ヒトは主観的感覚によって作り出されるリアリティに惑わされ 非合理な行動を採ることがある
だからこそ合理的で客観的根拠に基づいて真実か真実ではないかを区別するために哲学や自然科学がある
フィクションや芸術といった主観的好き嫌いの範疇のものと 論理客観的な真実を区別するのは 認識における区別であって フィクションや芸術が哲学や自然科学における世界(宇宙)と区別できるようなものではない
フィクションや芸術はヒトの脳の認識の中での区別であって 脳自体は世界(宇宙)の一部に過ぎない
マルクス:ガブリエルは「自然科学で『ファウスト』を研究するとしたら紙やインクの粒子の性質を対象にする他ない。ゆえに自然科学が対象領域とする宇宙は、世界全体より小さいことになる。」と述べたが フィクションや芸術を自然科学的に研究対象とする場合にインクの粒子や性質以外が研究対象にならない理屈は存在しない
自然科学はフィクションや芸術というものを求めるヒトの脳を研究対象にしても構わないものであって 「自然科学が対象領域とする宇宙は、世界全体より小さいことになる。」というマルクス:ガブリエルの論説はfalse(偽)である
フィクションや芸術というのはヒトの脳の中の認識の中に存在するものであって ヒトの脳自体は自然科学の研究対象に該当するものであり 「自然科学が対象領域とする宇宙が世界全体よりも小さい」などというのはマルクス:ガブリエルの勝手な決め付けこじつけ妄想に過ぎない
ヒトの脳は自然科学の研究対象領域とする宇宙の一部に過ぎない
ヒトの認識の中には論理客観的根拠に基づいた真実の認識と 主観的感覚によって促されるフィクションや芸術を分類することが可能であるが これは個人的な好き嫌いと社会的安全性とを区別するためのものであって 世界自体がフィクションや芸術と自然科学に分類できるわけではない
哲学とは 本来妖怪悪霊といったデマや嘘に惑わされて非合理な行動に陥らないために真実との区別をするための論理客観的「考え」に基づくものである
ところが衆愚や「哲学者」共は主観的感覚こそが意識の絶対的な本質であると錯覚し その錯覚にとって都合の良いデマをでっち上げて衆愚人気を得ることだと勘違いしているフシがある
「哲学者」の多くが「悩み」などという主観によって促される不安を解消するための手段として都合の良いこじつけ論法によって衆愚のご機嫌取りに終始しているのも 論理客観的な「考え」を哲学として捉えていないからである
マイケル:サンデルによる「倫理の話」も 実際には「悩ましい」だけの命題を提示しているだけであって どちらを選んだとしても倫理的責任を問われるような話ではなく 単に主観的気分として「悩ましい」だけの話で「悩んだ」ことを あたかも論理客観的な「考え」であるかのように錯覚させているに過ぎない
死んだ人数だけで倫理が問われるわけではなく 誰も死んでいなくても 誰にも危害が及ばなくても 危険性を放置している時点で倫理的責任は問われるのである
酔っぱらい運転をしても事故を起こしていなければ倫理的責任が問われないという話にはならないのである
マルクス:ガブリエルを読んで主観的に満足するのは 自分の頭が良くなったような感覚(錯覚)が促されるからであろう
養老孟司だの読書猿も同様である
ヒトは主観的に気分が良くなる信じたい話を鵜呑みにし「自分の頭が良くなった」と勘違いすることで満足する習性がある
そして 多数人気がありさえすれば あたかも多数によって内容の真偽が保証されているかのような勝手な勘違いをすることで 何の疑いも持とうとはしなくなる
「多数=正常」だと勘違いする錯覚によって ヒトは真実を見失うのである
こうした認知上の欠陥によってヒトはバカになるのである
バカならマルクス:ガブリエルの嘘(或いは間違い)を見抜くことはできない
認知上の欠陥というのは 先天的なものであり 祖先の生息環境において繁殖の継続に適したという結果的なものである
ヒトは遺伝的進化さえ起これば全てが「成功」するものだと錯覚しているが 実際の遺伝的進化というものは膨大な「失敗」の果てに偶発的に起こる自然現象に過ぎず 環境適応と繁殖の継続以外に何ももたらすことはなく 進化の果てに何か目的のようなものや 究極の到達点のようなものが存在するかのように錯覚するのは 現存生物という遺伝的進化の「結果」以外を何も見ていないからである
実際の遺伝的進化というものは 過去に幾度もの大絶滅を引き起こしているものでもあり 進化は常に進行中の自然現象であって ヒトが進化の果てに絶滅しても誰も責任は取ってくれないのである
ネコは鏡に映る自分の姿を 自分だとは認識できずに威嚇し続ける
それは ヒトが武力威圧や懲罰報復によって何かが解決するという錯覚と同じであり 論理客観的合理性は何もないばかりか むしろ環境破壊によって自分達の首を絞める原因でもある
ヒトの脳は主観的満足を求めているだけであって 別に論理客観的真実を識別するようにはできていない
ヒトとは 先天的に動物の一種であって 脳が肥大した結果として論理客観的真実の識別可能性「も」獲得してはいるものの それはあくまで自分の頭で物事を「考え」検証しなければ真実を識別することはできない
学力偏差値というものが知能の本質とは無関係であることが認知科学的にも立証されているが 大衆にとっては「学力偏差値が高い=頭が良い」という観念に基づいた判断しかされることはなく 学力偏差値が高いだけの高学歴なバカ共によって大企業や官公庁による不祥事は繰り返されるのである
自律的な社会的責任判断選択というものは あくまで「自分の頭で考え 社会の安全性を担保しようとする意思」によって促されるものであって 厳罰化や法手続きの整備という他人からの抑圧によって促される「他律」とは全く正反対のものである
バカは嘘でもデマでも鵜呑みにし 自律的判断というものを全くしようとはしないものである
多数人気さえあれば多数によって内容が担保されていると勝手に錯覚し 真偽の判断責任は多数他人に丸投げできるとでも「思って」いるのであろう
そうした「思い」こそが自己過信であり 慢心であり 思考の怠慢に他ならない
養老孟司も「客観的事実などない」と断言し人気を得た
マルクス:ガブリエルも「世界は存在しない」などと断言して衆愚人気を得ている
読書猿もまた「実害があります」などと宣言しておきながら 実際には具体的根拠や証拠も示さずに「かもしれません」などという勝手な予測をでっち上げて人気を集めている
現代人の多くは「科学を信じている」と言うが 実際には「科学的権威という肩書を信じている」だけであって 自分の頭で真偽を検証するという「考え」は誰も持たないのである
だから「進化で月経の痛みがなくならないのかしら」などという荒唐無稽な話を平気でするのである
修士学位を持った「哲学者」のほぼ全員は イマヌエル:カントの「純粋理性批判」には論理客観的根拠が示されていないことには全く言及しておらず 未だに「近代哲学の最高峰」などという形容詞を鵜呑みにしているバカしかいないのである
マルクス:ガブリエルも例外ではない
それなら物理工学天文学の研究者によってツッコミが入れられそうなものだが 「専門外」という縦割り「タコツボ化」によって傍観放置されているのが現状である
こうした「タコツボ」からタコ野郎を引っ張り出すのが哲学やリベラルアーツ(一般常識)の役割なのだが その哲学界が自分の頭で物事を考えないバカの巣窟であるから始末に負えない
ヒトは 荒唐無稽なデマや嘘の方を面白がり 主観的に面白いことが革新的か何かだと勝手に勘違いして多数人気で満足しようとする
しかし 論理客観的検証に基づいた論説というのは「面白く」はない
むしろ従来の「常識」から逸脱した本当に革新的論説は主観的不安や恐怖を及ぼし むしろ「自分の頭の悪さを自覚させられる」という恐怖から逃避する形で意識から外し 無視し 「なかったこと」にすることで主観的納得や満足することしかしたがらないものである
それはあたかもカルト宗教の信者が「お前の信じている教祖はキチガイだぞ」と言われて拒絶するのと同じであり 認知的不協和を解消する形で洗脳状態へと自ら陥っていくというヒトの先天的な認知的欠陥が原因である
ヒトは先天的にバカである
自分の脳が先天的にバカだという前提において 自分の主観的感覚を疑うことで 自己過信による錯覚を錯覚だと認識することが可能となるのである
振り込め詐欺師に騙される被害者の大半が「自分だけは絶対に大丈夫だ」と思っているのも 「自分だけは絶対に騙されることはない」という慢心があるからこそ騙されるのである
フリードリヒ:ニーチェも イマヌエル:カントも マイケル:サンデルも マルクス:ガブリエルも 全て論理客観的根拠を欠いたデマである
自分の頭でちょっと考えればわかるデマでありながら 現実には誰も自分の頭では考え検証することはない
それは「ボン大学教授」などといった「肩書」権威に対する盲目性によるものであり ヒトは宗教に限らず盲目的に何かを信じ込むことで主観的満足だけ得て思考停止に陥るという先天的な頭の悪さを持っているのである
京都大学霊長類研究所の松沢哲郎が文化功労賞を獲ったからといっても そもそも11億もの研究費を不正流用するような嘘つきが「チンパンジーの行動習性から人間としての社会性を立証できる」わけがないのである
ヒトが先天的に求めているのは 信じたい話や対象であって 何を信じるべきかを自分の頭で検証して「考える」ようには先天的にはできていない
だから科学や哲学によってtrue(真)かfalse(偽)かを区別する必要がある
にも関わらず哲学界が率先して嘘を信じ込んでいるというのは 社会的にあまりに無責任であり 不適切にも程がある
これをNHKも含めてマスコミの誰も認識していないが これもまた権威に対する盲目性が原因である
「過去の反省を踏まえて」などと殊勝なことを言っているものの 実際には気分的に「反省したような感覚」になっているだけであって 論理客観的根拠に基づいた再発防止のための策が具体的にあるわけではない
要は「口先だけ」であって 具体的に実効性のある中身はないのである
そういう嘘ならいくらでも言えるだろう
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