書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○因習。

2018年07月26日 10時03分58秒 | 意識論関連
現在の司法制度上では、求刑(検察)側と弁護側の間における罰の程度を議論するだけである

これが根本的に意味がない

社会防衛、安全性の観点からは、犯罪者に罰を与えても、「なぜそのような犯罪を犯すようになったのか。」についての合理的原因究明や再発防止策には全くつながらないからである

許すか許さないかは、正直どうでも良い

例えば、山口県光市母子殺人事件の被害者遺族である本村洋さんにとって、「許す」などという選択肢が存在するであろうか

何をどうやっても「許す」などという基準は出てこないはずである

たとえ本村さん自身の手によって加害者を刃物でメッタ刺しにしたところで「許す」などという感情気分には到底ならないだろう

逆に言うと、もっと軽微な犯罪において被害者が気分的に「許した」ところで、犯罪の原因究明や再発防止策につながるわけでも何でもないのである

だから許す許さないとか、厳罰化とか、死刑制度存続とか、こういった議論は社会安全性において全く意味のない感情論にしかなっていないのである

公の資金を投入して行うべきなのは、被害者感情や被害者感情に同調して満足する「許す許さない」の議論ではなく

「なぜ犯罪を犯すような奴が出てくるのか。」についての科学論理的な分析によって構造原理を解明し、これを再発防止策につなげて被害者を減らすことが優先されるべきなのである



日大アメフト部による反則(傷害)行為においては、「実行犯」である選手に対して大多数は酌量の余地があると思っているが

これは反則行為に至る経緯を知っているからであって、これが例えば光市母子殺人事件の犯人がどのような成育環境によって正常な人格が形成されなかったのかについての経緯は誰も知らないし、報道もほとんどされていない

人間として、社会人として、どう考えてもおかしい犯罪がなぜ起きるのか。どういった成育環境や思想によって犯罪者になってしまうのかについての合理的分析こそが、社会制度として最優先されるべきなのである

加害者、犯罪者に対して、どんなに重い刑罰を与えても。そもそも検挙率自体が35%しかなく、犯罪認知件数に対して65%は捕まりもしない

これでは「ばれなきゃ何をしても良い」ということになってしまう

認知されている犯罪だけにおいても、半数以上は逃げ得なのである

犯罪を平気で犯すようなヤカラにとっては、捕まるかどうかも一種のゲームみたいに考えているフシがあり。逃げ切れれば得とか勝ちとか、そんな風に捉えて面白がられていたのでは、むしろ現在の司法制度しか存在しない社会は犯罪者にとっては楽しいテーマパークみたいなものではないのか



罰は更正にならない

強盗殺人で25年服役した犯罪者が、出所後数日で再度殺人を行うという事例がある

これは特殊な例ではないし、たとえ特殊だとしても懲役刑が犯罪者更正にならない証明であることに変わりはないし、実際再犯率は50%近くある

司法裁判において「懲役何年」と判決が下されても、これが犯罪者が更正することの論理的保障にもならないし、再犯被害が出たところで判決を下した裁判官には何の責任も問われることはない

こうしたマヌケな現在の司法刑罰制度自体が根本的に社会安全において価値が希薄なのである

残虐な殺人行為などをする犯罪者が、なぜ残虐な殺人を出来るようになるのか。その経緯である成育環境や思想や理屈について分析解明する必要性があるはずなのだが

現状の司法刑罰制度上においては、これが全く無視されているのである

司法判決において、よく出てくる文言に「殺意の有無」だの「身勝手」というのがあるが。殺意なんていうのは別に殺人犯でなくとも抱くことはよくあることだし、あろうがなかろうがそれこそ「内心の自由」の範疇であろう

先の戦争においては政治犯と称して「不敬」だとか難癖つけて政権にとって都合の良い思想だけを押し付けたことが、国民の自由を奪ったわけだが

だからといって犯罪者の非合理な発想までをも「内心の自由」だと野放しにして良い理由には全くならない

「身勝手」と言うのであれば、犯罪被害者や遺族が厳罰化ばかりを求めることもまた、社会安全性にとっては逆行する「身勝手」な発想だとも言えるのである

別に犯罪被害者や遺族の感情論だけが特別に優遇されて良いことの論理的根拠はない

犯罪被害者は別に偉いわけでもなかろう

逆にいえば、社会の中で誰が被害者になってもおかしくはないのであって。たまたま被害に遭ったら急に偉くなれるという論理は存在しない

社会にとって最も優先されるべきなのは、犯罪そのものを減らし、被害者を減らすことであり。それは同時に加害者犯罪者を減らすことでもある

本村洋さんの報復感情がわからないわけではないが、この「わかる」というのは気分的なものであって、合理的根拠に基づいた「理解」とは異なるものである

ここは厳密に分別する理性が必要である

一部下世話な報道では再婚されたとの話もあるが、仕事を終えて家に帰って本当に家族が無事かどうかを毎日確かめる不安な日々であろうことは容易に想像出来る

再婚できたという程度のことでは、本村さんの本当の「日常」が取り戻せるわけではないだろう

一度起きた犯罪は、現状回復など本当は不可能なのである

原発事故でいくら補償されても、南相馬の住民に以前の生活は取り戻せないのと同じことである

そして、こうした犯罪被害というのは、誰の身の上に起きてもおかしくはないものであり。最も優先されるべきは再発防止のためのあらゆる取り組みである

原発事故において、当時の取締役を有罪にしたところで、東電全体の「体質」がなぜ生じたのか、なぜ誰も津波に対する脆弱性について対策を実行しなかったのかについての構造原理的分析や、それに伴う本当の再発防止策にはつながらない

組織的暴走が引き起こす「暴走」というのは、JR福知山線脱線事故においても、日大アメフト部による反則行為においても、スペースシャトルチャレンジャー号爆発事故においても共通する、様々な「人災」の最も根源的原因である

ヒトの無責任さが引き起こすから「人災」なのであって、どのようなメカニズムによってヒトが無責任になるのかについて科学的に解明しないことには、あらゆる「人災」は無くなることも、減ることもないだろう

たとえ個人の犯罪においても、犯罪者を生み出す成育環境が放置されていたことについては、周囲のヒトの無責任に起因するものであることに違いはない

学生の安全性を蔑ろにしてまで人間ピラミッドの段数競争に暴走する教育組織がなぜ発生してしまうのか

なぜ、個人が自律的な社会的責任判断をしなくなるのか

人間としての合理的目的行動選択を行うはずの本質的意識、人間としての意識が何なのかを自覚していないからこそ刑法などというアナクロニズム因習が温存されてしまうのである

凶悪犯罪などの重大な「人災」を生み出しているのは、あくまで「この社会」であって。社会を構成する市民一人一人の無責任さや無意識のチリツモであることは「ハインリッヒの法則」に基づいて明白である

「何が正しいのか、わからないわ。」などと称して思考停止しておいて、その場限りに犯罪被害者や遺族にだけ同調迎合するという無責任さを発揮しているからこそ、犯罪なども含めた「人災」の根源的原因究明が一向に進まず

結果的に日大アメフト部のようなオカルト組織が未だに温存されることにつながっているのである

こうした組織集団のオカルト化、組織腐敗のメカニズムや構造原理を認識していないからこそ、封建的スパルタ服従によるあらゆる集団暴走が一向に減らないのである

教育機関の組織的腐敗を放置しておいて、社会から組織腐敗がなくならないのは必然であろう



実際に誰がが死んでから大騒ぎするのは簡単である

そして忘れ去ることはもっと簡単である

その愚かさを自覚認識しないからこそ、ヒトはバカが治らない



Ende;
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