書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

松浦健二

2020年05月25日 17時59分50秒 | 意識論関連

京大教授の松浦健二は「ヒトの先天的行動習性には合理的必然性がないのは 理性があるからだ」と言うのだが この話には合理的根拠が全く欠けている

単に「ヒトの先天的行動習性には合理的必然性がない」原因を「理性があるからだ」と決めつけているだけであって 論理の飛躍も甚だしく 到底科学的論証にはなっていない

犯罪や戦争といった非合理な行動習性であっても「個体数を制限するため」とこじつけることは可能であり そもそも自然界における生物の形質に対する「合理的必然性」の全ては「結果」に対するこじつけでしかないのである

生物には「目的」があるわけではなく あくまで結果的に生存していたに過ぎない生物という「結果」に対して生物学者達が後から合理的必然性をこじつけているに過ぎず ヒト以外の自然界の生物には意図的目的など最初から存在しておらず「ヒト以外の自然界の生物の行動習性や形質には合理的必然性がある」という前提自体から間違っているのである

シロアリが繁殖するのは目的があるからではなく 単に繁殖する性質を持った個体種への淘汰の結果に過ぎない

動物の場合には行動習性があるため あたかも意図目的に基づいて行動しているかのように錯覚しがちだが カビが生えるのに目的があるわけもなく 地層内部で嫌気性細菌が繁殖することにも目的はなく それはシロアリでもチンパンジーでも西ローランドゴリラでも同じことである

自然界の生物における進化であっても その先に合理的目的は必然性が存在するのかと言えば 別に特になく 長い生物史の中では幾度も大絶滅という破綻も起きているのであり どんなにその場限りの合理的必然性をこじつけても絶対的必然性の論証には全くならないのである

それとも「生物は大絶滅することを目的として大繁殖している」とでも言うのであろうか

こうした自然界の「結果」だけを絶対的なものだと勝手に勘違いしているからこそ NHKの解説員室山哲也が「人類は絶対に絶滅します」などと勝手な決めつけを科学的論証だと錯覚して言い張るようになるのである

自然界の生物というのはマクロな視点から見れば地球上に生えたカビみたいなものに過ぎず そこに合理的必然性を伴う「目的」があるわけではない

ヒトは主観的にそれを「素晴らしい」と称して絶対的目的があるものだと妄想しがちだが  客観的にはそんなものは存在しないのである

ただ 現在の生物環境というのはヒトが社会を維持する上において保全する必要があることは確かではあるが それとて50億年後には全て無駄になることが確定しているのであり 絶対的なものではない

ヒトが50億年後に何がどうなっているのかは想像もつかないが それは50億年後のヒトが考えることであって 今現状においてヒトが求めるのは社会持続可能性という安全性に基づいた行動選択であり これは暫定的であれ人類としての「目的」である

しかしチンパンジーは社会持続可能性など考えもせず 目先の欲望を満たす以外の行動は一切行わないのである

それは「個体の生存価においては合理的必然性がある」と説明することも可能だが それならヒトが詐欺行為を働いたり略奪強盗であっても「合理的必然性がある」とこじつけることも正当化が可能となるのである

「懲罰感情によって暴力者を排除する」というのは大衆の勝手な妄想錯覚であり 懲罰感情というのはSNS上のイジメやヘイトスピーチ 更にはホロコースト(大量虐殺)の原因でもある

ヒトがその先天的な社会形成習性により 統率的協調行動によってきゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーナントカちゃんへの誹謗中傷を行うことに合理的必然性など存在せず 単にヒトという種の生物における「人間性の先天的欠陥」が暴走しているに過ぎないのである

先天的欠陥が存在しているのは進化(変異)の結果に過ぎず その原因を「理性があるからだ」というのは科学的論理として全く成立しておらず 生物学界の従来のパラダイムを事後正当化するための言い逃れはぐらかしごまかし嘘でしかないのである

 

 

Ende;

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論理客観的論証なくして社会安全性など担保できない

2020年05月25日 13時46分21秒 | 意識論関連

「闇もこちらを見ている(フリードリヒ:ニーチェ)」などと称して主観的に怖い話や嫌な事柄を考えないよう誘導する洗脳の一種である

「闇」が具体的に何なのか 一体何にどう「気をつけなければならない」のかも具体性がなく 何の応用性もないのだが

雰囲気的に「かっこいい(主観)」ために大衆人気がある

原田まりるは「センター性がある」などと評したが そんなもん原田の主観であって哲学としての論理客観的評価には全くなっていない

フリードリヒ:ニーチェというのは基本的に主観で物事を決めつける話ばかりで 論理的根拠に基づいた論証はほとんど全く出てこず 主観的な文学芸術の類であって客観的論理検証を伴う哲学ではない

