書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

北区上十条5丁目付近

2020年10月25日 22時24分57秒 | 写真

北区上十条5丁目周辺が谷スジになっていて 通るのもやっとな細道があるので迷い込んでみた

あまりにも複雑に路地が入り組んでいるため もはやどこがどこだかさっぱりわからない

ウーバーイーツのお兄さんも困惑してたよ

地図があんま役に立たない

 

行き止まりの路地に かつて井戸があったっぽい

水が流れる音はずぅっとしている 水自体は枯れてはいないっぽい

 

土があっているのか ピラカンサの実が凄い

 

あんま見たことない蛇口

何もかもがトリッキーに見えてくる

 

環状7号線 赤羽線跨線橋 富士見橋より池袋方向

 

Ende;

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駄々っ子

2020年10月25日 11時14分34秒 | 意識論関連

イジメ被害者がどう立ち直ったのかだとか

障害者虐殺事件の被害者や遺族の個人情報の垂れ流しておいて「再発防止になる」だとか

被害者側の話を垂れ流しておけば 多くの大衆は気分的に感動し 視聴率は稼げるのであろうが これは事件の本質を無視した「はぐらかし」にしかなっていない

テロや通り魔 イジメの被害者というのは 加害者側からすれば「誰でも良い」のであって 被害者側の情報をいくら流しても事件の根源的原因である「加害者が なぜ加害に及ぶようになったのか」についての知見が全く無視されているのである

司法制度は罰の妥当性(程度)を決定するだけであり マスコミは被害者情報を垂れ流すばかりで この社会には加害側の原因について究明する制度も情報も全く存在していないのである

別に実名を挙げなくても構わないので 加害側の人格形成についての情報こそが事件の再発防止において最も重要であり 政府やマスコミが追求すべきは危険学や失敗学のメソッドに則った「過ちの原因」を明らかにするべきなのである

被害者が社会的に上手に立ち直った事例だけをあげておけば 「イジメられても大丈夫」みたいな安心感を醸成して大衆人気や満足を提供することで視聴率や人気を得ることは簡単であろうが これは立ち直ることができなくなった被害者や 自殺してしまった被害者達を置き去りにした「はぐらかし」にしかなっていない

先日 加害者側が仲間同士で仲良く社会復帰出来たことを「逆転人生」などと称した番組放送があったが 加害者同士で仲良しこよしで満足されても 既に起きた被害が補償されるわけではなく 単なる加害者側の気分的満足を あたかも社会的有用性であるかのように「すりかえ」ているだけである

被害者によせ 加害者にせよ 社会的に立ち直れたことを喜ぶのは結構だが それは被害の根源的原因究明にも再発防止にもならない

論理客観的に再発防止につながる知見を提供しないことには 人間としての社会的を全うしたことにはならないのである

 

ヒトという種の生物は 罰だの感動だのといった気分感情的満足だけで何かが解決したかのような錯覚に陥り 論理客観的な再発防止に有効な知見が全く得られていないことには誰も気づかなくなる

これこそがヒトという種の生物の頭の悪さ 先天的論理客観的検証性の欠如に因るものである

バカは何度でも同じ過ちを繰り返す 同じ過ちを繰り返すからこそバカだからである

自分たちの頭の悪さについて自覚し バカに陥る原因を知れば バカに陥らずに済むようにもできる それでこそ「賢くなった」と言えるのであって 「みんながバカなんだから安心だわ」などとはぐらかすことこそが バカを助長し バカげた過ちを傍観放置する原因となるのである

 

社会にとって最も重要なのは安全性であり その場限りの安心満足による「はぐらかし」で話を終わらせることは むしろ社会的には極めて悪質で無責任な選択である

イジメや暴走族程度であれば 被害が甚大になることはまれであるが イジメや暴走族といった事象は 環境条件によってはテロや通り魔 紛争や独裁といった甚大な事象の根源的原因ともなりうるものでもある

