書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

上っ面な人間性

2020年05月28日 15時53分05秒 | 意識論関連

「死にたくない」というのは主観です

主観である以上どんなに強く「思って」も客観的には目的の論理証明にはなりません

脳を持つ生物というのは進化の過程で「死にたくない」という行動バイアスを持つようになりました

それは「死にたくない」と思わない個体種の全てが淘汰された結果に過ぎず 遺伝的進化におけるシーケンシャルな結果以上の意味はないのです

「死にたくない」と「思わ」ない個体種の場合 天敵に襲われても恐怖を感じないため 簡単に捕食されて死滅します

ですから より「死にたくない」と強く「思う」ような行動習性バイアスを持った個体種への淘汰圧力が働き 結果的に「死にたくない」と強く思うようになるわけです

遺伝的進化というものは 計算機上でのシミュレーションでも再現可能なものであり それはつまり機械的にシーケンシャルの生ずる単なる自然現象に過ぎないことを意味するのです

ヒトの先天的な行動バイアスの中には 暴力や懲罰を短絡的に解決だと錯覚する性質も含まれています

自然界の過酷な生存競争環境においては暴力性は必然的で合理性があると言えますが 人間社会においては意味が全くありません

たとえ凶悪な殺人犯やテロリストであっても 死刑にしておけば合理的な再発防止になるわけではないからです

錯覚というのは 進化の過程で何らかの必然性によって生じた主観的感覚が引き起こすものであり 客観的論理検証によって錯覚を錯覚であると認識できれば間違った認識に惑わされることはありません

ヒトが引き起こすあらゆる「人災」の多くは 主観的感覚が引き起こす錯覚などの誤認が原因です

「刑罰判決で解決だ」とか「地下鉄に毒ガスを撒き散らすことが人類の救済だ」などといった錯覚による誤認識によって ヒトは間違いを放置し 漫然と間違った行動に邁進し続ける習性があります

ヒトは間違えるものです

生まれてきてから一度も間違いを犯したことのないヒトなどというのはいません

間違えるという性質はヒトから取り除くことは出来ないのです

でも 同時にヒトというのは間違いを繰り返さないように工夫することもできます

こうした「工夫」というのはAIにはできないんですね

そもそも間違いなのかどうかはディープラーニングAIではヒトが予め「これが間違いで これが正解だよ」と大量の情報を与えて「学習」させる必要があり AI自身は間違いかどうかを自発的に認識することは出来ないのです

多くのヒトというのはこの世に産まれてからずっと「刑法判決で解決だ」という社会制度の中で育ってきているために これを「学習」する形で「そういうものである」と論理的根拠もなく鵜呑みにしてしまっているのです

でも ヒトはAI程バカではないので 真摯に論理検証すれば「刑法懲罰では本当の解決としての原因究明や再発防止にはならないぞ」と「気付く」ことも可能となるのです

東池袋プリウス暴走事故のご遺族である松永莉子パパも「再発防止を優先して欲しい」との見解を出されるようになりました

本気で何かを考え 論理的に検証すれば 何が本当に必要なのかを導き出すことは可能ですが

ヒトの多くは目先の感情に流され 既に刷り込み学習された「常識」に惑わされ 多数派に引きずられ 「本当のこと」を見失い 「こんな奴は死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らすタレント同調して満足して終わりになってしまうのです

「本当のこと」とは「真理」のことです

なぜ哲学が重要なのかと言えば 間違った認識による間違った対策に陥らないために必要だからです

哲学というのは 妖怪悪霊の類いを信じておまじないでどうにかなるという訳のわからぬ「対策」に陥らずに 合理的で実効性のある対策を見極めるためのものであって 訳のわからぬ話を漫然と鵜呑みにしていて哲学もスッタクレもあったものではないのです

 

目的とは何か

目的とは論理的道筋を立てて行動選択を行うためのものであって その場限りの主観的感情に流されてしまうと見失うことが多いからこそ 「目的意識を持て」と言われるのです

パリピだのクソDQNは酒や薬物や暴走暴力行為で脳を麻痺させてヘラヘラ笑うことが「目的」ですが それで満足することはないため 気に入らないとすぐにブチギれたりします

バカ同士で同じ観念を共有しておけば その場限りには満足できるため その満足の中毒によって必死になって迷惑行為に邁進するわけです

生物学研究者の中には 研究費も出ないのに自費で砂漠の真ん中まで行って日がな一日中トカゲを探して穴掘りに汗を流す者がいますが 虫一匹見つからなくても「楽しい」と言います

でも パリピやクソDQNみたいにヘラヘラは笑っていないんですね

他人から見たらむしろ修行みたいですけど 本人は主観的に楽しいんですね

どちらにせよ すぐには何かの役に立つわけではないんですが 砂漠の真ん中でトカゲが見つからなくても「そこでトカゲは見つけられなかった」という科学的検証の一環にはなる

生物学研究というのは現地での実地検証が最も重要で 並外れた忍耐力が必要ですが 主観的に「楽しい」という個人的な「好き」という感情が伴えば 外見上修行みたいな過酷な研究であっても「楽しむ」ことができるのです

ところがクソパリピやDQNというのは目先のバカ同士で騒ぐことの中毒に過ぎないため 簡単に禁断症状に陥り訳のわからぬ迷惑行動にも暴走するわけです

忍耐力というものがない

本当は心の底からは「楽しめ」ていないからです

「心の底」から楽しいことというのは 他人に依らず主体的で個人的に楽しめるかどうかに関わるものであり これが「純粋行為」というものです

ところが 科学研究者や哲学者の中には他人からの評価承認欲しさにやっている奴がおり 研究自体を楽しむことが出来ずに大衆ウケの良さそうな嘘でも平気でつくバカが後を絶ちません