ところが大学ではニーチェは哲学として扱われており バカ学生の誰もそれが哲学ではないことに気付かないばかりか 何百万円もの奨学金(借金)をしてまで学ばされているペテンにも気付くことはない

哲学というのは「考える」ことであって 客観的論理検証が伴わなければ哲学ではない

しかし 大衆の多くは主観的感覚としての「悩ましさ」だの「恐怖」を基準にしているため 客観的論理検証を放棄し 思考停止の洗脳状態に簡単に陥り オカルト話を哲学だと勝手に勘違いし その多数人気だけで鵜呑みにするというバカげた勘違いに気付くことがない

闇もこちらを見ているから「気をつけなはれや〜(チャン:カワイ)」程度の話など 安いメタボ芸人レベルでも言える話であり

「気をつける」と称して主観的に怖い話や嫌な話について考えなくなるよう誘導し 論理検証することを放棄して満足するための言い逃れに使うことが可能である

哲学というのは客観的論理検証であって 主観的感覚を徹底的に排除することからはじまるものである

主観的な「思い込み」や「世間の多数派の常識」に惑わされずに自律的に客観的論理検証をして はじめて「哲学」なのであるが

世間大衆の大多数は自分の主観的思い込みや世間の常識に対して疑うことを嫌い その恐怖心から何も「考え」なくなるのである

だからこそ「哲学」という客観的論理検証が重要であり 社会的に必要なのだが その「哲学」界がニーチェだのマルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルといったペテン師の多数人気で撹乱されているのが現状である

その人気を支えているのが権威に無批判なバカ学生や文科系マスコミ関係者達による多数決であり 誰一人としてその嘘を見抜くことが出来ない

 

文科系評論家というのは自分の主観的感覚を絶対だと信じ込んでおり 他人を主観的にしか評価しようとせず 他人の話に論理的反証もせずに少数派であることや他のオカルト学者達の文脈との類似点だけを論拠に反証にすり替えるというペテンを平気でやる

何せニーチェを哲学だと勘違いしているバカであるから 主観こそが絶対だと信じ込むことは簡単である

ニーチェが哲学ではないことを現状の哲学界の誰も主張しない時点で 既に現状の哲学界は哲学としての社会的役割を完全に放棄しているのである

哲学が哲学としての社会的役割を放棄しているからこそ 生物学における誤謬も放置され続けているのであって

現状の生物学界と哲学界はその社会的役割を一切果たしておらず 学術権威として無能も甚だしい

山極寿一のような頭の悪い生物学者が京大の総長に就任しているというのは それを許している他の学術権威者の任命責任にも関わる重大な失態である

ノーベル賞受賞者の野依良治(理研理事)は「主観が大事」などと言い出したが 野依は自分の社会的評価に酔いしれて自分の主観が絶対だと勝手に勘違いしているのであろうか

だとすれば理研の理事としては適任ではない

科学や哲学というのは論理的根拠に基づいた客観性が求められるものであって 「主観が大事」などと言い出すバカが科学研究の責任者では社会安全性にとって著しい障害にしかならない

 

Ende;

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世界は存在する

2020年05月25日 10時51分07秒 | 意識論関連

現在の生物学者達が言う「必然性(合理性)」というのは あくまで生存価における必然性を述べているのであって これは全て自然界の「結果」であって 意図意識的な「目的」に基づいた合理性ではない

人間社会においての合理性というのは 個体個人が生き抜くことではなく 社会全体の持続可能性や安全性を基準にしたものであって 繁殖能力だの生産能力といった「生存合理性(必然性)」は基準にならないし してはいけないのである

現在の生物学上においては「生物の目的は生存」だとされているが 「生存」というのは自然界の「結果」であって「目的」ではない

結果的に死なずに生き残った個体種を「生物」と分類しているに過ぎず 生物学者が言っている「自然界の生物の行動習性には必ず必然性がある」と言う話であっても これはあくまで「生存」を基準にした事後正当化のこじつけであって その進化の過程自体には何の合理性も必然性もなく 突然変異と淘汰圧力というシーケンシャルな構造の結果として生物進化が生じているに過ぎない

生物進化というのは遺伝的な進化を意味するのだが 生存にとって必然性や合理性のない形質を持って生まれてきた個体種への自然界の過酷な淘汰によって「生存にとって必然性のある形質」への洗練が起こったのであって

こうした自然界の遺伝的進化のメカニズム構造を人間社会にそのまま適用してしまうからこそ優性思想などという野蛮な発想に陥ることになるのである

ヒトが差別や懲罰によって排除を行うという先天的行動習性に対しても 進化的な「意味」をこじつければ あたかも「穏やかな個体種への淘汰を促すため」などというこじつけもあるが

