているのかを指摘して合理的改善策を提示するという主体的考えがないバカ特有の寝言である

無意味な戦争に邁進する政府には一切反対せず、誰の為にもならない特攻隊などという無駄死にを「英霊」などと形容して奉り上げることは大好きだが。戦争そのものに反対して政治犯罪者として投獄された人達は誰も英雄として扱わないのが日本人の大衆観念であろう

こうした様々な錯覚を、錯覚として認識していないからこそ、戸塚ヨットスクールに自分の子供を預けるイカレた親が未だにいなくならないのであろう

 ◇

イヌなどに見られる社会形成習性というものは、目的のために自らの遺伝的性質を都合よく変更させたものではない

イヌは哺乳類であるため、産まれてくれば親に服従する。しなければ死ぬので、服従する個体種以外は淘汰されていなくなったという結果である

親に服従することというのは、親に対する絶対的盲目性の現れであり。親への服従は快楽(脳への報酬)として組み込まれた行動バイアスである

しかし、群れ集団の内部においては、この服従対象の転移が生ずることによって、親以上の服従対象への服従に快楽を感じることによって。イヌはボスを頂点とした統率協調行動を採るようになる

イヌの場合、服従対象は「怖い」相手であり。そのためイヌを育てる過程においては、散歩の時にイヌが勝手な方向に行こうとする時に、リードを強く引いて無理矢理飼い主の行動に追従させるという若干暴力的な訓練が必要で。これを怠るとイヌは家族内部での序列を見失い、狂暴に飼い主の手を噛んだり、無駄吠えをするようになる

これは、イヌの場合は、強制的に服従させようとする「怖い」飼い主(ボス)にこそ盲目的服従対象としての「親」の転移が発生するためである

ヒトの子供の場合、子供達集団の内部において、感情的でキレやすく威圧的な子供に迎合する子供達によってイジメ集団が組織される原因となる

大多数は傍観者なのであるが、一部の子供だけでも一旦集団組織的にイジメがはじまれば、中毒症状的にエスカレートすることに歯止めはかからず。それはより怖い大人が来るまで続くことになる

以前、尾木ママが言っていたのだが「悪いことをした子供を叱ったら、ヘラヘラと笑っていて。『何がおかしいの?』と尋ねたら。『正しいことを言うから。』などという訳のわからぬ答しか帰ってこなかった。」という

これは、叱られた子供にとっては叱った大人に服従することに快楽を感じているからであり。イヌが怖い飼い主に異常に媚び興奮する状態と同じものである

「怖い相手に服従することに快楽を感じる。」というのは、マゾヒズムであり。これはヒトの先天的な社会形成習性によって促される非合理な行動バイアスである

暴力的な相手に服従することが快楽として組み込まれているからこそ、ヒトは非合理な暴力的独裁統率状態に簡単に陥るのである

「やたらと怒鳴り散らす上司に対して、感情的に怒鳴り返したら急に大人しくなった。」という事例もあるが、これも「怖い相手には逆らわなくなる。」という非常に短絡的な行動バイアスによる結果であり。無駄に怒鳴り散らす威圧的なヒトというのは、実は服従する相手を喪失した小型犬の無駄吠えと、精神構造的には全く一緒なのである

感情的に怒鳴り散らしているというのは、怒鳴り散らすことで脳内物質の相転移を促し、副交感神経を優位にするセロトニンが分泌される快楽欲しさの行動であり、DV男に良く見られる習性である

副交感神経を優位にするセロトニンというのは、タバコの喫煙でも促されるものであり。こうした快楽をドーパミンによる常習性が機械的に「学習」することで中毒症状を促し、より一層暴力的に怒鳴り散らすようになるのである

ある程度自発的に物事を論理検証出来る人であれば、「暴力的で威圧的な相手に率先して服従する。」などというバカみたいな行動を採る奴がいるなど、考えも及ばないかも知れないが。現実には一定数こういうバカが社会には存在しているために、独裁政権などという、ほとんど冗談としか思えないような暴力国家が形成されてしまう原因なのである







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