書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

役に立たないことが立証されている話は哲学ではない

2020年07月27日 10時30分25秒 | 意識論関連

「哲学は 役に立たなくても良い」と言われているが

これは「何の役にも立たない話で気分(主観)的に満足して論理検証をすっ飛ばしていても構わない」という意味ではない

科学的検証においても 検証の全てが役に立つわけではなく 量子物理学や天文学の研究のほとんども直接何かの役に立つわけではない

しかし 量子物理学や天文学というのは論理客観的根拠に基づいて検証されているため 将来的に何かの役に立つかも知れない可能性は開かれているのである

「役に立たなくても良い」というのは こうした可能性が開かれている場合における話であって 論理客観的根拠をすっ飛ばした勝手な決めつけやファンタジーで気分(主観)的に満足安心して思考停止に陥ることは哲学ではない

哲学とは 考えることであり 論理客観的根拠に基づいた論証の積み重ねによって真理(本当のこと)を知ることである

疫病の科学的メカニズムを知ることによって 本当に効果のある治療法や予防法が何なのかを知ることによって無駄死にする人を減らすことが可能となる

しかし 本当のメカニズムが何なのかを追求せず 目先の気分的安心満足によって思考停止に陥っていれば 意味のないお祈りやおまじないの類いに頼ることになる

フリードリヒ:ニーチェもエマヌエル:カントもオカルトであって 到底論理客観的根拠に基づいた哲学ではない

つまり 「役に立たないことが論理的に立証されている」のであって これは科学で例えれば錬金術や天動説を科学だと盲信しているのと同じである

「哲学には好き嫌いがあります」とも言われているが 個人の主観的好き嫌いなんぞ何にでもあるものであって 主観的に好きだからといって論理客観的に正しいことの論証には全くならない

これは 錬金術や天動説やUFO宇宙人説をどんなに「好き」だと主張しても科学的に正しいことの論証には全くならないのと同じである

現状の哲学者達は自分達の信じ込んでいたカントやニーチェに論理的根拠がなく哲学ではなかったことをはぐらかすために 「役に立たなくても良い」とか「好き嫌いがある」などと称してその場限りにごまかすことばかりに邁進しているのである

 

科学においても好き嫌いはあるだろう 天文学が好きな場合もあれば 物理学が好きな場合もあるし 生物学が好きな場合もあるだろう

しかし 生物が好きだからといって あたかも遺伝的進化が万能であるとか 目的や戦略が存在するかのように言い張るのは論理客観的根拠が全くない

それは「生物が好き」なだけであって 科学としての「生物学が好き」なのとは異なる話である

チンパンジーが好きすぎて科学的根拠もないのに「チンパンジーには人間性があるはずだ」などと言い張り都合の良い立証だけを抽出してきて業績であるかのように偽装していては科学としての生物学を逸脱しているのである

ダンゴムシが好きすぎて「ダンゴムシには心がある」などと称して意味のわからぬ理屈を並べ立て 最後には「直感的にわかってもらえれば」などと論理客観的論証をすっ飛ばしていたのでは話にならない

国語辞書で「心」を引いても科学的定義であることが保証されているわけではない

「心」というものの定義を論理客観的に明確にしてからでないことには 「心」を科学的に検証することはできないのである

 

Ende;

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