そもそも科学というのは 直接経済に影響するようなものではなく 経済的には直接役に立つような結果が得られるわけではない
たとえ学界内で業績として取り扱われていても 天文学の知見が世間的な利益につながることはまずない
科学というのは わからないことを知るためのものであって わからなかったことがわかることによって社会の役に立つ知見につながる可能性も秘めている
でも 何が役に立つのかは「やってみなくちゃわからない」
だから税金を使ってまで科学研究というのは推進されているのである
「そんなことをやって 何になる」かはわからないことをするのが科学であって 「金にならない」とか「世間的評価にならない」といった目先のベネフィットを基準にしていては科学は成立しないのである
科学者であるはずの養老孟司が「そんなことして 何になる」だとか言い出すのは むしろ科学者としての素養の欠如であり 「目先の大衆人気による金儲け評価しか価値が存在しない」と言っていると同義であって 科学者として大学で研究していた者が言っていること自体が支離滅裂で無責任である
科学者が科学を否定していたのでは無責任にも程がある
そもそも養老孟司は科学者になりたかったわけではなく 親に「医者になれ」と命令されて大学に行ったものの 臨床医になるのが怖くて解剖学者になることを選択しただけなので 主体的に何かを知りたい 解明したいという意欲が全くないのである
結果的に養老は大衆迎合を科学的根拠であるかのようにはぐらかす支離滅裂な屁理屈を展開して大衆やマスコミを洗脳して人気を得るというペテンをやらかすことになった
こうした科学を装ったペテンというのは養老孟司に限ったことではなく 生物学における進化万能論に基づいたリチャード:ドーキンスのお伽話やフランシス:ゴルトンの優生学のような非科学的大嘘は世間に蔓延しているのである
マルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルを「哲学者」だとマスコミや大衆の誰もが疑うことなく信じ込んでいたのも 大衆の脳を酔わせて満足させているだけの「文芸」に過ぎない
哲学というのは本来論理的根拠に基づいて 何が真実なのかを探求するためのものであって 大衆観念的に大多数の衆愚やマスコミの人気取りで世間的に評価されるためのものではない
何が真実なのかを理解していなければ 呪術のような論理的根拠のない不毛な因習を繰り返すばかりに陥り 回避可能性があったはずの危険性が放置されることになるのである
何せ現状の哲学界というのはイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を「近代哲学の最高峰」などと称してありがたがっていたマヌケ野郎の集団である
ましてやフリードリヒ:ニーチェなど論外である 頭が悪いにも程がある
そんな現状の哲学界において 私が評価されることはないだろう
生物学における進化万能論に対する反証も 少しずつはぐらかす形で浸透はしてきてはいるものの 未だに山極寿一や松沢哲郎ら「老害」達に対する批判は一切出てきていないのである
まあ 山極達の言っていることを何の批判もなく鵜呑みにして垂れ流しを続けてきたマスコミも同罪であるから マスコミも隠蔽黙殺しかしないであろう
その結果真実がウヤムヤにされることで社会安全性が優先されない状態が温存されるとしても 彼らは目先の既得権(組織の利益)を優先して個人が自律的な社会的責任判断選択をすることはないのである
「法の支配」などというものは 法という形式や手続きに対する気分的な安心感に基づいた幻想に過ぎず 法手続きという「形式」に支配されていたのでは まるで「未来世紀ブラジル」のようである
実質的には何の被害もないのに メルカリで肥料を売ったら犯罪だとか 飲食店の中で客が踊っていたら問答無用で店長が逮捕だとか 法手続きという形式だけで国家権力による取り締まりが行われていて社会安全性もヘッタクレもあったものではない
法手続きというのは 道具であって目的にするべきものではない 目的とすべきは安全性であって 安全性を高めるための道具として法律が運用されなくてはならず その運用自体は「人間性」や「倫理」が伴わなくてはならない
人間性や倫理というものは 法律に支配されるものではなく むしろ法律に間違いがあるのであれば改正する必要があり そのための立法機関なのである
「法の下の平等」だとか言いながら 実質的には貧富格差は拡がるばかりなのは 法手続きに欠陥があるからである 具体的にどのような欠陥があるのかは専門外なのであまり指摘できないが 法手続きにさえ従っておけば公平性や安全性が担保される保証がないことは論理的には明らかである
つまり「法の下の平等」などというのは アダム:スミスの「見えざる神の手」だとか 「原発は絶対に安全」といった「神話」の類に過ぎず 論理的根拠が全くないのである
香港ではデモ活動自体が違法であり 警察が市民に発砲しても犯罪にはならないが それでも香港の法律上は違法ではない
法手続きなんてのは 所詮そんなものに過ぎないのである
こうした社会安全性に直結した意見は 現状の「哲学者」達からは一切でてこない
その代わりに論理不明なお伽噺で大衆人気を集めることばかりに邁進しているのである
大衆迎合は儲けにはなるだろう 「金」にはなる 税収にもなるだろう
だが それと引き換えに社会安全性は放置されるのである
それを「怠慢」と言わずして何と形容すべきか
哲学も科学と同様に 直接利益になるようなものではない
むしろ 社会的損失を減らすことによる間接的利益をもたらすものである
糞DQNユーチューバーが渋谷の交差点の真ん中で寝転がっても被害を特定することは困難であろう
暴走族が夜中に走り回って多数の市民の安眠を妨げても 被害を特定することが困難なのと同じである
重要なのは 被害が大きくなってから大騒ぎすることではなく 被害が小さいうちや 被害が出ない段階から徹底して原因を究明し 再発防止につなげてゆくことであり それこそが社会安全性にとって最も重要な選択なのである
それをしないで人間性も倫理もヘッタクレもあったもんじゃねぇ!