論文捏造もそれが原因です

京大学長の山極寿一は「ヒトには先天的に人間性が存在するはずだ」などという非科学的オカルト観念を公言して文科系マスコミからの人気を得ていますが これは科学的には立証不可能な「嘘」でしかありません

ヒトという種の生物に先天的な人間性が存在するというのであれば なぜ原発の危険性は放置されたのでしょうか

それを「環境のせいだ」と言うのはおかしな話で 人間性というのは「個人が自律的な社会的責任を負う」ことでしか立証不可能なものだからです

先天的な習性の全ては環境依存的な結果でしかありませんから そこには自発性とか自主的自律といったものが全く論ずることが出来ないわけです

したがって 動物の先天的な本能習性からは人間性を立証することは構造原理的に最初から不可能なのです

「東電社内という環境下では自律的な社会的責任判断が出来ない」というのでれば それは人間性でも何でもないでしょ

それを主観的に「かわいそうだ」といくら「思って」も 自律なくして人間性を語るこた不可能なんですよ

たとえ自分の生存にとって不利な状況に陥る可能性があるとしても 社会的な責任を優先してこその人間性や倫理なのであって 環境や主観に左右されていて人間性や倫理を語るこたできないわけです

生存というのは あくまで「結果」ですから 先天的疾患などによって繁殖能力や生産能力がないから社会から要らないという話にもなりません

存在としての意味は 生存価にはないのです

ただ「生きて」いさえすれば良いというのであれば 別にヒトである必要性すらなくなります

ゴキブリで充分という話になってしまいます

それで良いんですか?

良いわけないでしょ?

ヒトが社会における存在価値として必要なのは 倫理や人間性であって 次世代に社会を受け継ぐことがままならないのであれば 自己の存在にも意味はなくなるのです

何をやっても意味がなくなる

どんなに旨い飯を食っても そんなもんただの味覚中毒でしかありませんから そんなもん存在の意味には全くなりません

3歳の子供が路上で車に轢き殺されていたら 飯の味なんぞ何にもわからないのが「人間」というものです

もし これが「他人事だ」と無視できる奴がいたとしたら そいつのこと人間として見れますか?

そういう奴になりたいっすか?

まあ 「なりたいかどうか」は所詮主観に過ぎませんから アグネス・チャンがロリコン嫌うのと同じようなものなんですが

子供という次世代が無為に死んじゃう社会というのは持続可能性が著しく欠けていますから 自分が何をやっても意味がなくなるんですよ

それは論理証明可能な存在意義として成立します

 

個人の内部に存在する 様々な主観的価値観の中から 統合的に論理検証して最も重要な「目的」とは何かを導き出せば 自ずと人間性や倫理が最も重要であることは不可避なのです

主観というのは様々で「かわいいおねいちゃんのおパンツ脱がしてアレコレしてみたい」と思うのも主観だし 「クソDQN殴り殺したい」と思うのも主観だし 「何にも理解できないバカ相手に哲学とは何かを説明すんのめんどくせー」と思うのも主観ではあります

でも それらの主観が暴走するのを制御するのが理性であり 目的意識を持って行動すれば「めんどくせー」かどうかはどうでも良い個人的感想に過ぎないわけです

ですから人間としての意識の主体は客観的論理検証性という理性であって 主観ではないのです

理科学研究所の研究者に対し 「論文の捏造をするのはやめましょう」などという幼稚園レベルの「教育」をして満足しているのが野依良治です

主観的には満足しているから 野依にとってはそれで充分だと主観的には「思って」いるんでしょうな

ノーベル賞受賞者だからといって全員がマトモだとは限らないんですね

中にはボケジジイもいる

大衆観念的には「おパンツ脱がしてアレコレしてみたい」なんて言い出す奴なんか信用したくないんでしょうけども それこそが大衆観念(主観の多数決)であって「雑念煩悩のない全人的聖人君子がどこかにいるはずだ」という 一種の「超人」幻想に基づいた根拠のないバイアスに過ぎないわけで むしろ雑念煩悩を隠蔽した表面的な偽善者の方を信じたがるからこそ簡単に詐欺に引っかかる

ヒトは誰しも雑念煩悩があって 男なら大抵 女子高生がミニスカートで高い所に立ってたら ウッカリ無意識におパンツを覗きこもうとしてしまうこたよくあることであって そこにブレーキがかかるかどうかが人格性なわけです

自分の親族の娘が どっかのエロオヤジにスカート覗かれたら蹴り飛ばしたいと思うのならば 自分も他人の娘のスカートは覗きこまないようにするのが人格というものです

目先の主観的感覚や先天的行動習性に流されていると人間性を喪失しがちです

だから論理的に「考え」て やって良いことと悪いことを分別し 自律的にブレーキをかけることが人間性や倫理の証明なのです

大脳辺縁系を損傷して理性だけが純粋な状態では何も決めることや選ぶことはできませんが 本能だけでは暴走にしかなりません

あくまで理性が本能習性を制御している状態において人間性が発揮されるのであり 理性はそもそも暴走することはないのです

理性が働かない状態では野獣のような行動しかしませんが 理性しか働かない状態ではパソコンみたいな行動しかできなくなります

パソコンは放置しておいても何もおきませんけど 野獣は危険でしょ

ですから「主観が大事」なんていうのは野依良治の根拠のない妄想に過ぎないわけです

バカ哲学者達は「利己的行動=理性」などという論理的根拠のない勝手なこじつけで大衆や文科系マスコミ関係者や野依良治を丸め込んでいますが

そんな嘘は簡単にバレます

バカじゃなければね

バカじゃどうしようもねぇわw

 


Ende;

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