哲学とは 「考える」ことである
考えてみて 答えがわからなくても良いのだが
これは科学的検証実験において 仮説に基づいた実験がうまくいかない場合でも 「この仮説と方法論では立証出来ない」ことがわかっただけでも意味があるのと同じことで 哲学的な思考実験においても仮説や検証によって答えが出なくても わからなくても その仮説と検証方法では答えが出せなかったことがわかっただけでも意味はある
砂漠の真ん中でトカゲを探して一匹も見つからなかったとしても 「こうした環境下におけるこの探し方ではトカゲを見つけることはできなかった」ことの証明にはなるからだ
だから 哲学的に論理検証をしてみて答えが見つからなかった場合であっても 一定の意味はあるのだ
だが 本当は論理的には何も「わかって」などいないにも関わらず わかったような感覚に陥って満足することは 哲学ではない
科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは 「プラトンの呪文」と称して権威に対する盲目性を厳しく批判している
真理を追求する上においては 間違った話は間違っていると明確に批判する精神が必要であり 「わからなくても 答えが出なくても良い」からといって非論理的な観念に基づく気分的満足に陥ることは哲学の逸脱(オカルト)でしかない
「わからなくても 答えが出なくても良い」というのは「わけのわからぬ話でも鵜呑みにしておいて良い」という意味ではない
科学や哲学というのは徹頭徹尾 論理的な「考え」に基づいて検証することが求められるのである これがゆらいではならない
ところがヒトの多くは論理的な「考え」を放棄して 目先の安心満足感に溺れ 論理的証明や根拠もないのに盲目的に信奉することで哲学を逸脱し 危険なオカルトにも簡単に騙され陥る先天的習性がある
なにが論理検証的な「考え」で 何が主観的観念に過ぎぬ「思い込み」なのかを区別認識するのは論理検証性の方であり 主観ではない
ところが ヒトの多くは哲学というものを主観的な満足や安心を求めるものであると勝手に勘違いしているため 簡単に哲学を逸脱してオカルト観念に陥り 論理的には意味のわからぬ話であっても簡単に鵜呑みにするようになる
ヒトという種の生物の認知能力には 先天的に重大な欠陥が存在するのである
ヒトの多くは「頭が良くなる話を聞けば必ず気分が良くなるものだ」という先入観があり 気分が良くなる話さえ鵜呑みにしておけば「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いして満足してしまう
マイケル:サンデルの講義を聞いて サンデルが提示する命題の中だけで考えることを促されていても それが思考停止への誘導であることにはほとんどのヒトは気づくことすら出来ない
論理思考が信条の電子工学者の松尾豊ですら「サンデル命題には倫理が含まれている」と勘違いしているのである
どういった経緯で野井良治が「主観が大事」などと言い出したのかは知らないが たとえノーベル賞受賞者であっても権威が間違えている場合には批判する精神が 哲学には必要不可欠である
他人と話を丸めて主観的に共感したり満足することが哲学ではないことを 断じて忘れてはならない
主観的な共感による満足や安心というのは 客観的論理検証性を不具にするものでもあり 科学や哲学の思考から逸脱する大きな要因なのである
フリードリヒ:ニーチェを読んで 原田まりるが主観的に「かっこいい」だの「センター性がある」などといった主観的感想をいくら多数他人と共有しても それがニーチェが哲学であることの論証には一切ならない
それは 亀山郁夫が興奮してドストエフスキーの読書感想をいくら饒舌に主張しても ドストエフスキーが哲学書であることの論証には全くならない
私が亀山郁夫のドストエフスキー論が哲学ではないことを指摘したことで 亀山は「哲学者」ではなく「ロシア文学者」と肩書が変わることになった
どんなに悩ましい文学であっても それはサンデル命題の「悩ましさ」と同じで 哲学としての論理検証とは全く別物なのである
虚無主義的指向に陥り不道徳な政策を正当化する輩の話が時折出てくるのだが
「多くのヒトがバカ」であることをどんなにたくさん立証しても 「全てのヒトがバカから脱することが絶対に不可能であることの論理証明」にはならないのである
どんなに多くのバカを集めてきても 全てのヒトのバカが治らないことの論理的証明にはならない
ヒトという種の生物が 遺伝的進化とは別の社会的進歩を遂げるとすれば それは「より多くのヒトがバカに陥らないようにすること」である
それによって多数決による民主主義も正常に機能するようになる
Ende;