書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

カプチーノ味 

2020年10月28日 18時21分50秒 | 日記
ポーランドのメーカー ヴェデルのチョコレートでカプチーノってのが出てたので買ってみたら

パッケージの画像と中身の形が違う

似たような商品でエスプレッソってのもあるんだけど

カプチーノはジジイにはちょっと甘みが強め

美味しいこた美味しい



Ende;

選択可能性

2020年10月28日 16時33分20秒 | 意識論関連
迷惑ユーチューバーの〝へずまりゅう〟こと原田将大や 田代まさしの頭の悪さの原因とは 自律的に社会的責任判断選択をしないことである

その意味においては 「刑法判決で解決だ」という短絡性と構造的には同じものである

程度は違えど 自律的に何が本当に正しい選択なのかを主体的に判断していない点においては何も違わないのである

「ハインリッヒの法則」に基づけば一つの大きな事象の陰には無数の小さな事象が隠れているのであって 大衆やマスコミの自律判断の欠如を放置しているからこそ大きな事象の歯止めが効かないことになるのである

多くの大衆に見られる頭の悪さを丹念に治す丁寧さがないからこそ 社会が重大なバカを発現する温床となってしまうのである

原田将大や田代まさしや相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖のような重大なバカを見ていると 気分的には「自分とはかけ離れたキチガイに過ぎない」と感覚(主観)的には分類しがちだが 実際(客観的)には単なる「程度の違い」に過ぎず 小さな頭の悪さを理解認識していないからこそ 重大なバカの発現を放置してしまう原因になってしまうのである

社会安全性というものは論理客観的根拠に基づいて追求されるべきものであって 感覚(主観)的な気分的安心満足によって論理客観性を放棄することは社会的に無責任な選択なのである

多数がバカだと気分的には安心で 責任が多数で薄まると「思って」いるであろうが そうした主観的な「思い」こそがヒトから論理客観的検証性という「人間としての意識の本質」を喪失させる原因なのである

科学者でありながら「主観が大事」などと言い出す野依良治のような老害が理化学研究の理事なんぞ務めていること自体がペテンも甚だしい

養老孟司が東大名誉教授なのも 山極寿一が京大学長だったのも 松沢哲郎の文化功労賞も 科学というものに対する冒涜である

益川敏英(理論物理学者)だったらそんくらいのことわかりそうだがな

専門外だからといって「よくわからないから 専門家に丸投げしておいて良い話」ではない

私がわかる内容を 益川敏英や畑村洋太郎がわからないわけないだろ

学術会議に限らず 科学界全体の存在意義において専門外であっても批判精神を持って自浄することが必要である

公費で運営されている大学や研究機関であれば その運営において「専門外だから」という責任逃れはできないはずである





Ende;

社会性幻想

2020年10月28日 14時06分15秒 | 意識論関連
集団共同生活さえしておけば「社会性」が身につくものだという大衆観念は 多数派同調に対する気分的安心感に起因する錯覚に過ぎない

実際学校で子供たちだけで共同生活をさせておくと自然(自動的/必然的)にイジメをやらかしはじめるものであり

体育会系学生寮で大麻などの薬物が蔓延することも珍しいことではない

日大アメフト部による不祥事も同様である



大衆の多くは自分達「ヒトという種の生物には先天的な人間としての社会性が予め組み込まれている」という観念に溺れ 「自分だけは絶対に大丈夫」という錯覚をしておけば気分的に安心満足できるために その主観的安心によって客観的論理検証性という「人間としての意識の本質」を発揮できなくなるのである

進化生物学上の進化万能論という著しい誤謬は こうした大衆観念に基づく錯覚を助長するものであり それゆえ「人気」だけは得られるのである

リチャード:ドーキンスだの松沢哲郎だの山極寿一が「ヒトには先天的に人間性があるはずだ」などと言っておけば 科学的には何の論理的根拠がなくても文科系大衆やマスコミは気分的満足によって鵜呑みにするのである

