書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ならぬものはならぬのです

2020年04月05日 19時29分04秒 | 意識論関連

哲学とは 「考える」ことである

考えてみて 答えがわからなくても良いのだが

これは科学的検証実験において 仮説に基づいた実験がうまくいかない場合でも 「この仮説と方法論では立証出来ない」ことがわかっただけでも意味があるのと同じことで 哲学的な思考実験においても仮説や検証によって答えが出なくても わからなくても その仮説と検証方法では答えが出せなかったことがわかっただけでも意味はある

砂漠の真ん中でトカゲを探して一匹も見つからなかったとしても 「こうした環境下におけるこの探し方ではトカゲを見つけることはできなかった」ことの証明にはなるからだ

だから 哲学的に論理検証をしてみて答えが見つからなかった場合であっても 一定の意味はあるのだ

だが 本当は論理的には何も「わかって」などいないにも関わらず わかったような感覚に陥って満足することは 哲学ではない

科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは 「プラトンの呪文」と称して権威に対する盲目性を厳しく批判している

真理を追求する上においては 間違った話は間違っていると明確に批判する精神が必要であり 「わからなくても 答えが出なくても良い」からといって非論理的な観念に基づく気分的満足に陥ることは哲学の逸脱(オカルト)でしかない

「わからなくても 答えが出なくても良い」というのは「わけのわからぬ話でも鵜呑みにしておいて良い」という意味ではない

科学や哲学というのは徹頭徹尾 論理的な「考え」に基づいて検証することが求められるのである これがゆらいではならない

ところがヒトの多くは論理的な「考え」を放棄して 目先の安心満足感に溺れ 論理的証明や根拠もないのに盲目的に信奉することで哲学を逸脱し 危険なオカルトにも簡単に騙され陥る先天的習性がある

 

なにが論理検証的な「考え」で 何が主観的観念に過ぎぬ「思い込み」なのかを区別認識するのは論理検証性の方であり 主観ではない

ところが ヒトの多くは哲学というものを主観的な満足や安心を求めるものであると勝手に勘違いしているため 簡単に哲学を逸脱してオカルト観念に陥り 論理的には意味のわからぬ話であっても簡単に鵜呑みにするようになる

ヒトという種の生物の認知能力には 先天的に重大な欠陥が存在するのである

 

ヒトの多くは「頭が良くなる話を聞けば必ず気分が良くなるものだ」という先入観があり 気分が良くなる話さえ鵜呑みにしておけば「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いして満足してしまう

マイケル:サンデルの講義を聞いて サンデルが提示する命題の中だけで考えることを促されていても それが思考停止への誘導であることにはほとんどのヒトは気づくことすら出来ない

論理思考が信条の電子工学者の松尾豊ですら「サンデル命題には倫理が含まれている」と勘違いしているのである

どういった経緯で野井良治が「主観が大事」などと言い出したのかは知らないが たとえノーベル賞受賞者であっても権威が間違えている場合には批判する精神が 哲学には必要不可欠である

他人と話を丸めて主観的に共感したり満足することが哲学ではないことを 断じて忘れてはならない

主観的な共感による満足や安心というのは 客観的論理検証性を不具にするものでもあり 科学や哲学の思考から逸脱する大きな要因なのである

フリードリヒ:ニーチェを読んで 原田まりるが主観的に「かっこいい」だの「センター性がある」などといった主観的感想をいくら多数他人と共有しても それがニーチェが哲学であることの論証には一切ならない

それは 亀山郁夫が興奮してドストエフスキーの読書感想をいくら饒舌に主張しても ドストエフスキーが哲学書であることの論証には全くならない

私が亀山郁夫のドストエフスキー論が哲学ではないことを指摘したことで 亀山は「哲学者」ではなく「ロシア文学者」と肩書が変わることになった

どんなに悩ましい文学であっても それはサンデル命題の「悩ましさ」と同じで 哲学としての論理検証とは全く別物なのである

 

虚無主義的指向に陥り不道徳な政策を正当化する輩の話が時折出てくるのだが

「多くのヒトがバカ」であることをどんなにたくさん立証しても 「全てのヒトがバカから脱することが絶対に不可能であることの論理証明」にはならないのである

どんなに多くのバカを集めてきても 全てのヒトのバカが治らないことの論理的証明にはならない

 

ヒトという種の生物が 遺伝的進化とは別の社会的進歩を遂げるとすれば それは「より多くのヒトがバカに陥らないようにすること」である

それによって多数決による民主主義も正常に機能するようになる

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哲学からの逸脱

2020年04月05日 16時47分26秒 | 意識論関連

サンデル命題というものを シンプルに説明しておこう

幾つかの選択肢しか存在しない命題で どの選択肢を選んでも 倫理や人間性の論証などには一切ならない命題である

 