しかし実際のイジメや差別というのは野蛮な暴力的個体が野良犬のような集団組織的統率による協調行動の暴走によって弱者や少数派の抹殺に至るのが現実である

イジメや差別といった野蛮で暴力的な行動を採るヒト達に対する淘汰圧力というものは存在せず むしろ先天的な社会形成習性による統率的協調行動によって弱者や少数派に対する淘汰圧力としてしか働くことはないのである

生物学上における「社会性」というのは あくまで「社会を形成する習性」を指しているに過ぎず

統率的な協調行動や役割分担さえ行えば「人間としての社会性」の論証になるわけではない

振り込め詐欺師達がどんなに高度な役割分担や協調性を発揮しても それは「人間としての社会性」の反証にしかならないのである

振り込め詐欺というのは 出し子や受け子といった末端の切り捨てを行うことによって組織を維持することが可能なのであって これは組織の「生存戦略」的には優秀だと言えるのである

それなら人間社会において詐欺師集団が「優れている」と称して詐欺だらけに淘汰されれば「進化」だと言えるであろうか

それはもはや答える必要性すらなかろう

だが 自然界においては寄生や殺戮や弱者切り捨ては常套手段であり 個体種の生存価における「必然性(合理性)」だけを基準にするというのは むしろ人間性に対する冒涜ですらあるのだが 生物学者達の主張に対して哲学者や文科系マスコミ関係者達は誰一人として問題意識すら持たないというバカの集団なのである

 

 ◇


ヒト個人は必ず死ぬ

個体個人は死ぬという前提において 次の世代に受け継ぐという持続可能性に基づいた選択こそが人間性を発揮するのであって 個体の生存や遺伝的進化のために弱者を切り捨てるような自然界の構造を人間社会に持ち込むこと自体がとんでもない大間違いなのである

「人が人を殺してはいけない理由」は存在しないが

だからといって「人が人を殺すような社会を放置しておいても良い理由」には全くならないし

むしろ「人が人を殺すような社会に生き続けなければならない理由」にもならない

単一の「理由」だけで短絡的に何かの免罪符になるわけではないのである

自然界における弱肉強食を人間社会に持ち込むからこそ 金儲け絶対主義に陥るのであって 経済というのは本来「経世済民」の略であって 民を救済することが「目的」なのであり 個人や組織の金儲け競争が目的ではないのである

自然界における生存競争や淘汰圧力による「進化」を経済に適用してしまうからこそ貧富格差が拡がってしまうのであって 目先の金儲け効率だけを追求してしまうからこそ労働力すら「買い叩き」の対象にされてしまうのである

ベトナムやキューバは社会主義だが 独裁が問題になったことは聞いたことがない 制度として社会主義を導入していても 統率者に人間性が伴えば正常に機能する

逆に民主(資本)主義を導入していても 民衆がバカしかいなければ「バカ主義」にしか陥らないのである

これは 結局制度の問題ではなく 制度を取り扱う人間性の問題なのである

人間性というのは意識の問題であり 自律的な論理検証性の問題であって 「理性があるから非合理な習性がある」などという自己矛盾な屁理屈を鵜呑みにしているバカが多すぎるから人間性が蔑ろにされてしまうのである

 ◇

生物の生存というのは「結果」であって「目的」ではない

つまり 生物には目的がない

これは種としてのヒトにおいても同じである

しかし ヒト個人においては「生きている間にやっておきたいこと」という主観的目的はある

それは個人それぞれであるが 個人的な目的を追求する上において社会安全性や持続可能性は大前提であって 個人の主観的目的だけで行動選択することなど出来ないのである

自分が実現したいことがあるならば 他人の実現したいことも尊重する それが人間性の源である

社会安全性や持続可能性を基準にするというのは 突き詰めれば「自分が実現したいことをできるような社会を求める」という利己性から導き出されるものなのである

「情けは他人の為ならず」とか「世界中の人が幸福にならなければ個人の幸福もありえない」といった人間性というのは 結局は「自分が究極の幸福を得るため」の手段であって

目先の欲求を満たすだけの身勝手な行動を採るバカというのは 本当に自分が望むものが何なのかを考えたこともないからバカなのである

マイケル:サンデルの講義や麻原彰晃の説法を聴いて「自分は頭が良くなった」などと勝手に勘違いして満足し 何も考えなくなることは簡単である

「トロッコ問題には倫理が含まれていない」ことなど 誰も「考える」ことなく 一生懸命「考えた」つもりになって満足しているバカが多すぎる

マルクス:ガブリエルが言う「世界は存在しない」だとか 養老孟司の言う「客観的事実など存在しない」などいった非論理的オカルト話は何の役にも立たないことが論理的に明白であり そんな話を有難かっている時点で既にバカであり 洗脳状態なのである

