ゴリラが喧嘩を始めた時に 幼い子供が介入すると怒りが収まって喧嘩が収束するという
ヒトでも同じような効果があって
スーパーのレジ待ちの列が長い場合に 前の人が抱いているちっちゃい子供の寝顔を見ていると長時間待っていてもイライラはしない傾向がある
「かわいいは正義」だと言った人がいるが 半分冗談だが半分理にかなっている
ところが虐待をする親というのは ちっちゃい子供にイラついて暴力を振るったりするわけで 「かわいい」と主観的に脳が満足するかどうかは生育環境によって大きな影響を受ける
子供の主体性を尊重する親というのは 自分が幼少期に主体性を尊重してもらえた経験があることで親としての社会的責任も果たせるのであって 幼少期に虐待され封建的家庭内で順位序列を「下」として扱われる程小さな子供に対しての「かわいい」という慈しみの感情が削がれてしまう傾向が強い
スーパーボランティアとして有名な尾畠春夫氏は 幼少期に母親を亡くしているそうだが その母親というのがとても優しい方だったと本人が回想しており 無償の愛を受けて育つことで社会的にも献身的活動に苦労を惜しまなくなるようである
言うなれば「親ガチャ」の影響が個人の社会的責任行動選択に色濃く影響してしまうのだが どちらの方が人間としてあるべき姿なのかは虐待を繰り返す親であっても客観的には「わかって」いるものである
論理客観的には「わかって」いながらも 情動(主観的感情)がそれを許さないために反射的無意識に虐待を繰り返してしまうことになる
脳の記憶 つまり「学習」というものには2つの側面があり 動物行動的な行動学習として促される無意識な側面と その動物的情動行動を論理客観的に検証し主体的に行動選択を行う人間としての本質的な意識の側面がある
迷惑系ユーチューバーの「へずまりゅう」はスーパーで働いていたことがあり 迷惑な客を何人も見てきた経験から行動学習的に学習してしまい 「迷惑者はザラにいる だから自分の迷惑行動なんぞたいしたことではない」という屁理屈を展開し正当化出来ていると倒錯する
「迷惑である」と認識していながらも それを程度問題にすり替えて迷惑行為で注目を集めようとするのが「バカの典型的発想」である
ウラジミル:プーチンの発想も同じで 「アメリカだって ありもしない大量破壊兵器をネタにイラクで戦争をやった」などと正当化の屁理屈をでっち上げる
迷惑者というのは自分の迷惑行為を正当化するために「他人の迷惑行為と同じだ」という主張の形式を採る
要は「他人の所為」にすることで迷惑行為を正当化できていると勝手に勘違いしているのである
自分の迷惑行為を正当化できる都合の良い事例だけを抽出してきて 本来論理客観的には何が本当に正しい行動選択であるのかを「わかって」いながら主観的に満足できる欲望を満たすための迷惑行為しか選択ができない
自分で自分がままならない不自由でありながら 主観的満足という選択不可能な「欲望」に逆らうことができない だから「バカ」なのである
こうした「バカ」というのはプーチン等のあからさまに迷惑な「犯罪者」に限ったことではなく 「一つの大きな事象の陰には無数の小さな事象が隠れている」のであって ヒトという種の生物の頭の悪さというものはグラデーションでありスペクトルな程度問題でしかない
組織腐敗などというものはどこの国でも組織でも生ずるものであり 日本大学でも東京電力でも東芝でもオリンパスでも自衛隊の中でも生ずるヒトの普遍的な認知上の重大な欠陥に起因するものであり 結果的に重大な事象だけを悪者探し的に「糾弾」し刑法手続きなどで懲罰的に差別排除しておけば「解決」するようなものではなく 組織を構成する個人がどうして自律的な社会的責任を負わなくなったのかについての徹底した検証が必要なのである
本当に社会から暴力を根絶するために必要なのは 衆愚観念的「正義」に基づく司法手続き的懲罰ではなく むしろ暴力者がなぜ中毒的に暴力に溺れてしまうのかについて 生育環境も全て含めた徹底検証が必要なのである
重大犯罪者というのは いうなれば「人間としての大失敗」であり 失敗から学ぶことによって教訓知識として社会安全性の確立に活かすことこそが本当の社会安全性にとって優先されるべきなのであり 「死刑にしちまえ!」と怒鳴り散らして満足するというのは むしろ社会的に無責任な情動(欲望)を優先した行動であり 結局犯罪者のバカな発想と程度の差こそあれ構造は一緒である
宗教 特に仏教では「慈悲」を説き 懲罰的暴力を戒めるが 社会安全の立場 危険学や失敗学の観点からみても刑法というものは徹底した原因究明において邪魔な感情論に過ぎず 論理客観的には何の合理性も持たない「因習」なのである
刑法などの懲罰というものは ヒトという種の生物の祖先において 生存や繁殖において有利に働いた結果的に遺伝的性質として組み込まれてはいるものの 決して論理客観的合理性が伴うような都合の良いものではなく ゴリラやチンパンジーなどの「野獣」における社会正義にしかならない
