「イスラム教の経典を燃やした男が、後に全身大火傷で苦しみながら死んだ。」とか
「仏像の腕を壊した男が、後に腕を切り落とすような大病を患った。」といった話は
実はどの宗教にも出てくる話なんですね
これって宗教の呪いみたいなものだと思うかも知れませんけど
宗派の違いに関わらず出てくる話なので、実は宗教的呪いとは無関係だと言えます
個人的に大切にしている物っていうのは、社会的には価値がないっていうことってありますよね
極端な例を挙げると、5歳の子供が作った泥団子って、社会的には直接的価値がないわけです
「直接的」とつけたのは、実は間接的には価値があるんですよ
泥団子ですから、元は泥なので、衛生面で問題があるかも知れませんから、家の中で保管するのを躊躇(ちゅうちょ)するかも知れないですよね
でも、幼い子供が丁寧に時間をかけてこさえた泥団子って、作った子供自身にとっては大切なものなわけで
普通、マトモな大人ならむげに家の外に棄てたりはしませんよね
主観的価値というものは、客観的には直接的価値にはならないんですね
他人が大切にしている物を、大切にしないっていうのは。実は主観的に大切なものがない奴の行動なんですね
ですから、最初に挙げた例においても。他人が大切にしている経典を大切に出来ない奴というのは、自分自身の中にも主観的に大切に出来るものが全くない奴が平気で他人の大切なものを壊したり出来るわけで
こういう「心ないヒト」っていうのは、やることなすこと雑なので、結局は破滅の人生を歩んでしまいがちな傾向があるんですね
だから全身大火傷の事故に遭ったり、不摂生によって生活習慣病を患ったりすることも多かったりする
主観的価値というものが、客観的には直接社会的には意味がないからといって。子供の泥団子を粗雑に扱ったりするというのは、実は合理的ではありません
こういうのを、短絡的理性と呼びましょう
「人として、薄っぺら。」な状態です
宗教が理論的に社会安全性や持続可能性、世界平和にとって合理的価値がないからといって。短絡的に宗教を禁止するというのは理性ではないんですね
単なる過剰な拒絶反応であって、これは感情に基づくものなので、本質的には理性ではない
短絡的理性というものは、「利己的利益追求」なども同じで。論理検証性が限られた意識範囲内だけで完結している状態なので、意識が薄っぺらで表面的で浅い状態なので
「考え」に深みが全くない
その場限りの薄っぺらな価値観だけで真理の全てだと妄想錯覚している状態は、本質的理性でもなければ、当然本質的意識が働いている状態でもないわけです
そらもう、「別の宗教」でしかないんですよ
マルクスが「宗教はアヘンである。」って宣言しましたけど、共産主義が別の宗教みたいに洗脳独裁に陥いることがあるでしょ。それと同じです
自分の中に主観的に大切なものがあれば、自ずと他人の主観的に大切なものも尊重するようになります
わかりづらいですか?
自分が大切だと思っているものがない状態で、他人が大切にしているものを尊重できますかね?
できないっしょ
普通、こういった心情に関わる話をは論理検証としては扱わないんですけど、「自分を大切に出来ない者は、他人も大切には出来ない。」という話は定理であって、論理的理解に基づく話なんですよ
だからといって、「俺が他人の気持ちを理解しねぇのは、誰も俺の気持ちを理解してくれねぇからだ。」などと言い出すのは幼稚なワガママに過ぎません
どっかの病理診断医が言ってたじゃないですか「誰も俺をリスペクトしてくれねぇ。」って
他人からの評価承認というのは、ヒトの脳にとって快楽を与える「習性」なので、簡単に中毒症状に陥ってしまうため
本当の「自分の気持ち」を見つめることが出来なくなって、他人から与えられる「脳への報酬」だけで行動や言動が決定してしまうんですね
脳の報酬系と行動が直結していれば、これはサルと一緒ですよ
どんなに学力偏差値が高くても、「チンパンジーの瞬間記憶」と一緒でエサがなければ何もしない機械手続き的条件反射行動しかしなくなります
でも、本質的な人間性や倫理っていうのは、自分の気分感情に抗うことも必要なので。脳の報酬系が行動と直結していたら自律的な社会的責任判断選択はしなくなるんですね
だから評価承認中毒患者は福島第一原発の津波に対する脆弱性が放置するようになる
イジメが蔓延している学級内では、ウケ狙いを「評価」と見なすことで、率先してイジメを行うようにもなる
「脳への報酬」に抗い、自分自身で「どうあるべきか。」を論理的に徹底検証し、目的意識を持って行動選択することによって、はじめて自律を発揮することが出来るようになる
自律のないただの気分では人間性を持った「心」の論証にはならんのです
ところが、現在の義務教育における道徳教育では。主観的感想を陳列して「どのような気持ちになったのか。」を聞いているだけなんですね
「答のない、気分的に悩ましい事例を挙げることで。あたかも何かを「考えた」ような錯覚に陥って満足する。」
これってマイケル:サンデルの洗脳の手法そのものなんですよ
洗脳状態のヒトっていうのは、自分に対して疑いを持たない盲信状態になりますから。何も自発的には考えなくなります
すると、どうなるのか?
