純粋行為とは 他人からの評価や外見に関わらず個人的に好きなことを意味する
自分が何をしていれば楽しいのかは 自分でしか認識することは出来ない
加藤英明が砂漠の真ん中で一日中汗だくになってトカゲを探して一匹も見つからなかったとしても 加藤にとっては「楽しい」のである
他人からみたら難行苦行のようにも見えるのだが 当人的には「楽しい」のである
たとえ目当てのトカゲを見つけられたとしても それだけで何かの社会的価値になるわけでもない
これは加藤本人も自覚していることである
基礎科学というものは 純粋な好奇心による探求が動機になっており 先立って「何かの役に立つかどうか」という「目的」はなくても良い
とにかく「わからないことは とりあえず調べてみる」という姿勢で熱中して取り組むことによって それまで誰にも知られていなかった事実に辿りつくこともある
辿りつかないこともある
たとえ辿りつけたとしても評価が得られない場合もある
でも やるんですね
主観的にそれが「好き」なもんだから評価の有無に関係なくやる
これもある種の中毒や執着に因るものなんですが これは脳内麻薬の自給自足になるので 他人に迷惑がかからないような配慮もできるようになる
ところが 他人からの評価を期待して行われる不純な行為には「他人に対する迷惑への配慮」が欠如してしまう
論文で捏造が行われてしまうのも その研究内容というのが本当は純粋に好きなことではなく 他人からの評価欲しさへの執着(中毒)が原因である
新型コロナウイルス感染症拡大予防が重要な時期に 夜中にキャバクラだのホストクラブだのガールズバーだのフィリピンパブをハシゴして泥酔して大声出して騒いでいるバカというのも 「純粋に好きなこと」がわからないことが原因である
純粋行為を知らぬ者は他人への配慮が働かず 環境から提供される快楽のままに誘導される形で騒いでいないといられないのである
純粋行為に対して「それしかない」だとか言っているバカもいたが これは逆で むしろ純粋行為を知らぬバカこそが「環境から与えられる快楽」以外を主体的に選択することが出来ないのである
本当に好きなことをやろうとするのであれば エタノールだの薬物で脳を麻痺させようとはせず むしろ好きなことを存分に出来るように自分の健康にも配慮するようにもなる
学力成績がどんなに高くても 認知科学的には知能の論証には全くならない
そればかりか テロリストや通り魔の多くは学生時代に学力成績が高いことが非常に多い
学力成績というのは 記憶力と直結しているので 教えられたことを短絡的に鵜呑みにしておけば学力成績は高いのだが
学力成績という抽象化された「脳への報酬」欲しさに学力成績に執着していると たとえ間違った内容を教え込まれても 一切疑うことなく鵜呑みにするようになる
動機がそもそも環境依存的であるが故に 本質的な主体性がなく 自発的に検証するという「考え」がなく 必然的に批判精神も働かない
イジメやヘイトスピーチなどの「差別」というのは 他人への誹謗中傷をしている自己への客観性が欠落しているために 自己批判も出来ずに弱い立場の人を攻撃して気分的に満足しているだけである
実際ヘイトスピーチをやっているバカは暴力団や暴走族には何も言わない
怖い相手には逆らず 「勝てそうな相手」しか攻撃を仕掛けていない卑劣さを自覚する自己客観性が全く働かず 目先の感情が促す快楽のままに弱いものイジメをするのである
民族国籍が人格の優劣の論証に全くならないことは民俗学的にも分子生物学的にも明らかであり ましてや在日3世(日本人)の名字が外国由来だと言うだけで「国へ帰れ!」などと言い出すのは意味が全くわからない
批判精神は必要だが そこには論理的根拠が必要不可欠であり 同時に暴力などの物理攻撃が伴うのは合理性がなく 批判と差別の区別が出来ていない
主観的な好き嫌いがあっても構わないが それはあくまで個人的なものであって 社会的行動に直結して良いものではない
純粋行為というのは個人的な「好き」に基づくものであるが 個人の主観的な「好き」を追求出来ているが故に自己客観性も働くようになるのである
しかし 個人的に「純粋に何をしていれば楽しいのか」を知らぬ者は自己客観性も働かないため 先天的行動習性が促す行動のままに統率的協調性を発揮し イジメだのヘイトスピーチといった差別排除暴力に邁進していなければいられないのである
これもまた一種の「中毒(執着)」ではあるのだが 自己選択可能性というものが一切なく 環境によって促される先天的本能習性のままに因果律(運命)に流される形で社会的迷惑行為に邁進(暴走)しているのである
純粋行為を知っている者は暴走はしない
自己客観性が働くからである
自己客観性というのは論理検証性が必要不可欠であり 自己の主観的感覚だけではなく 論理客観性が働くことによって自己客観性も機能するのである
カントの純粋理性批判を読んで「自分には理性や人智を超越した謎の叡智が働いている」などという妄想観念で満足して鵜呑みにしているのも 自己客観性の欠落であり 主観的満足によって自己客観的論理検証性が後回しになってバカになっているのである
こうした主観的満足による自己客観性の欠落こそが因果律であり 「腹が立ったから正義だ」と思い込んでいるバカと構造は一緒である
Ende;