宇梶剛士は暴走族の総長経験があることを自慢げに話しているが 糞DQNの独裁者であったことを自慢に「思って」いる頭の悪さを全く自覚していない

糞DQNが なぜ糞DQNになるのか その原因を徹底的に究明し 糞DQNが出てこなくなるための知見や教訓を周知しないからこそ いつまでも糞DQNが夜中にエタノールや薬物で脳を麻痺させて感染症拡大が止まらないのである

感染症被害というのは加害者が特定できないため 被害が拡がってからではどうにもならない

感染症の拡大防止において最も重要なのは 個人が自律的に社会的責任において対策を徹底することであって 政府が国家権力を用いて行動抑圧することではない

現在の司法制度というのは 被害が特定された場合にのみ「罰を与えて解決」しかしてこなかったために なぜ加害に及んだのか なぜ自律的に社会的責任判断選択能力を発揮できないのか についての知見や教訓が全く明らかにされてこなかったからこそ 無責任に居酒屋をハシゴするようなバカが後を絶たないのである

感染症以外でも 飲酒運転による事故は厳罰化によって「減って」はいるものの 悪質な泥酔状態で運転するバカによる重大事故は繰り返されているのである

重大なバカの陰には 無数の小さなバカが隠れているからである

重大なバカを減らすためには 先ずは自分のバカさを自覚しなくてはならない

自粛警察だの 反自粛だの これらは要するに主観的な好き嫌いを「罰で解決だ」という短絡的発想に基づいているだけの迷惑行為である

個人的な好き嫌いという主観が行動に直結しているからこそ 社会的迷惑行為にしかならないのである

 

私は屋外でもソーシャルディスタンスをとるようにしているため すれ違う相手に時折「済まなそう」に頭を下げられることがある

屋外でのソーシャルディスタンスが感染拡大予防にどれだけの効果があるのかは「わからない」のであり 私としては避けられる危険性は回避しておきたいという判断からやっているのであって 時期が時期だけに相手の行動にいちいち「気を遣う」必要性はない

逆に マスクもしていない相手に対してこちらがソーシャルディスタンスを保とうとすると 嫌悪感を表す奴もいる マスクもしていないということは 感染症に対して「気にしていない」なずなのに 相手の行動に対していちいち嫌悪するというのは 「お前さんは無神経なのか それとも神経質なのか どっちなんだ?」と訊きたくなってしまう

神経質な人は相手に合わせようとするが 無神経な奴は相手を合わせようとする こうした気分的バイアスは「無神経な奴の行動への収束」を促し イジメや暴動が過激化するメカニズムでもある

ヒトというのは自分の価値観と他人の価値観が同じでなければならないという主観的「感覚」があるため 自分の個人的好き嫌いを他人に強要したがる習性がある

主観的感覚に過ぎぬ個人的好き嫌いに基づいた短絡的行動というのは いうなればサルやイヌの行動習性と一緒である

神経質なだけでは理性とは言えず イジメを傍観放置しておいて理性ではないのである

どうしても無神経でいたいと言うのであれば それなら社会的に孤立することに対しても無神経でいる覚悟が必要である

ホリエモンのように入店時にマスクをすることを要求されたことに腹を立てるなどというのは あまりに幼稚な駄々っ子のようである

困ったことに欲望に忠実な駄々っ子の方が衆愚には人気を得られる傾向がある

欲望に忠実な駄々っ子に同調しておけば 自分も欲望に忠実に行動しても赦されると「思って」いるからであろう

洗脳というのは 主観的な「思い込み」が作り出す錯覚であり 錯覚を錯覚だと自覚認識するためには論理客観性が不可欠である

 

マスコミが被害者情報ばかりを垂れ流して人気取りに邁進するのも大衆迎合にしかなっていない

駄々っ子というのは 本人にその自覚はない

個人的な「主観」を意識の本質だと錯覚しているからである

 

 

Ende;

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