これは科学的論証というものを無視し 社会安全性を蔑ろにしたペテンも甚だしい

その無責任さについて大衆もマスコミも一切認識しようとすらしないのである



東池袋プリウス暴走事故の加害者に判決が出ても 事故の根源的原因究明にも再発防止にもつながることはない

それでも 現状においては司法裁判以外に何の検証も出来ないのである

バカな大衆は罰さえ受ければ「罪を償った」とか 「尊厳」だとか言い出すが 社会安全性を置き去りにしたまま尊厳もヘッタクレもないのである

刑罰が尊厳だという話は根拠のないデマであり ただの大衆観念上の妄想錯覚に過ぎない

しかも バカな犯罪者は「刑期を終えたから 罪がきれいになった」などと称して反省すらしなくなる原因にもなっており こうした身勝手な観念もまた再犯の要因の一つになっているのである

それのどこが尊厳だと言えるであろうか

頭が悪いにも程がある



自律のないバカというのは バカ同士でバカをやらかすことに疑問を持たない

警察に捕まって叱られれば その場限りには気分的に落ち込み「悔やむ」ことを「反省」だと感じて懲りるのだが 善悪を自律的に判断する能力がないので何度でも同じ過ちを繰り返すのである

刑法懲罰というものが社会安全性にとって有害であるということは 大衆の多くは「理解」していないが それこそが「善悪を自律的に判断する能力」の欠如に他ならない

東池袋暴走事故の判決が出ても 踏み間違い事故自体は何度も繰り返すことになるだろう なぜなら原因というものが論理客観的に検証究明されないからである

その無責任さについては 誰も認識しないのだが どんなに無責任な選択であっても 多数の無責任なら責任が薄まるという錯覚によって 問題意識が働かなくなるのである


私は刑法廃止論者だが 自律のないバカが大多数を占めている現状では刑法罰そのものをいきなり廃止することは現実的ではないが

「自律のないバカ」というものに対する論理客観的原因究明によって バカの再発防止ができれば国家権力による抑圧は必然的に無用になるのである

刑法廃止論というのは 無法者を野放しにすることではなく 無法者という原因を究明するための工程表の一部に過ぎない

自律のないバカがどうして出来上がるのかについての論理客観的検証によって社会安全性を高めることが目的である

刑法廃止と聞くと 観念的な恐怖ばかりを煽りがちだが 本当に社会安全性を高めるためには危険学や失敗学のメソッドに則って刑法を一時停止して原因究明を最優先する必要がある

そのための刑法廃止論である

全ての事案について検証することは困難であろうことはバカでもわかるだろうが 一部抽出的にでも刑法裁判を停止して徹底した原因究明と再発防止の対策を行うことで 自律のないバカを少しでも減らすための社会的制度は必要である

逆に言えば 裁判判決で「懲役○年」だとか決まっても 釈放後に再犯して被害が出ても誰も責任を取らない現状の制度というのは 著しい欠陥が存在しているのである

”へずまりゅう”ら典型的なバカというのは 自分達がどうして警察に捕まるのかについて全く理解自覚していないのである

だからといって彼らの親や教育者を糾弾することでどうにかなるようなものではない

あくまで「ヒトという種の欠陥」についての検証であって 「懲罰暴力で解決だ」という短絡性(先天的欠陥)については例外なく誰もが自覚しなければならないものである

だが 学術権威がこれを理解出来ないのであれば 学術権威としての社会的責任を果たすことが出来ない以上 これは「処分」する以外に対策はない



菅首相がどのような理由で学術会議の任命拒否をしたのかは知らないが 論理客観的検証の出来ない哲学界や人文科学系学界の権威の多くは糞の役にも立たないデクノボウに過ぎない

哲学だと称してフリードリヒ:ニーチェなんぞ教えているバカな権威を「処分」する以外に何か方法論があるなら むしろ教えて頂きたいくらいである





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