ヒトが「人間」としての社会的責任行動判断選択をするために必要なのは ヒトの先天的本能習性に無意識に流されることではなく 主体的 自律的に論理客観的根拠に基づいた真理(本当のこと)を識別し理知的に行動選択をする必要がある
キングコング西野が言うような「世の中には一定数バカがいるから イタズラができないようにしておけば解決」という短絡的発想は根源的解決には全くならない
それは「一定の対策」にはなるものの 現代社会においては百均で売っている商品だけで簡単に大量殺戮も可能なのであり 大量殺戮をしようとするバカを徹底して減らすための根源的原因究明や対策にまで踏み込まなければ 本当の社会安全には結びつかない
ヒトという種の生物は 他の生物同様に自分に危害が及びそうにない危険性には興味を持たない利己性がある
主観的に「怖く」なければ安心して傍観放置する利己性があり 情動的には社会的責任判断選択を行う「人間としての社会性」は先天的には組み込まれてなどいない
ロシア人がプーチン政権を傍観放置するのも ナチス政権下のドイツ人がヒトラー政権を傍観放置したのも 日本大学田中英寿理事体制が長期に渡って温存されたのも 東京電力の無責任「体質」が作り出されたのも あらゆる「人災」には主観的安心に溺れて利己的保身を優先するヒトの先天的本能(生物学上の「社会性」)によって「組織の利益を優先」することで「個人が自律的な社会的責任を負わない」という結果を招くのである
チンパンジー同士が怒り狂って散々騒ぎまくり 脳内物質の相転移による副交感神経の活性によって観念的に「和解」するとしても それは「チンパンジーの知能程度における観念的和解」であって それはヒトの女性がDV男と「和解」したような錯覚(洗脳)状態と同じメカニズムに過ぎない
チンパンジーはゴリラやヒヒを殺害するし 虐待されて育てば虐待を連鎖もする
しかし ヒトは暴力や虐待というものが本当は良くないことであることを余程脳に認知的障害でもない限りは「わかって」いるのであって 主観的気分という無意識な情動に流されることなく主体的に行動選択可能性が存在しうるのである
「殴りたい」という主観的情動が生じたからといって 短絡的に「殴る」以外の行動選択が不可能ではなく 論理客観性(理性)によって行動抑制を「選択」することは不可能ではない
この理性による選択可能性こそが ヒトとヒト以外の生物との「意識」の根源的差異であって 山極寿一らが主張するような「先天的本能習性によって人間性を立証」することなど構造原理的に不可能な衆愚迎合的デマに過ぎない
理性は先天的本能や本性ではなく 自分の頭で「考え」なければ主体的「選択」も働かない後天的能力であり 決して先天的に組み込まれているものではない
遺伝的進化にも 生物という存在にも 目的など存在せず 常に「拡がりやすい遺伝的要素が拡がる」以上の何も促されることはない
エピジェネティクスという現象であっても 所詮は後天的には選択不可能であることに何ら違いはなく 「子供が肥満になりずらいように」といった目的に則ったエピジェネティクス現象が選べるわけでも 遺伝的要素を都合よく書き換えることにも不可能である
虐待が世代間で連鎖するのも 犯罪者の多くが幼少期に虐待を受けているという事実も あくまでヒトという種の生物の先天的性質に起因するものであり これらを抑制するために必要なのは個人の自律的判断選択以外に何もない
虐待連鎖や犯罪を当事者の「刑事責任」に丸投げしておいても一切「解決」することはなく 社会全体で「治療」を施す慈悲的サポートこそが 結果的には本当の社会安全性にもつながるのである
その実践例こそがノルウェーの「リゾート刑務所」だと言えるのであり 犯罪者の多くが「人間」として育てられなかった社会的不公平を 社会的に取り除く責務は全てのヒトに存在しているのである
犯罪者を「下」に蔑む利己性を棄てる理性こそが 「本当の」社会安全性にもつながるのであって
「情けは他人の為ならず」とは 「巡り巡って我が身の華となる」合理性に基づいた話なのである
ヒトは誰しも間違えることがある
間違えた場合に「殴る」のではなく 間違えの原因をみんなで共有して 誰もが間違えないように「ポカよけ」的対策を採ることこそが 生産現場に限らず社会のあらゆる場面において最も「効率」が良い結果をもたらすのである
東条英機を死刑にしても 麻原彰晃を死刑にしても ウラジーミル:プーチンを死刑にしても戦争がなくなるわけではない
ヒトがどういうプロセスによってバカになり 非合理な戦争破壊で満足してしまうのかについての徹底検証が必要であり
犯罪においても非合理な「懲罰」で「解決」だと倒錯しているヒトの先天的な認知上の重大な欠陥(錯覚)を認識する必要がある
Ende;