マイケル:サンデルはこうした何の論証にもならない命題を提示しておいて「倫理の話」だと言い張るが

これはただのペテンに過ぎない

ヒトの多くは与えられた命題の中だけしか見えなくなる習性があり

たとえば 白と黒の服を着た人達がバスケットボールのパスをしている動画映像を見せられ 「黒い服の人が何回パスしたのかを数えて下さい」と言われると 途中から黒いクマの着ぐるみを着た人が闖入してきても 多くの人は全く気付かない

サンデルはこうしたヒトの先天的習性を利用して 何の役にも立たない命題を提示しておいて あたかも人間性や倫理の論証になるかのように不毛な議論を延々とさせ 人命に関わる命題で気分的に「悩ませ」ることで 何かを「考えた」かのような錯覚に陥れているに過ぎない

ヒトの多くは気分的に「悩む」ことと 論理的に「考える」ことの区別がつかない

そうした欠陥が先天的にあるため ヒトは簡単に騙されるのである

人命に関わる命題でありさえすれば なんでもかんでも倫理や人間性の論証になるわけではない

 

哲学というものは 「考える」ことである

ところが多くのヒトは気分的に「悩む」ことと 論理的に「考える」ことの区別が出来ないために 「考え」を逸脱して意味のない話で何かを「わかった」と勘違い錯覚してしまうことで気分的に満足し 思考停止に陥ることで 洗脳に誘導することも可能なのである

 

人間性や倫理の本質とは 個人が自律的な社会的責任判断選択を行うことである

そして 自律とは自発的選択の中にあり 他にはない

 

先天的本能習性によって ヒトという種の生物の人間性を証明できるかのような嘘が蔓延しているが

これはヒトの多くが「自己の先天的本能習性として人間性が組み込まれている」と思い込むことによって 自己の先天的優秀さを妄想して気分的に満足しているに過ぎない

実際に 先天的本能習性として人間性を立証することは構造原理的に不可能なのである

そもそも本能習性というものは 環境依存性に基づくその場限りの気分的行動バイアスに過ぎず 自律的判断にはならない

ある特定の環境下においてのみ 利他的行動などを必ずするとしても 環境が異なれば発揮されないのでは自律にならない

東電社内という環境下においては 社員の多くが原発の津波に対する脆弱性を放置していたため 福島第一原子力発電所の事故は発生したのである

何度も言うが 福島第一原子力発電所の事故は畑村洋太郎が明確に「人災」として認定しているのであり 決して「天災」などではない

自己の生活や健康と 社会的責任判断を量りにかけるような選択というのは 気分的には「悩ましい」選択ではあるが 倫理や人間性の観点からは選択の余地はないのである

主観的には家族を露頭に迷わせたくはないと「思う」気持ちもわからないではないが だからといって何もせずに放置しておいて良い話ではないのである

「思い」という主観的感覚の強度程度で行動選択が決定していては人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない

臨床の最前線にいる医療関係者が 新型コロナウイルスに感染することを恐れて治療を放棄してしまえば 社会はトンデモナイことに陥るのである

倫理や人間性というものは 原発運転や医療だけに求められるものではなく あらゆる個人に求められるものであり その責任の程度は異なれ 逃げることは許されないものなのである

医療関係者でなくとも感染拡大を阻止するための行動選択は 全世界の国民全員に求められるものであって 「俺が感染したらどうせ助からねぇや」とばかりに自暴自棄にフィリピンパブをハシゴされては大迷惑なのである

 

社会分類上「哲学者」として扱われているとしても 実際には哲学を逸脱したペテンや洗脳に過ぎないものが大半である

それを指摘している「哲学者」が誰一人としていないことからも 現状の哲学界というものは哲学としての社会的役割を放棄した文芸や大衆迎合に過ぎないのである


哲学というものは「答えが出なくても良い」のだが ではなぜ「サンデル命題は答えの出しようがない」ことや「サンデル命題には倫理の本質が含まれていない」ことに多くのヒトが気付かないことや「なぜマイケル:サンデルには人気があるのか?」といったことにも考えを巡らすことが必要なのだが

ヒトの多くはマイケル:サンデルの洗脳手法に気付かず サンデルが提示した命題の中だけで答えを探してしまい 思考の自由度を簡単に奪われてしまうのである

 

こうしたペテンの手法は現状の哲学界において蔓延しており 昨今話題のマルクス:ガブリエルも「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すればなくなる」などといった論理的根拠も示されない実証不能の観念をひけらかして大衆人気を集めているのである

哲学は「役に立たなくても良い」のだが

哲学を逸脱した「役に立たないばかりか むしろ危険で有害な実証不能の観念に基づく洗脳に多くのヒトが気付かなければ バカのままでも良い」わけではない

バカは迷惑である

自律的な社会的責任判断が出来ない人間性の欠如した迷惑な奴のことを「バカ」と言うからである

それは学力偏差値とは何の相関もなく 学習障害でも「何が人間として正しい行動であるかを判断出来る」バカではない人はたくさんいるし

むしろ学力偏差値が高いバカの群れによって 社会は破綻に導かれているのである

 

Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする