山極寿一が2020年10月をもって京大学長を退いた
山極というのは「リーダーとしての資質」と称して「ハッタリをかます必要がある」などと述べていたバカである
ハッタリをかますことで衆愚を気分的に安心させることは可能だが それは手口(手段)であって「リーダーとしての資質」とは関係がない話である
衆愚の人気を得るだけなら独裁者でも構わないという話には全くならないからだ
衆愚から人気を得て 洗脳によって煽動することで戦争も簡単に引き起こすことは可能であり 単なる人気取りの方法論が短絡的に指導者としての人間性の論証には全くならない
山極はゴリラの専門家だが ゴリラという野獣のリーダーの行動習性を熟知し ゴリラのリーダーの「手口」を短絡的にヒトの指導者の資質として述べるというのは 極めて無責任で悪質な言動である
ヒトという種の生物は 先天的に主観的に好きになった相手に安心感を抱くことで 個人から主体的自律的な判断選択能力を奪い 集団組織的な統率によって「生存にとって有利な行動」を採ることで遺伝的に「進化」してきた生物である
「生存にとって有利な行動」の全てに合理性が伴う保証は何もなく あくまで「特定の生息環境下においての合理性」しか獲得されることはないため 環境が変わってしまえば先天的行動習性が仇となって絶滅の原因になることは長い生物史の中で何度も繰り返されてきたものである
学校でのイジメによって自殺者が出たり 殺人事件にまで発展してしまうのは ヒトという種の生物の先天的な統率協調性が現代社会の中で暴走することで生ずるものである
「中学生のイジメ程度」と言う者もあるかも知れないが こうしたヒトの先天的本能に由来する行動習性こそが 大規模な紛争の根源的構造でもある
中学生であろうが「ヒト」の習性であることに違いはなく 「ハインリッヒの法則」に鑑みれば「小さな事象(被害者や遺族にとっては決して小さな事象ではないが)の根源的原因を究明することは 紛争などの大きな事象の再発防止にとって極めて重要な「教訓」ともなり得るのである
ところが 従来の進化生物学においては あたかも遺伝的進化さえしておけば自然(自動的)に人間性や社会持続可能性にとって合理的な行動結果が得られるかのような嘘を平気でついてきたのである
フランシス:ゴルトンの優生学も リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」に伴う松沢哲郎や山極寿一ら生物学者達による進化万能論は 衆愚の気分的満足や安心を提供することは簡単だが それこそが衆愚の愚かさを助長する最大の原因でもある
また 従来の生物学における著しい誤謬に誰も気づかず 理解もせずに漫然と垂れ流しを続けたマスコミも同罪である
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ヒトは間違えるものである
だが 「間違えても良い」わけではない
しかし ヒトである以上誰もが間違える可能性は避けられないのであり
間違えたら 間違えの原因を究明し 間違いを繰り返さないための論理的な工夫を施すことで「教訓」という財産に昇華させることが可能なのである
そのために必要なのは理性であり 理性こそが人間としての意識の本質でもある
これを述べると必ず出てくるバカが「理性は利己的利益追求の側面がある」などという話である
利己的利益を追求しても 人間存在として存続するに価する社会への合理的選択になるわけではなく むしろ社会持続可能性を破壊する原因にしかつながることはない
どんなに利益を追求し 「生存にとって有利な行動」を採ったとしても それは自然界における過酷な生存競争環境下においては遺伝的進化を促進することにはなっても 遺伝的進化自体は「結果」であって 「人間としての目的」とは関係のない話である
遺伝的な進化を万能だと錯覚しているからこそ 障害者を淘汰するといった野蛮な発想が出てきてしまうのであって 遺伝的な変異というのは生物進化の名残りに過ぎず ヒトは人間としての社会を構築することによって先天的疾患を持って産まれてきた人に対しても平等公平に存在としての価値を尊重することで 人間性や倫理として働くのである
それなくして「人間社会」とは言えないのである
生物進化の過程において 生存競争が大きな役目を果たしたことは確かだが だからといって生存競争という「結果」を人間社会の中における「目的」として規定することには合理的根拠が伴わない
ヒト同士が殺し合いをするのは ヒトに進化する以前の膨大な進化の過程における名残りであって そんなものが人間としての目的の論証には全くならないのである
経済活動においても 企業の生き残り戦略による淘汰圧力だけでは貧富格差ばかりを助長してしまうからこそ 利己的な企業には持続可能性が低いという結果をもたらすのである
自然界においては 弱者は淘汰対象であり 絶滅することで遺伝的進化を促すのだが 人間社会においては弱者は守るべき存在であって 誰もがいつ弱者に陥るのかわからない可能性を考えれば「適者生存」などという野蛮な発想には陥らないのである
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「生きるためには」などと称して 「死にたくない」という個人の主観的欲望の強度程度だけを根拠に生存を「目的」にすり替えてしまうから 人間性や倫理というものを誰もが認識しなくなってしまうのである
どんなに「死にたくない」と渇望しても ヒトは必ず死ぬ存在であり たとえ永遠に生きられるとしても 存在するに価しない社会の中で生きづつける必要性は存在しないのである
それなら 人間として存続する「理由」とは何かと言えば それこそが安全で持続可能な社会への「選択」以外存在しないのである
安全性や持続可能性を求めないのであれば もはや人間としては一秒たりとも生き続ける必要性はどこにも存在せず
そこで はじめて人間性や倫理に適するのであって 人間性や倫理の基盤となる理性を論じずに「人間としての心」を論ずることなど出来ないのである
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「死にたくない」という個人的な主観的欲望というものが 人間としての本質的な意識ではないのと同様に
個人的 主観的に「死にたい」という願望もまた それだけでは人間としての本質的「目的」の論証にはならない
病気や原発事故などで もはや死ぬまで苦痛から脱することが理論的に不可能で何の希望も望めない状況においては尊厳死もありうるが 「今までの生活が維持できない」などという程度の理由で自殺を選択するのは短絡的で社会的にも無責任である
失ったものばかりを嘆くのではなく まだあるリソースを数えることで希望を見い出すという発想は理性であり 人間としての本質的意識でもある
セーレン:キェルケゴールは「絶望は罪である」と述べたが 大抵の「絶望」は身勝手な欲望によるものである
本当に人間としての「目的」に則って考え 選択すれば 自ずから社会安全性や持続可能性を「目的」とすることは 理性において必然なのである
犯罪や事故の被害者や遺族が時折「罰よりも再発防止を優先して欲しい」という望みは 現状の司法裁判制度下においては無視される構造になっており
この状態に何の疑問も持たないこともまた社会的に無責任であることを大衆やマスコミは自覚すべきである
大衆の大半がバカであれば 民主主義制度化においては「バカ主義」にしか陥らない
それは社会安全性や持続可能性が優先されることがないという意味でもある
その無責任さを大衆やマスコミは全く自覚していないのである
Ende;