だから何度も言っているでしょ、「原発の津波に対する脆弱性を放置する。」ようになるんですよ
洗脳っていうのは、ヒトの脳の報酬系が持つ性質を利用することで可能になるので。自律的に物事を検証しないバカだと簡単に洗脳することが可能なんですね
これは振り込め詐欺の被害者も同様です
気分感情が行動選択と直結しているから騙される
「自分には心があるんだ。」と勝手に錯覚して、結果的に暴力団に資金提供するという社会的に無責任な行動をしてしまう
論理検証性のない状態に、人間としての「心」なんぞ機能しないんですよ
理性が感情をコントロールした状態でなければ、人間としての「心」は働かないんです
「相模原障害者施設やまゆり園を襲撃した奴なんて、死刑にしちまぇば良いんだ!」って怒鳴り散らしている安っぽいタレントに、「心」があるとお思いか?
テロや通り魔事件の類って、世界中で何度も繰り返していますから。実際に実行された事件の陰には無数の予備軍がいると考えるべきなんですよ
これから起こるかも知れない可能性を放置して、目先の事案だけ「始末」「処理」「対処」しただけでは、再発防止にはなりません
その無責任さには、人間としての「心」があるとお思いか?
まあ、それでも「自分には人間としての心があるんだ!」って思っているから人の話を聞かないんでしょうな
振り込め詐欺に騙されている人も、カルト宗教とかマイケル:サンデルに洗脳されている人も、「自分は絶対に大丈夫だ。」と思っているから騙されるんですよ
チコちゃんみたいに
「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」
って言いたいところですが
実は当人的には必死で一生懸命だからこそ騙されているんですね
脳の状態に「デフォルトモードネットワーク」というのがありまして、これはいうなれば特に何も考えてはいない「ボーッとしている状態」なんですけど。これが「気付き」において重要だとも言われています
ですから、気分的に急に受け入れることが出来ない理論や事実というものも、一旦頭を休憩して流れる雲でも眺めてゆったりすることも必要なんですね
「ボーッとする」ために瞑想を取り入れるのが流行りではありますが、あれって「気分的にスッキリした。」などの主観的感想しか出てこないので、かなり疑わしい気がします
「瞑想したら、優生学の論理反証が理解できた。」とかいうなら有効性も認められるんでしょうけども
そういう実質的な話が全然出てこないのはなぜなんでしょう
バカが治らないんだったら結局自己満足で完結しているだけですから、そんなの「マイケル:サンデルの講義聴いて満足した。」のと何の違いがあるのかさっぱりわかりません
Ende;
「仏像の腕を壊した男が、後に腕を切り落とすような大病を患った。」といった話は
実はどの宗教にも出てくる話なんですね
これって宗教の呪いみたいなものだと思うかも知れませんけど
宗派の違いに関わらず出てくる話なので、実は宗教的呪いとは無関係だと言えます
個人的に大切にしている物っていうのは、社会的には価値がないっていうことってありますよね
極端な例を挙げると、5歳の子供が作った泥団子って、社会的には直接的価値がないわけです
「直接的」とつけたのは、実は間接的には価値があるんですよ
泥団子ですから、元は泥なので、衛生面で問題があるかも知れませんから、家の中で保管するのを躊躇(ちゅうちょ)するかも知れないですよね
でも、幼い子供が丁寧に時間をかけてこさえた泥団子って、作った子供自身にとっては大切なものなわけで
普通、マトモな大人ならむげに家の外に棄てたりはしませんよね
主観的価値というものは、客観的には直接的価値にはならないんですね
他人が大切にしている物を、大切にしないっていうのは。実は主観的に大切なものがない奴の行動なんですね
ですから、最初に挙げた例においても。他人が大切にしている経典を大切に出来ない奴というのは、自分自身の中にも主観的に大切に出来るものが全くない奴が平気で他人の大切なものを壊したり出来るわけで
こういう「心ないヒト」っていうのは、やることなすこと雑なので、結局は破滅の人生を歩んでしまいがちな傾向があるんですね
だから全身大火傷の事故に遭ったり、不摂生によって生活習慣病を患ったりすることも多かったりする
主観的価値というものが、客観的には直接社会的には意味がないからといって。子供の泥団子を粗雑に扱ったりするというのは、実は合理的ではありません
こういうのを、短絡的理性と呼びましょう
「人として、薄っぺら。」な状態です
宗教が理論的に社会安全性や持続可能性、世界平和にとって合理的価値がないからといって。短絡的に宗教を禁止するというのは理性ではないんですね
単なる過剰な拒絶反応であって、これは感情に基づくものなので、本質的には理性ではない
短絡的理性というものは、「利己的利益追求」なども同じで。論理検証性が限られた意識範囲内だけで完結している状態なので、意識が薄っぺらで表面的で浅い状態なので
「考え」に深みが全くない
その場限りの薄っぺらな価値観だけで真理の全てだと妄想錯覚している状態は、本質的理性でもなければ、当然本質的意識が働いている状態でもないわけです
そらもう、「別の宗教」でしかないんですよ
マルクスが「宗教はアヘンである。」って宣言しましたけど、共産主義が別の宗教みたいに洗脳独裁に陥いることがあるでしょ。それと同じです
自分の中に主観的に大切なものがあれば、自ずと他人の主観的に大切なものも尊重するようになります
わかりづらいですか?
