2014年にニュージーランドで虐待連鎖の実証実験が計画されたという それは「虐待があっても無視し 将来子供に虐待が連鎖するかどうかを実証する」というものだったが 当時の大臣が中止させたという
時折 こうした実証主義の暴走というものが起きるのだが
その原因は実証に付随する評価だけが目的になってしまっているからである
それはなぜか? 簡単である 評価承認中毒だからだ
虐待が連鎖することは 既に統計的に実証されているにも関わらず それを実地で検証すれば科学的評価になるはずだという妄念が 実証主義の暴走を招いたのである
評価承認中毒患者というのは 評価されることだけが目的になってしまうため 自律的な社会的責任判断選択能力が著しく欠如することになる
「他人からの評価」だけが動機になってしまっているため 「自律」がないのである
「実験によって再現可能であることが実証されなければ評価されない」とか
「権威による査読がなければ理論として評価されない」といった
まるで役所のような「手続き」ばかりが優先されているからこそ 他人の迷惑も顧みずに評価だけを目的に実証主義は暴走するのである
学会で論文として発表されていなかろうが 権威による査読がなかろうが 論理的に正しいことは真理であることに違いはない
科学や哲学の真理というのは特定の専門家だけの特権ではないのである
ましてや哲学界や生物学界全体の間違いを指摘批判している内容を それらの権威が認める訳がない
なぜなら 権威性を失墜し「飯が喰えなくなるから」である
Ende;
時折 こうした実証主義の暴走というものが起きるのだが
その原因は実証に付随する評価だけが目的になってしまっているからである
それはなぜか? 簡単である 評価承認中毒だからだ
虐待が連鎖することは 既に統計的に実証されているにも関わらず それを実地で検証すれば科学的評価になるはずだという妄念が 実証主義の暴走を招いたのである
評価承認中毒患者というのは 評価されることだけが目的になってしまうため 自律的な社会的責任判断選択能力が著しく欠如することになる
「他人からの評価」だけが動機になってしまっているため 「自律」がないのである
「実験によって再現可能であることが実証されなければ評価されない」とか
「権威による査読がなければ理論として評価されない」といった
まるで役所のような「手続き」ばかりが優先されているからこそ 他人の迷惑も顧みずに評価だけを目的に実証主義は暴走するのである
学会で論文として発表されていなかろうが 権威による査読がなかろうが 論理的に正しいことは真理であることに違いはない
科学や哲学の真理というのは特定の専門家だけの特権ではないのである
ましてや哲学界や生物学界全体の間違いを指摘批判している内容を それらの権威が認める訳がない
なぜなら 権威性を失墜し「飯が喰えなくなるから」である
Ende;