客観的事実や世界が存在しないのであれば 東池袋プリウス暴走事故で松永莉子ちゃんが亡くなったことも存在しなくなるのである

原発事故も航空機事故も全部存在しないとでも言うのであろうか

文科系マスコミなどのバカというのは何も考えないので 主観的感覚で「面白い」と思いさえすれば取り上げるが 論理客観的検証は面倒臭いので誰もやろうとしないのである

 

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生物学者の屁理屈

2020年05月25日 02時05分22秒 | 意識論関連

「自然界の生物の先天的習性というのは全て必然性があるが ヒトの先天的習性には必然性がないのは理性があるからだ」

これが生物学者達の屁理屈である

ヒトの先天的習性に必然性がないのは先天的な結果であり それに対して自然界の生物というのは習性に必然性がない種は淘汰されていなくなったからであり 過酷な淘汰圧力によって「洗練」されているからである

自然界においては必然性のない行動習性や性質を持った個体は淘汰対象である

つまり 先天的遺伝疾患を持って生まれてくれば問答無用に死ぬだけであり 結果的に生き残った自然界の生物というのは行動習性も含めてあらゆる性質に必然性が伴うことになる

これが遺伝的進化というものの実相である

しかし ヒトはその限りではない

先天的遺伝疾患を持って生まれてきたからといって 優性思想に基づいて淘汰してしまえば人間性も精神もヘッタクレもあったものではない

遺伝的な突然変異が生ずるのは 生物進化の過程において必然性があるが これは進化においては必然性があるが そもそも生物進化というものは目的や意図があるわけではなく 生物の進化の歴史においては何度も絶滅や破綻に至ったケースは 進化的成功よりも圧倒的に膨大に多いのである

遺伝的進化というものは 言うなれば膨大な無駄死にの上に成り立つ洗練された必然的結果であって 合理的目的や意図のようなものが存在するわけではない

そもそも自然界の生物における行動習性に必然性や合理性があると言っても それはあくまで「生存価において」という限定的価値観に基づく合理性や必然性に過ぎない

個体種の生存価を絶対的な基準とするから優性思想に陥るのであって 自然界の過酷な淘汰圧力ありきの合理性や必然性を そのまま人間社会に持ち込むのは非常に乱暴で危険な短絡的発想である

先天的疾患などによって生産性も繁殖能力も持たない個体が生まれてきたからといって これを短絡的に「生存にとって合理性や必然性がない」と称して淘汰するのが優性思想である

死にさえしなければどんなに残虐でも正当化できるのが「生存にとっての合理性や必然性」であって こうした生存絶対主義によって優性思想というものが作り出されるのである

現在の生物学界というのは生存価における合理性や必然性だけが絶対的価値として扱われており これはもはや科学でも何でもない 生存だけを唯一の目的とした一種の宗教である

「欲望自体を欲することは出来ない」のがヒトだが 欲望を選択することは不可能ではない ヒトの様々な欲望の中から統合的に安全性や持続可能性を基準に選択を行うのは理性である

ヒトの先天的行動習性に合理性がないのは「結果」であって 別に理性があるかどうかとは無関係である

そもそも先天的行動習性というものは理性によって作り出されたものではなく 偶発的変異の結果に過ぎない

先天的行動習性に欠陥があるとしても これを補うことができるのはヒトに理性が存在するからであって 理性なしに人間性に基づいた合理的行動選択などできるわけがないのである

従って「理性があるから行動習性に合理性がない」という話は根本的に間違っているのである

そもそも「必然性」というのは「合理的かどうか」を意味するのであって 理性を抜きにして必然性を語るのは自己矛盾も甚だしい

現在の生物学者達の大半は自然界における「生存合理性」を絶対的な価値と見なし 自然界の生物における「結果」を事後的に正当化するための屁理屈をこじつけているに過ぎない

だから優性思想への論理反証も一切出来ないばかりか むしろ優性思想を正当化しかねない屁理屈をこじつけるばかりであり もはや科学としての社会的役割を放棄したオカルトにしかなっていないのである

文科系マスコミの多くも論理的証明よりも学術権威の多数決や目先の主観的「面白さ」ばかりを基準に取り上げており 極めて偏った報道しかしていない

目先の流行や学術権威者の多数決に流されることなく論理的公平性や中立性といったものがマスコミには求められるはずであり これを欠いたが故に招いた重大な過去の失態を教訓とすべきなのだが 論理的検証の苦手な文科系マスコミ者達にはそれは優先度が著しく低く見積もられているのである

「起こったことの全ては必然である」と称して既存の社会体制を事後正当化するための屁理屈をこじつけていれば進歩は失われる

その「社会体制」には現状の生物学界や哲学界も含まれるのである

 

Ende;

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