「ルッキズムは良くない」だとか言いながら
その一方で「人は見た目が9割」だとか言っているヤツが多くてうんざりする
見た目の印象で他人をランク付けするのが間違いの素であって 振り込め詐欺なんてのは電話だからこそ見た目がわからず 「話し方が丁寧だった」などという主観的印象で信じ込んで騙される
要は 主観的印象だけで物事を判断するのが間違いの素なのであって 養老孟司だのマルクス:ガブリエルの言っている内容が支離滅裂で荒唐無稽な嘘だらけであっても 主観的に安心満足感さえ与えられれば鵜呑みにして騙される
「見た目」とか「話し方が丁寧」とか「権威肩書」といった主観的印象なんてのは 大脳辺縁系によって促されるバイアス(脳電位)に過ぎず そうした無意識な脳の偏りやゆらぎを鵜呑みにしているから「無意識」だと言えるのである
個人的に好きな「見た目」とか「話し方」はあるだろう
それはあっても構わないのだが そんな主観的印象だけで物事を判断しているから何が正しいのかを論理客観的に「考え」なくなってバカになる
主観的印象とか好みといったものは個人的な好き嫌いの範疇であって 社会的に「正しい」かどうかの論理客観的な根拠には全くならない
女子社員にお茶くみ強制しておいてもバカだと安心なのかも知れないが それこそが無意識というものである
自分の中の価値観の中で どれが個人的な好き嫌いなのか どれが社会的に正しい判断なのかを区別するために理性が必要となる
理性というのは 論理客観的検証性のことですよ 略して理性という
個人的に好きな人が間違ったことを言うこともあれば
逆に個人的には大嫌いなヤツが正しいことを言うこともある
正しいのか 間違いなのか その判断に主観的印象が混入しちゃうから真偽の判断を間違えてしまうことになる
フリードリヒ:ニーチェって時折ブームになって人気が出ることがあるんだが ニーチェの言っている内容というのは基準や根拠が曖昧で 読み手が勝手に都合良くこじつけられるために気分的な安心満足感が得られて人気があるだけで 論理的根拠のある真実を見極めるためのものではなく ただの大衆迎合に過ぎない
「信念は真理の敵」だとか言っているが 信念の全てが真理ではないわけではなく 信念そのものに論理客観的な真理に基づいているかどうかが問題であって 根拠のない身勝手な正義を信念だと主観的に「思って」いるからテロだの通り魔だの戦争だの「懲罰で解決」になってしまう
「暴力や懲罰は解決にならない」という大前提を逸脱しているから 間違った信念に酔いしれ溺れてしまうのであって 論理客観的に根拠のある社会安全性とか公平性に基づいた信念がないからおかしなことになってしまう
「信念は真理の敵」なのではなくて 間違った信念を持つから間違った行動に陥るのであって 正しい信念を持つことは正しい行動選択の源であって 信念を持つこと自体を批判しているニーチェはトンチンカンなのである
ニーチェなんてのはそもそも虚無主義者であって 物事を論理客観的に追及するのが面倒臭いと思っているから 根拠もない勝手な決めつけをしているのであって そういう短絡的で精神的怠惰を促すような話の方が衆愚には人気が得られやすいわけですよ
バカは バカの言っている内容の方が満足感が得られる
それは 暴走族同士で共感共鳴しているのと同じことです
主観的に満足できさえすれば 安心して信用して鵜呑みにする
ヒトという種の生物は 先天的にバカになるように出来ている
バカになることで統率協調性を発揮して「大きな力」も発揮することができますから 結果的にバカになる習性を持った遺伝子だけが拡がりやすくなって遺ったわけです
何せバカなので 地球環境を破壊するほど「大きな力」を発揮して自滅の道を突き進んでいる
「自律」っていうのは他人に頼らず「自分で判断する」ことです
でもね 自分の主観的印象自体は自分では選べない
では どうやって本当に正しいことを「自分で判断する」ことができるのかと言えば それが「論理客観的証拠や根拠に基づいた判断」というわけです
ヒト(動物)としての意識は情動行動も含めたものですが 人間としての意識の本質とは情動に左右されることのない理性によって発揮されるのであって 何が理性で何が情動なのかを区別するのもまた理性なわけですよ
暴走族は 暴走族同士で共鳴共感していれば安心満足できるからこそ 暴走族になる
非常識な行動を常識にしているから迷惑行為で方向性も合理性もないマウンティングをかけて優越感を勝手に妄想している
養老孟司だのマルクス:ガブリエルだのを多数で信じて共感共鳴していても それが養老やガブリエルの言っている内容が真実であることの論証にはならない
科学や哲学といった 「真理(本当のこと)」というのは 多数決で決定するものではなく あくまで論理客観的根拠に基づいて見極めなければならない
私のこた嫌いでも何でも構いませんが アンタが主観的に嫌いかどうかは真偽の論拠にゃならんのですよ
それは 私の個人的好き嫌いであっても同じことです
同性愛者に対して 私はオッサン同士の同性愛が主観的に嫌いで 若い女子同士で愛し合っているのは何か萌へてしまうんですが 理論的には同性愛であることに違いはありませんから 社会的には平等に扱わないとおかしなことになる
誰であれ 主観的好き嫌いはあっても構わないけど それが短絡的に社会正義になってしまうとおかしなことになる
そこを区別するのも 結局理性なんですね
主観に過ぎない情動が優先するから自己客観性も失われてしまう
Ende;