書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

拝金主義

2019年07月22日 15時59分57秒 | 日記
飲み会で写真撮られたら後ろに写っていたやつが金塊強盗だったとか言われたってそんなん不可抗力だろうよ

それがギャラ呑みだったから「強盗から金貰ってた」ことになるってのもおかしな話で それを言うなら店だって「強盗から金貰って酒を提供していた」って話になるだろ

それとも何かい パン屋が金を貰ってパンを売った客が連続殺人犯だったら 「連続殺人犯から金を貰ってパンを提供していた」ら悪いことなのかよ

知らんだろ そんなこと誰も面倒看きれないないわ

むしろ 「とっとと警察が捕まえろよ 何やってんだって」話だろ



どうも写真週刊誌ってのは大衆迎合的に芸能人に対する差別的扱いやイジメ差別の助長みたいな下世話な話でも平気で垂れ流す習性があるんだけど それってSNS上のウケ狙いの悪ノリ投稿やネトウヨとやっていることがあんま変わんないじゃないかと思う

「大衆に迎合して下世話な内容にしないと売れない」からって 悪質な悪ノリ投稿を率先してマスコミがやってたんじゃ無責任も甚だしいだろ

金の為なら何しても許されるって話にゃならんだろ



Ende;

ダニの巣窟

2019年07月22日 14時06分24秒 | 意識論関連
ダニエル:デネットはこう述べている

AIが率直で誠実であるとは限らない 真の意識とは相反するものだからだ

真の意識というものが主観的感情とは別のものであると述べており

(AIには)道理をわきまえてもらわなければならない

とまで述べている

デネットは人間性や倫理を伴う本質的な意識というものが感情とは別物であると述べているにも関わらず 「意識=感情」という取り扱いをしており 論理整合性がない

言っておくが 論理整合性のない話というのは「間違い」か「嘘」である



「真の意識が感情とは別物である」と述べているにも関わらず 意識と感情を混同しているのは 言っている内容に論理整合性がなく「道理に反する」のである

デネットはAIという新しい技術に対する大衆の観念的恐怖心に同調迎合する形で「AI怖い」と言っているに過ぎず 具体的に何がどのように「危険」なのかを全く論じていない

AIに限らずあらゆる新しい技術の危険性というものは それを使う側のヒトの危険性に由来するものであって ヒト自身の危険性を無視して「AI怖い」と主張するのは観念論であって 到底論理的根拠を伴う検証とは言えず 何の役にも立つことはない

 ◇

意識の本質とは 目先の感情の強度程度だけではなく

様々な感情を統合的に自己客観視し 合理的目的意識に基づいて検証することで発揮されるのが本当の「人間としての意識」である

どんなに強く「死にたくない」と思ったとしても その感情の強度程度というのはドーパミンの常習性が作り出した執着(中毒)に過ぎず 到底人間としての目的意識にはならない

たとえ永遠に生きられるとしても 子供が丸焦げにされるような世界で生き続けなければならないとすれば それはむしろ地獄でしかない

「人が人を殺してはいけない理由」はないが 同時に「人が人を殺すような社会で生き続けなければならない理由」も存在しないのである

自己の生存などという目先の感情よりも 自己の様々な感情を客観的に検証した場合 本当に求めるのは「人が人を殺さない社会」である

単なる犯罪としての殺人だけでなく 個人が自律的に社会的責任判断をしないことに起因するあらゆる「人災」も含めて「人が人を殺さない社会」を求めることが 人間としての目的なのである



ヒトという種の生物は 先天的には人間性が組み込まれてなどいない

だからこそナチスやISILのような暴力的で野蛮な組織の勃興を幾度となく繰り返してきたのである

ヒトという種の生物は先天的に集団統率的協調性を発揮する習性があるため これを利用すれば警察や他国の侵略に対する防衛に利用することも可能ではある

スタンレー:ミルグラムは服従心理実験の検証において「サイバネティクスの観点から」と題して あたかもヒトの権威服従性には「先天的習性としての目的」が存在するかのような解釈もしているが 先天的本能習性には目的など存在しておらず この分析は科学論理的検証として成立していないのである

先天的本能習性というものは 目的関数の存在しない遺伝的進化の「結果」に過ぎず それは「たまたま死なずに生き残った」個体の性質でしかない

「たまたま生き残った」からといって それが最適であることの論証にもならなければ そもそも「生き残った」こと自体も結果に過ぎず どこにも目的が存在しない偶発的結果以上の意味は存在しないのである