Ende;
たとえ学界内で業績として取り扱われていても 天文学の知見が世間的な利益につながることはまずない
科学というのは わからないことを知るためのものであって わからなかったことがわかることによって社会の役に立つ知見につながる可能性も秘めている
でも 何が役に立つのかは「やってみなくちゃわからない」
だから税金を使ってまで科学研究というのは推進されているのである
「そんなことをやって 何になる」かはわからないことをするのが科学であって 「金にならない」とか「世間的評価にならない」といった目先のベネフィットを基準にしていては科学は成立しないのである
科学者であるはずの養老孟司が「そんなことして 何になる」だとか言い出すのは むしろ科学者としての素養の欠如であり 「目先の大衆人気による金儲け評価しか価値が存在しない」と言っていると同義であって 科学者として大学で研究していた者が言っていること自体が支離滅裂で無責任である
科学者が科学を否定していたのでは無責任にも程がある
そもそも養老孟司は科学者になりたかったわけではなく 親に「医者になれ」と命令されて大学に行ったものの 臨床医になるのが怖くて解剖学者になることを選択しただけなので 主体的に何かを知りたい 解明したいという意欲が全くないのである
結果的に養老は大衆迎合を科学的根拠であるかのようにはぐらかす支離滅裂な屁理屈を展開して大衆やマスコミを洗脳して人気を得るというペテンをやらかすことになった
こうした科学を装ったペテンというのは養老孟司に限ったことではなく 生物学における進化万能論に基づいたリチャード:ドーキンスのお伽話やフランシス:ゴルトンの優生学のような非科学的大嘘は世間に蔓延しているのである
マルクス:ガブリエルだのマイケル:サンデルを「哲学者」だとマスコミや大衆の誰もが疑うことなく信じ込んでいたのも 大衆の脳を酔わせて満足させているだけの「文芸」に過ぎない
哲学というのは本来論理的根拠に基づいて 何が真実なのかを探求するためのものであって 大衆観念的に大多数の衆愚やマスコミの人気取りで世間的に評価されるためのものではない
何が真実なのかを理解していなければ 呪術のような論理的根拠のない不毛な因習を繰り返すばかりに陥り 回避可能性があったはずの危険性が放置されることになるのである
何せ現状の哲学界というのはイマヌエル:カントの「純粋理性批判」を「近代哲学の最高峰」などと称してありがたがっていたマヌケ野郎の集団である
ましてやフリードリヒ:ニーチェなど論外である 頭が悪いにも程がある
そんな現状の哲学界において 私が評価されることはないだろう
生物学における進化万能論に対する反証も 少しずつはぐらかす形で浸透はしてきてはいるものの 未だに山極寿一や松沢哲郎ら「老害」達に対する批判は一切出てきていないのである
まあ 山極達の言っていることを何の批判もなく鵜呑みにして垂れ流しを続けてきたマスコミも同罪であるから マスコミも隠蔽黙殺しかしないであろう
その結果真実がウヤムヤにされることで社会安全性が優先されない状態が温存されるとしても 彼らは目先の既得権(組織の利益)を優先して個人が自律的な社会的責任判断選択をすることはないのである
「法の支配」などというものは 法という形式や手続きに対する気分的な安心感に基づいた幻想に過ぎず 法手続きという「形式」に支配されていたのでは まるで「未来世紀ブラジル」のようである
実質的には何の被害もないのに メルカリで肥料を売ったら犯罪だとか 飲食店の中で客が踊っていたら問答無用で店長が逮捕だとか 法手続きという形式だけで国家権力による取り締まりが行われていて社会安全性もヘッタクレもあったものではない
法手続きというのは 道具であって目的にするべきものではない 目的とすべきは安全性であって 安全性を高めるための道具として法律が運用されなくてはならず その運用自体は「人間性」や「倫理」が伴わなくてはならない
人間性や倫理というものは 法律に支配されるものではなく むしろ法律に間違いがあるのであれば改正する必要があり そのための立法機関なのである
「法の下の平等」だとか言いながら 実質的には貧富格差は拡がるばかりなのは 法手続きに欠陥があるからである 具体的にどのような欠陥があるのかは専門外なのであまり指摘できないが 法手続きにさえ従っておけば公平性や安全性が担保される保証がないことは論理的には明らかである
つまり「法の下の平等」などというのは アダム:スミスの「見えざる神の手」だとか 「原発は絶対に安全」といった「神話」の類に過ぎず 論理的根拠が全くないのである
香港ではデモ活動自体が違法であり 警察が市民に発砲しても犯罪にはならないが それでも香港の法律上は違法ではない
法手続きなんてのは 所詮そんなものに過ぎないのである
こうした社会安全性に直結した意見は 現状の「哲学者」達からは一切でてこない
その代わりに論理不明なお伽噺で大衆人気を集めることばかりに邁進しているのである
大衆迎合は儲けにはなるだろう 「金」にはなる 税収にもなるだろう
だが それと引き換えに社会安全性は放置されるのである
それを「怠慢」と言わずして何と形容すべきか
哲学も科学と同様に 直接利益になるようなものではない
むしろ 社会的損失を減らすことによる間接的利益をもたらすものである
糞DQNユーチューバーが渋谷の交差点の真ん中で寝転がっても被害を特定することは困難であろう
暴走族が夜中に走り回って多数の市民の安眠を妨げても 被害を特定することが困難なのと同じである
重要なのは 被害が大きくなってから大騒ぎすることではなく 被害が小さいうちや 被害が出ない段階から徹底して原因を究明し 再発防止につなげてゆくことであり それこそが社会安全性にとって最も重要な選択なのである
それをしないで人間性も倫理もヘッタクレもあったもんじゃねぇ!
Ende;