書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ペテン師にとってカモを見つけるのは簡単である

2019年07月12日 14時49分28秒 | 意識論関連
例えばである

通り魔被害の遺族や大多数の大衆が通り魔の死刑を望んだからといって

それが通り魔事件の再発防止になるかと言えばならない

その結果 再び通り魔事件の予防措置が採られないことによって 回避可能だった危険性が放置されている責任は誰が取るのであろうか

個人の主観的感覚からすれば 理不尽な通り魔被害に遭えば報復感情による懲罰を望むものであろう

しかし 客観的論理検証性(理性)的に「考え」れば 「自分のような酷い目に遭う人を二度と出して欲しくはない」という要望も出てくるのである

感情の強度程度で行動が決定していれば 「罰で解決だ」ということになるのだが それは被害者や遺族の社会的責任の放棄でもある



人間としての倫理 人間性というものの本質は 「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であり これは犯罪被害者であろうと特権的に無責任が許されることにはならない

こうした話が犯罪被害者や遺族にとって精神的に過酷であることは充分承知の上である

だが たとえば原発の危険性放置や内部告発において「精神的に過酷であるから放置しておいても許される」わけではない

通り魔が主観的感情に基づいて身勝手な観念を根拠に無関係な人を殺傷している以上 被害者や遺族だけが一方的に理性的であらねばならぬことは不条理ではある

だが それでも人間性や倫理の本質とは 社会安全性や持続可能性を目的とした論理客観性にしか存在していないのである

実行した通り魔だけを死刑にしても そもそも「なぜ通り魔などという訳の解らぬ行動をするようになったのか?」についての論理客観的原因究明検証が一切されず むしろ通り魔に感覚的に共感共鳴していても「思想信条の自由」の名の下に放置されていたのでは 何度通り魔事件が起きても根本的再発防止には全くならないのである

感覚的な共鳴だけなら人畜無害であるが 感覚という主観は個人的なものに過ぎないとい論理客観性が働いていれば 短絡的に無差別殺傷などという何の意味もない行動を採ることはない

論理客観性というものは 自発性や主体性や能動性に基づく「自律」によって働くものであり 自律が働かないのは個人が自発性主体性能動性に欠けているからこそ自律が働かず 訳のわからぬ非合理的な行動を採るようになるのである

「刑罰判決で解決だ」という判断には 論理客観的合理性がない

何も解決などしていないからである

だから何度も繰り返すことになる

「自分が被害に遭ったから 他人が被害に遭っても知ったことではない」というのであれば それは社会的には無責任である

悪平等というものは 自分の不幸を他人にも撒き散らす選択であり 社会安全性や持続可能性にとっての最大の障害である

私は通り魔や自動車暴走の被害者でも遺族でもないが 向かいに住む小学2年生の子供が通り魔や自動車暴走で亡くなったりすることを想像すれば 罰よりも再発防止を何よりも優先して欲しいと願う

日本では 被害者よりも被害者以外の方が圧倒的多数であるが 通り魔事件の実効性ある再発防止が行われない以上 誰が被害に遭ってもおかしくはないのである

自分が実際に被害に巻き込まれるまで何も対策しなかったのであれば それは「泥縄」であろう



正直言えば どんなに論理的説明をしてもほとんど誰も理解しない現状というのは戦慄しか覚えず 主観的感覚としては「お前ら死ね」とまで「思う」程だが そんな個人的主観には意味がないことを私は知っているので 面倒臭ぇけど説明を繰り返すのみである

本論の目的は社会安全性と持続可能性の向上であって 世間的評価があろうがなかろうがどうでもよろしい

ただ 私も「ヒト」である以上 誰も理解しない話を辛抱強く続けることに苛立ちを「感じる」ものであり どう「思う」かを他人からとやかく言われる筋合いはないし 隠すつもりもない

何も考えていないバカな大多数の大衆の人気取りが目的ではなく 何も考えずに主観的感覚だけで物事を判断している頭の悪さを解消して頂くことが目的である

そのためには 不条理や絶望も客観視する理性が必要である

マイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのフリードリヒ:ニーチェだのを哲学だと勘違いしているバカは多い

哲学というのは主観的な「悩み」や「迷い」を解消して満足安心するためにあるのではないし ましてや「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いして傲慢さを発揮するためにあるのでもない

ロダンの彫刻作品「考えるヒト」とは あくまで「地獄について考えている」のである

そもそも「考える」とは 地獄について考えることであり 危険学や失敗学は地獄を取り扱うことで安全性を高めるのである

その場限りに主観的気分を満足させているというのは むしろ地獄や危険を意識から外しているだけであって そんなもんは哲学でも何でもねぇ!

何が「信念は真理の敵」だ 断片的論証だけで真理だと勝手に錯覚して満足しているだけじゃねぇか

主観的気分の満足だけを追求しているから哲学から論理検証性や論理客観的批判精神が抜け落ちることになるのである

それは哲学でも何でもなく ただのペテンだよ



Ende;
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