自分が大切だと思っているものがない状態で、他人が大切にしているものを尊重できますかね?
できないっしょ
普通、こういった心情に関わる話をは論理検証としては扱わないんですけど、「自分を大切に出来ない者は、他人も大切には出来ない。」という話は定理であって、論理的理解に基づく話なんですよ
だからといって、「俺が他人の気持ちを理解しねぇのは、誰も俺の気持ちを理解してくれねぇからだ。」などと言い出すのは幼稚なワガママに過ぎません
どっかの病理診断医が言ってたじゃないですか「誰も俺をリスペクトしてくれねぇ。」って
他人からの評価承認というのは、ヒトの脳にとって快楽を与える「習性」なので、簡単に中毒症状に陥ってしまうため
本当の「自分の気持ち」を見つめることが出来なくなって、他人から与えられる「脳への報酬」だけで行動や言動が決定してしまうんですね
脳の報酬系と行動が直結していれば、これはサルと一緒ですよ
どんなに学力偏差値が高くても、「チンパンジーの瞬間記憶」と一緒でエサがなければ何もしない機械手続き的条件反射行動しかしなくなります
でも、本質的な人間性や倫理っていうのは、自分の気分感情に抗うことも必要なので。脳の報酬系が行動と直結していたら自律的な社会的責任判断選択はしなくなるんですね
だから評価承認中毒患者は福島第一原発の津波に対する脆弱性が放置するようになる
イジメが蔓延している学級内では、ウケ狙いを「評価」と見なすことで、率先してイジメを行うようにもなる
「脳への報酬」に抗い、自分自身で「どうあるべきか。」を論理的に徹底検証し、目的意識を持って行動選択することによって、はじめて自律を発揮することが出来るようになる
自律のないただの気分では人間性を持った「心」の論証にはならんのです
ところが、現在の義務教育における道徳教育では。主観的感想を陳列して「どのような気持ちになったのか。」を聞いているだけなんですね
「答のない、気分的に悩ましい事例を挙げることで。あたかも何かを「考えた」ような錯覚に陥って満足する。」
これってマイケル:サンデルの洗脳の手法そのものなんですよ
洗脳状態のヒトっていうのは、自分に対して疑いを持たない盲信状態になりますから。何も自発的には考えなくなります
すると、どうなるのか?
だから何度も言っているでしょ、「原発の津波に対する脆弱性を放置する。」ようになるんですよ
洗脳っていうのは、ヒトの脳の報酬系が持つ性質を利用することで可能になるので。自律的に物事を検証しないバカだと簡単に洗脳することが可能なんですね
これは振り込め詐欺の被害者も同様です
気分感情が行動選択と直結しているから騙される
「自分には心があるんだ。」と勝手に錯覚して、結果的に暴力団に資金提供するという社会的に無責任な行動をしてしまう
論理検証性のない状態に、人間としての「心」なんぞ機能しないんですよ
理性が感情をコントロールした状態でなければ、人間としての「心」は働かないんです
「相模原障害者施設やまゆり園を襲撃した奴なんて、死刑にしちまぇば良いんだ!」って怒鳴り散らしている安っぽいタレントに、「心」があるとお思いか?
テロや通り魔事件の類って、世界中で何度も繰り返していますから。実際に実行された事件の陰には無数の予備軍がいると考えるべきなんですよ
これから起こるかも知れない可能性を放置して、目先の事案だけ「始末」「処理」「対処」しただけでは、再発防止にはなりません
その無責任さには、人間としての「心」があるとお思いか?
まあ、それでも「自分には人間としての心があるんだ!」って思っているから人の話を聞かないんでしょうな
振り込め詐欺に騙されている人も、カルト宗教とかマイケル:サンデルに洗脳されている人も、「自分は絶対に大丈夫だ。」と思っているから騙されるんですよ
チコちゃんみたいに
「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」
って言いたいところですが
実は当人的には必死で一生懸命だからこそ騙されているんですね
脳の状態に「デフォルトモードネットワーク」というのがありまして、これはいうなれば特に何も考えてはいない「ボーッとしている状態」なんですけど。これが「気付き」において重要だとも言われています
ですから、気分的に急に受け入れることが出来ない理論や事実というものも、一旦頭を休憩して流れる雲でも眺めてゆったりすることも必要なんですね
「ボーッとする」ために瞑想を取り入れるのが流行りではありますが、あれって「気分的にスッキリした。」などの主観的感想しか出てこないので、かなり疑わしい気がします
「瞑想したら、優生学の論理反証が理解できた。」とかいうなら有効性も認められるんでしょうけども
そういう実質的な話が全然出てこないのはなぜなんでしょう
バカが治らないんだったら結局自己満足で完結しているだけですから、そんなの「マイケル:サンデルの講義聴いて満足した。」のと何の違いがあるのかさっぱりわかりません
Ende;