水族館の水槽ってガラスじゃなくてアクリルでできているそうなんだけど
新型コロナウイルス対策で表面を消毒している
まさかアルコールじゃないと思うんだけど
一回でもアルコールで拭いちゃうと何が起きるかわからないよ
くれぐれも気をつけてね
ベンザルコニウム的なものとか中性洗剤的なものなら大丈夫なんだと思うよ
多分
知らんけど
水槽こさえている会社に聞いた方が正確だと思う
Ende;
水族館の水槽ってガラスじゃなくてアクリルでできているそうなんだけど
新型コロナウイルス対策で表面を消毒している
まさかアルコールじゃないと思うんだけど
一回でもアルコールで拭いちゃうと何が起きるかわからないよ
くれぐれも気をつけてね
ベンザルコニウム的なものとか中性洗剤的なものなら大丈夫なんだと思うよ
多分
知らんけど
水槽こさえている会社に聞いた方が正確だと思う
Ende;
子供の好奇心は科学的探求の動機にはなっていますが だからといって子供が科学的に論理検証できるわけではありません
好奇心(主観)は「答え」を求めますが 必ずしも論理「客観」的根拠を必要としません
子供というのは考えが幼稚であるため 好奇心だけで「答え」をでっちあげて勝手な正義を振るうので 子供だけで集団生活をさせればイジメなどの非合理な行動も簡単に起きるわけです
科学的論理検証というのは「わからないことは わからない」とする冷静さが不可欠であって 本当は論理的には理解できていないのに「わかった」ような錯覚に陥って勝手に「答え」をでっち上げてしまうからこそ ヒトは暴走破綻に陥るのです
科学が科学であるためには 単に子供じみた好奇心(主観)だけで科学的検証になるわけではなく 論理客観性が必要不可欠なのです
大脳辺縁系を損傷した人の場合 決して子供じみた「答え」の追求はせず あくまで他人から選択を求めれた際に「わからない」と言うだけであって 子供の探求心と大脳辺縁系を損傷した人の言動は全く異なるものであり これをごちゃまぜにしている現状の「哲学者」達は「叡智界」などという訳のわからぬ話を鵜呑みにしていた自分達の頭の悪さをはぐらかしているだけなのです
子供に限らずヒトという種の生物というのは論理客観的検証に基づいた合理性のある行動選択は出来ないため 「叡智界」などという実証不能の観念であっても簡単に鵜呑みにして満足し 論理客観的検証に基づく「本当のこと」を簡単に見失う欠陥があります
「本当のこと」がわからなければ 「本当ではないこと」に意識囚われ 非効率で意味のない行動しかしなくなり 暴走破綻の危険性に対しても何の対策も出来なくなります
何も「考え(客観的論理検証)」ない人なら それで良いと「思って(主観)」るんでしょう
その「意識」こそが「無意識」だということも「理解」することも「区別」することも出来ないからです
単なる好奇心や探究心といった主観的欲望だけなら宗教でもイデオロギーでも妄想ファンタジーでも何でも良いのであって 論理客観的根拠をすっ飛ばして「答え」をでっち上げてしまえば暴走しか招きません
実証不能の観念だからこそ暴走するのであって 論理客観的検証が伴えば暴走はしないのです
カントの時代以降は科学技術の暴走が度々起きていますが これは別に科学そのものが暴走しているのではなく 科学技術という「道具を使う側の欲望」によって暴走しているのであって 科学そのものが温室効果ガスの増大を促しているわけではなく むしろ科学は温室効果ガスの削減を求めているのです
科学技術の進歩によって得られるベネフィットは享受しておきながら 科学技術の使う方の欲望の暴走は「科学が悪い」と言い出すのは あまりにご都合主義的なこじつけでしかありません
ネコをネコだと識別出来ることを知能だと言うバカもいますが これは深層学習AIでも可能な機械手続き的能力に過ぎず 論理的根拠を必要としません
服従対象としての権威を権威と「学習」してしまえば地下鉄に毒ガス撒き散らして「人類の救済だ」などと勘違いすることも簡単なのです
抽象化による識別 シンボル機能自体は知能ではありません
擬態によってスズメバチに外見が酷似している蛾であっても 外見がスズメバチにしか見えなければ蛾だとは「思わない」でしょう これは抽象化機能による「錯覚」です
主観的に「スズメバチだと思った」とか「ネコだと思った」だけの機能は本質的知能とは関係がありません
カントの純粋理性批判を「近代哲学の最高峰」だと「思った」からといって そんなものが知能の論証にならないことは既に何度も述べました
少しは理解してくれ
いちいち説明すんのめんどくさいんだよ
多くのヒトはカントの純粋理性批判を鵜呑みにしますが これはヒトの主観的満足が作り出す罠に過ぎません
「人間は叡智界に属している」などという論理客観的根拠のない話であっても それで主観的に満足してしまうことによって論理客観的検証性を簡単に喪失し それが間違いであることには誰も気づかなくなる
科学技術という道具の使い方を間違えている自分達の欲望の方を正当化するために 科学そのものを悪だと決めつけておけば満足し 何も考えなくなる
それはバカとしか言いようがありませんよ
Ende;
フジパンの「ぶどうぱん」っての買ってきたんだけど
外装が紙で洗えないと一瞬思ったんだが
ポリフィルムに紙が貼ってあるだけらしいので
中性洗剤で洗ってやったぜ
ワイルドだろぉ
中身が濡れてないかどうかは明朝のお楽しみだぜぇ
Ende;
科学や哲学というものは真理を追求するためのものです
真理 すはなち「本当のこと」と「本当のことではないこと」を区別出来ることで 合理的で無駄のない選択が出来るようになるという効用があるのです
合理性というと 多くの人は金儲け効率ばっかり連想しがちですが 経済というものの本来の意味は「経世済民」の略であって 「世の中を経て民を救う」ことが目的なのです
世の中において最も重要なのは安全性です
人の命が軽視されるような世の中であれば 自分の命も軽視されるのであって そんな世の中で生き続けなければいけない理由はないのです
だから 社会安全性なくして個人の存在意義もない
ところが ヒトというのは元々が野生動物から遺伝的に進化した存在に過ぎませんから サルやイヌの習性とよく似た行動習性が先天的に組み込まれているため どうしても目先の欲望に囚われ社会安全性にまで配慮が働かなくなる傾向があるわけです
人間性とか倫理というものは 存在としての合理的根拠に基づく選択あってのものであり 先天的な行動バイアスに無意識に流されていたのではサルやイヌと何ら違いがなく 既に存在しているだけの自己の無意識な「結果」をどんなに大量に抽出枚挙しても人間性の論証にはならないのです
エマヌエル:カントは「叡智界」などという論理的根拠を無視した身勝手な妄想で満足しているだけであって これもまた既に存在している無意識な行動バイアスに流されているだけの「因果律」に過ぎないのです
ヒトという種の生物は 気分的に満足したり安心したりすることを 短絡的に人間性だの安全性だのと勝手に錯覚する習性があり それゆえ論理的根拠を無視して実証不能の観念に取り憑かれ 他人に多大な迷惑をかけたりするのです
本当なら論理的に考え選択すれば回避可能な危険性というものがあったとしても 目先の気分的満足によって危険性が放置されることがよくあります
本当の倫理や人間性というものは 本当に社会安全性が高まる選択が出来てこそのものであって 目先の主観的満足に溺れて論理客観的真理の追求を放棄していて倫理も人間性もヘッタクレもありゃしないのです
「叡智がないことになると 罪を問うことができない」と伊集院光は言ってましたが 「罪を問う」ことによって罰という暴力を正当化するために叡智などというファンタジーを事後正当化するためのこじつけでしかありません
罪人に罰を与えると気分的に満足します
ヒトはそういうふうにできているんですね
その主観的満足によって「全てが解決した」と勝手に錯覚する
罰であれ何であれ 暴力は主観的満足にしかならず 物事の本当の原因究明にも 当然再発防止にもなりません
だから危険学や失敗学では刑罰を一時停止するわけです
そりゃ通り魔事件なんてのは通り魔本人が「悪い」ことに間違いはありませんが 「なぜ悪いことをするようになったのか」についての原因究明をしないことには通り魔事件の根本的「解決」になどならないのです
通り魔にせよ 傷害事件を起こすバカにせよ 彼らが暴力を振るうのは 暴力を振るうことで主観的に満足感が得られるからであり これは「罰で解決」という感覚と何ら違いはありません
たとえ現行法に触れていなくても 社会安全性にとって最適な選択をしないというのは 社会的責任の放棄でもあるのです
「叡智」などというものはファンタジーにすぎません
理性を超越しちゃったり 人智を超越しちゃった「絶対に知覚出来ない」などという根拠不明な謎の力学で満足しているのは ただのバカでしかありません
それ 一体何の役に立つんでしょうね
どうやって応用するんでしょうね
何せ理性を超越しちゃっているので論理的説明が一切ありません
養老孟司の観念と同様「観念を閉じるためには論理客観的整合性の方を開く」という手法がペテン師の常套手段なのです
ヒトの先天的な習性を利用して 主観的満足さえ与えてしまえば ヒトは簡単に論理客観的検証に基づく「本当のこと」を見失うという先天的欠陥があるのです
「本当のこと」がわからなければ 当然ながら何が本当に社会安全性にとって最も有効なのかもわからないのです
それで人間性や倫理が語れるとお思いか?
それが「哲学」だとお思いか?
育児放棄で衰弱死するという事件も時折ありますが
なぜ育児放棄をしてしまうのかについての徹底した原因究明をしなければ再発防止についての合理性のある具体的対策にはなりません
社会にとって最も重要なのは安全性であって 育児放棄をした親を袋叩きにすることではありません
ヒトが本来の「目的」を見失うのは そこに本当の人間としての「意識」が働いていないからです
「自分が死にたくないから社会安全性に配慮する」のではなくて 「自分が生きるに価する社会でなければ生き続ける意味がないから社会安全性に配慮する」んですよ
じゃなければ自分の生存が優先しちまうでしょ
そのくせ他人には自己犠牲を要求する
社会安全性を後回しにしてまで生き残ることに一体何の意味があるんでしょうね
その「生存」に人間性なんぞあるんでしょうか
永遠に生きられるわけでもなければ たとえ永遠に生きられたとしても その「生存」に一体何の意味や目的が存在すると言えるんでしょうかね
どうせヒトは必ず死ぬんですよ
別に自暴自棄になることを勧めているわけじゃなくて「どう死ぬか」を選択してこその「どう生きるか」なんですよ
「生きて」いるのは結果であって 目的ではありません
目的というのは自発的な論理検証に基づいた選択の中にあるんであって 単なる生物的な「生存」価の中にはありません
ヒトは簡単にバカになれます
簡単になれるからバカなんですよ
めんどくさいことや嫌なことを避けていれば 簡単にバカになれます
しかし 本当に熱中できる好きなことがあれば 多少のめんどくさいことや嫌なことも苦にはならなくなるのです
だから他人の評価に左右されない主体的な純粋行為が必要なんですよ
Ende;