従来生物学界では「生物の目的は生存」と定義してきたが これは論理的根拠が存在しない実証不能の観念に過ぎないのである

「偶発結果的に死なずに生きているもの」を「生物」と分類しているに過ぎず 遺伝的進化というものにも合理的目的など存在していない

生物進化というものは 何せ数十億年に亘る膨大な変異と淘汰圧力によって洗練されてきたため たかだか数百年程度のヒトの知識や技術と比較して優秀な面もあるからといって「進化任せにしときゃ 全てはうまくゆく」などという非合理な実証不能の観念を鵜呑みにして良い理由には全くならない

現状において「生存にとって適していた」という「結果」が これからも永遠に「生存にとって適し続ける」保証は何もない 進化というものには目的関数がないので 絶滅しようが破綻しようが誰も責任を取ってはくれないのである

遺伝的進化の過程というのは 膨大な絶滅という失敗の上に成り立つものであるが 進化過程においてはこうした失敗経験は教訓として生かされることはなく 何度でも同じ失敗を繰り返すマヌケで愚かなものに過ぎないにも関わらず 「人間よりも進化の方が賢い」などと言う「神話」を鵜呑みにしている大多数の大衆マスコミは烏合の衆デクノボウ無能バカと形容する以外 他に形容の仕方があるならむしろ懇切丁寧に噛んで含めるようご教授頂きたいくらいである



リチャード:ドーキンスよろしく遺伝的進化によって自動的(自然)に必ず人間性が組み込まれているかのように錯覚するのも バカな大衆や文系マスコミにとっては簡単なのであろう

遺伝的進化によって形成された本能習性としての社会形成性や封建的な統率協調性というものが 常に絶対に人間としての倫理に則った結果以外をもたらすことはないとでも「思って」いれば安心なのであろうが それは目先の気分によって促された錯覚であり 論理的根拠を伴う真理真実を撹乱する「嘘」に過ぎない

ヒトやチンパンジーが限定された特定環境下において利他的行動に適した結果だけを抽出して それだけを論拠に「先天的本能としての社会形成性や統率協調性は常に人間性に則った行動しか促すことはない」かのように錯覚していれば 何も論理検証しようともしないバカにとっては目先の気分的安心満足によって思考停止に陥ることは簡単なのであろう



錯覚を錯覚であると認識するのは論理検証性である

そして 錯覚を生み出すのは感覚や感情といった先天的本能習性である

正常性バイアスによって 目先の気分が良くなる話を鵜呑みにし 嘘を見抜くための自発的論理検証性という意識の本質が働かなくなることによって ヒトは簡単に人間性を喪失する

自己の感覚に対する客観的論理検証性が働かなくなれば 多数派や権威に同調迎合することで安心することは簡単である

学校の教室における学級内ヒエラルキー環境下においては イジメに同調迎合するか 傍観放置しておく方が「生存にとっては有利」である

それは 西宮冷蔵のように内部告発などせず 如何なる悪事も利己的利益のために傍観放置しておいた方が「生存にとっては有利」なのと同じである

こうした人間性が生存にとって有利に働かない環境下において 進化的に先天的人間性が自動的に組み込まれるような淘汰圧力が働かない環境下において どうして「先天的に人間性が組み込まれる」などと言えるのであろうか

「進化の方が人間より賢い」などという話は 何も自発的には論理検証などしたこともない馬鹿な衆愚を気分的に安心満足させるだけのデマゴーグに過ぎないのである



文化的背景などというのは所詮は多数決 デファクトスタンダードでしかなく 論理科学的な普遍性の根拠にはなり得ない

天動説が主流だった文化的背景において 地動説が火炙りにされたという失敗の原因とは ヒトの感覚的安心満足が促す錯覚によって論理的な真理の証明が捻じ曲げられたからである

現状の生物学や哲学界における進化万能論が主流である文化的背景も 論理科学的普遍性の証明には一切ならない

「なりもしないもの」を あたかも「なっているかのように錯覚している」だけなのである



バカというのはスペクトラムである

絶対にバカではなく 絶対に間違えないヒトなど実存しない

重要なのは バカとは具体的にどういうものなのかを理解することによって 誰がどのようにバカなのかを区別認識することである

「少数異端である」とか「現状において世間的に成功していない」だのという大衆観念は 科学的論理証明には一切ならない

現状の哲学界というのはマイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのといったバカ丸出しの話に浮かれ 亀山郁夫の「ドストエフスキーの読書感想文」を哲学だと勘違いし フリードリヒ:ニーチェやマルティン:ハイデガーを実存主義だと勘違いしているバカの集団である

バカの多数決を権威(服従信頼対象)だと勘違いしていれば 社会安全性にとって重大な欠陥となることは明らかである

「それでも構わない」というのであれば それは私がどうこう出来るようなものでもない



Ende;